傾かない天秤(7)
さゆりは休日の朝、近くのコインランドリーに行った。引っ越しの際に友人から譲り受けた洗濯機は故障している。新品を買うか、部品を交換するかで迷っている。料金はどちらも似たようなものだった。ボーナスまではしばらくある。彼女は半渇きの衣類をバッグにつめ、家まで戻る。乾燥機は使用せずに、家のベランダに干す。太陽はあらゆるものに恩恵をほどこすのだ。
彼女は化粧をしていなかった。カモフラージュのようにメガネをかけている。視力は悪くない。ベランダからの眺めはあまりよくないので、その視力のよさを有効的に利用することはできなかった。
都会は空気の汚れているところだ。山奥の新鮮な空気や、牧場ののどかな風景などあるはずもない。海も汚い。だが、地球のあらゆるものは循環している。
洗濯物を干し終えると、彼女は化粧をはじめる。まだ十時前だった。きょうはみゆきと遊園地に行く約束があるのだ。天気もよい。雨男や雨女と評する、あるいは評される人間がいる。疑いというものはおそろしいものだ。そして、ある種の人間はレッテルを貼りたがる。
玄関のカギをしめて階段を下りる。エレベーターもいらない小さな建物。彼女にはめずらしくスカートを履いていない。近くでサイレンの音がきこえる。彼女の視線は左右に揺れる。どこかで火事があるのかもしれない。だが、ここからでは煙もなく、臭いもしない。彼女の頭は直ぐにきょうの楽しみへと奪われ、誰かの悲劇の可能性を忘れてしまう。
わたしは望遠鏡を別の方向に向ける。根本的に野次馬なのだ。ビルの上階で炎があがっている。住人達は避難しているようだ。だが、火の勢いは止まりそうにない。消防隊員が到着して早速、放水作業をはじめる。彼らはこのときのために訓練しているのだ。人間は火を発明する。いや、発見する。
さゆりは電車に乗って手すりをつかんでいる。外を眺めていると遠くで火が舞い上がっているのが見えた。上空にはヘリコプターの姿も見える。だが、一瞬でその映像は過ぎ去ってしまう。乗換駅でみゆきが待っていた。彼女は火事の話をきく。
またそこから電車にのる。遊園地は近くにない。みゆきは学生のときにしたバイトの話をする。彼女もそうした場所で働いたことがある。裏方は悲しいものだ。たくさんのデートの現場を見る。プロとはサービスに徹する極意なのだ。楽しみ方の掟を知り、訊かれたことには正確な答えを用意しておかなければいけない。だからといって過剰も手控えもいけない。自分にできないことでもうまく説明できる。わたしの命は長いのだから。
入場料をふたりは払っている。わたしはその値段が妥当であるか確認する。昨年の統計を見る。資本の投資と回収する年数も調べる。同じであることを許されるのは自然の風景だけだ。昭和の行楽地はのどかだった。わたしは過去の調査時代をなつかしがっている。癒着が起きないように担当が常に変わる。必要以上の愛着は悪に傾きやすい。
アトラクションに並ぶ列ができている。むかしのソ連のマーケットのようだ。だが、両者の表情は異なっている。正反対ともいえる。期待と絶望。わたしはあの日々、ナターシャという女性を受け持っていた。品薄との戦いだ。人間は国に属す。国同士は共有より仲違いを優先させる。個人はまた別だが、いざとなれば国が中心となる。わたしはナターシャのその後を知らない。情報の管理がきびしい。しかし、望遠鏡で熱心に探せばいるだろう。時間に追われているのでその余裕がなかった。
夜になると盆踊りのようなパレードがある。ひとは一体感というものを大事にする。
「次は彼氏とくる」とみゆきが言う。さらに言い訳のようなセリフも付け足す。「ちがうのよ、きょうが楽しくなかったわけじゃないけど」
「わたしも」とさゆりがいう。さゆりは空腹になり、足が痛かった。楽しみにすら相応の仕返しがある。
彼女らは向かってすわる。遠いむかしにひとりの男性を奪い合った仲なのだ。あれは奪うということには満たなかったか? サスペンスの映画ならば、どちらかが恨みをひた隠しにして復讐の機会をうかがっている、ということにでもした方が魅惑的だが、実際はそんなにうまく運ばない。そもそも彼女らの頭から木山くんという男性はまるっきり消えていた。
食事とともにワインの小瓶をふたりで分け、いまはデザートを食べながらコーヒーを飲んでいる。一日は終わろうとしている。明日からまた仕事がある。わたしのきょうの仕事も終わる。
最後に火事の現場を見る。鎮火されている。もう少し視線をずらすとさゆりの洗濯物がベランダで揺れている。だが、ふたりが店をでると、ぽつぽつと雨が降りはじめた。ふたりは傘を用意していない。小走りで駅の改札に向かう。わたしの業務も終わった。リ・クリエーションとひとりごとを言う。自分自身の再生。遊園地を題材にした映画でも見たいが、なかなかその主題に合うものが分からなかった。交代の夜勤の観察者が来て、わたしは席をゆずる。引き継ぎのノートを見て、「火事があったんだな。災難だ」と夜の観察者は感想を漏らしてから任務に入った。
