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最後の火花 72

2015年06月08日 | 最後の火花
最後の火花 72

 好きになった同級生はお似合いの子と別れてしまったが、それぞれが直ぐに別のひとと交際をはじめた。箸にも棒にもかからない、という辞書の文字をわたしはじっと見つめる。

「ドラフト制みたいね」と家庭教師の柴田さんはいつものように野球のことで例えた。「人気がある子は複数球団が名乗りを上げる」

「ない子は?」
「名スカウトに頼るしかない。光子ちゃんの良さを発掘するスカウトだっているのよ」と言って肩を優しく叩いた。「いまの若さに追いつかないだけで、大人になったらとっても美人になる顔だよ」
「そんなのあるの?」
「あるのよ。ピークは後でやって来た方がいいでしょ。さ、勉強」

 柴田さんは才色兼備であった。男性ならば文武両道。相手のこころは紆余曲折。わたしは漢字の問題を取り上げていた。アルファベットの文字に比べると、ほぼ無数にあるように思える。憶えるのが大変だ。だが、英語の単語もそれほど覚えられない。組み合わせは無数で、脳には限りがあった。時間も限りがあって、柴田さんはその一部を割いて、わたしに教えてくれていた。

 勉強が終わって無駄話の時間になる。

「良い匂いが下からしている」と言って柴田さんは鼻を動かす素振りをする。その様子がとても可愛い。餌を見つけたリスのようだ。「そうそう大人になるって、随分とふるいにかけられる過程なんだよ。選抜の連続。でも、忘れちゃいけないのが捨てる神もいて、拾う神もいるってこと」柴田さんは基本的に楽観的なひとなのだ。そういうタイプの常としてよく笑う。

 わたしはひとりになって本を開く。ずっと選ばれないことと戦うひとびと。「日陰者ジュード」ガッツということが自分には分からないのかもしれないが、どうしても応援したくなる。ひとは目標が芽生えたり、自分がすることを内なるなにかに設定されてしまう場合がある。もうどうやっても逃れられなくなる。だが、低みへと低みへと戻るように足を引っ張られる。けん命に逃げ出そうと努力するが、ぬかるみで足を踏ん張ってしまえば、さらに足をからみ取られるのだ。そういう内容の本だった。

 もうライバルもいない。自分が設定した位置にたどりつくことだけが願いとなる。

 わたしも基本的に楽観さを手に入れようと空想してみる。弁護士になれるのは数百人もいるのだろう。望んだ学校に通えるのもひとりではない。何人もの同級生ができるのだから、数百人は受かる。しかし、落ちるひともいる。ふるいにかけられるのだ。特別な場合をのぞいて恋人もひとりだった。長女もひとり。同時に、日本には長女が無数にいる。わたしの頭は混乱する。考え自体が手に負えなくなったのでランプを消して寝ることにする。

 関心をもたないようにしても翌日、ふたりが話している姿を見て気になった。動揺もしている。だが、前の女性は気にもしていないようだった。過去のふたりは直ぐに友人になってしまったようだった。別れたら契約が物別れになったケースと同様に、素っ気なさが求められないのだろうか。素人でありつづけるわたしは空想に頼るしかない。気の合う友人と、その案件を頼まれてもいないのに俎上に持ち出して勝手に煩悶をしていた。

 ハッピー・エンドが生じない物語をせっせと読んでいる。幸福になれないことを知っていながら、なぜ、わたしはこの本を読んでいるのだろう。苦みが分かってこその大人でもある。つまりは、そのことを実生活より前に本によって試しているのか。コーヒーをたしなみ、らっきょうを食べて、お魚の内臓を食べる。山菜を食べて、塩辛をつまむ。だが、甘味こそが最大の勢力ではないのだろうか。ケーキ。チョコレート。シュークリーム。

 甘いことば。やさしい眼差し。自分にも向けてくれる誰かができるかもしれない。わたしは鏡に自分の顔を写す。柴田さんみたいに鼻を動かしてみる。だが、とても不可能だった。唇のはしが歪み、意地悪そうな顔になる。今度は耳を動かしてみる。隠れた特技だった。もう自慢してひとに見せることなどしない。そうした特技があったことをも自分自身で忘れていた。

 また夕方になって柴田さんに教わっている。勉強も終わって夕飯を食べる。

「もし仮に、好きなひとと別れて、再会するときにどういう気持ちになるの?」
「いまから心配するのは、早過ぎない?」
「一般論として」
「それこそ、千差万別だよ。憎み合うこともあるし、興味を失うことだってあるし、友人として新たな段階に入るひともいるし、元に戻ろうという力に負けるひとだっている」
「柴田さんは?」

「そんなに経験は多くないけど、過ぎたことは過ぎたことという簡単な法則。水たまりは太陽が照れば、干上がっちゃうからね」

 柴田さんはそう言ってからひとりで嬉しそうに笑った。もともとが楽天的な性格なのだ。心配とか、じくじくとか湿度の多そうなことが体内にないのだ。わたしはそう簡単にいかなそうな気がする。子ども時代になくした手袋のことをいつまでも悔やんでいた。恋人は手袋以上に大切だろう。手袋以上に温かく、親身なものなのだろう。ほんとうは何も知らないのだが。苦みと同じように。



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