さゆりは休日の朝、近くのコインランドリーに行った。引っ越しの際に友人から譲り受けた洗濯機は故障している。新品を買うか、部品を交換するかで迷っている。料金はどちらも似たようなものだった。ボーナスまではしばらくある。彼女は半渇きの衣類をバッグにつめ、家まで戻る。乾燥機は使用せずに、家のベランダに干す。太陽はあらゆるものに恩恵をほどこすのだ。
彼女は化粧をしていなかった。カモフラージュのようにメガネをかけている。視力は悪くない。ベランダからの眺めはあまりよくないので、その視力のよさを有効的に利用することはできなかった。
都会は空気の汚れているところだ。山奥の新鮮な空気や、牧場ののどかな風景などあるはずもない。海も汚い。だが、地球のあらゆるものは循環している。
洗濯物を干し終えると、彼女は化粧をはじめる。まだ十時前だった。きょうはみゆきと遊園地に行く約束があるのだ。天気もよい。雨男や雨女と評する、あるいは評される人間がいる。疑いというものはおそろしいものだ。そして、ある種の人間はレッテルを貼りたがる。
玄関のカギをしめて階段を下りる。エレベーターもいらない小さな建物。彼女にはめずらしくスカートを履いていない。近くでサイレンの音がきこえる。彼女の視線は左右に揺れる。どこかで火事があるのかもしれない。だが、ここからでは煙もなく、臭いもしない。彼女の頭は直ぐにきょうの楽しみへと奪われ、誰かの悲劇の可能性を忘れてしまう。
わたしは望遠鏡を別の方向に向ける。根本的に野次馬なのだ。ビルの上階で炎があがっている。住人達は避難しているようだ。だが、火の勢いは止まりそうにない。消防隊員が到着して早速、放水作業をはじめる。彼らはこのときのために訓練しているのだ。人間は火を発明する。いや、発見する。
さゆりは電車に乗って手すりをつかんでいる。外を眺めていると遠くで火が舞い上がっているのが見えた。上空にはヘリコプターの姿も見える。だが、一瞬でその映像は過ぎ去ってしまう。乗換駅でみゆきが待っていた。彼女は火事の話をきく。
またそこから電車にのる。遊園地は近くにない。みゆきは学生のときにしたバイトの話をする。彼女もそうした場所で働いたことがある。裏方は悲しいものだ。たくさんのデートの現場を見る。プロとはサービスに徹する極意なのだ。楽しみ方の掟を知り、訊かれたことには正確な答えを用意しておかなければいけない。だからといって過剰も手控えもいけない。自分にできないことでもうまく説明できる。わたしの命は長いのだから。
入場料をふたりは払っている。わたしはその値段が妥当であるか確認する。昨年の統計を見る。資本の投資と回収する年数も調べる。同じであることを許されるのは自然の風景だけだ。昭和の行楽地はのどかだった。わたしは過去の調査時代をなつかしがっている。癒着が起きないように担当が常に変わる。必要以上の愛着は悪に傾きやすい。
アトラクションに並ぶ列ができている。むかしのソ連のマーケットのようだ。だが、両者の表情は異なっている。正反対ともいえる。期待と絶望。わたしはあの日々、ナターシャという女性を受け持っていた。品薄との戦いだ。人間は国に属す。国同士は共有より仲違いを優先させる。個人はまた別だが、いざとなれば国が中心となる。わたしはナターシャのその後を知らない。情報の管理がきびしい。しかし、望遠鏡で熱心に探せばいるだろう。時間に追われているのでその余裕がなかった。
夜になると盆踊りのようなパレードがある。ひとは一体感というものを大事にする。
「次は彼氏とくる」とみゆきが言う。さらに言い訳のようなセリフも付け足す。「ちがうのよ、きょうが楽しくなかったわけじゃないけど」
「わたしも」とさゆりがいう。さゆりは空腹になり、足が痛かった。楽しみにすら相応の仕返しがある。
彼女らは向かってすわる。遠いむかしにひとりの男性を奪い合った仲なのだ。あれは奪うということには満たなかったか? サスペンスの映画ならば、どちらかが恨みをひた隠しにして復讐の機会をうかがっている、ということにでもした方が魅惑的だが、実際はそんなにうまく運ばない。そもそも彼女らの頭から木山くんという男性はまるっきり消えていた。
食事とともにワインの小瓶をふたりで分け、いまはデザートを食べながらコーヒーを飲んでいる。一日は終わろうとしている。明日からまた仕事がある。わたしのきょうの仕事も終わる。
最後に火事の現場を見る。鎮火されている。もう少し視線をずらすとさゆりの洗濯物がベランダで揺れている。だが、ふたりが店をでると、ぽつぽつと雨が降りはじめた。ふたりは傘を用意していない。小走りで駅の改札に向かう。わたしの業務も終わった。リ・クリエーションとひとりごとを言う。自分自身の再生。遊園地を題材にした映画でも見たいが、なかなかその主題に合うものが分からなかった。交代の夜勤の観察者が来て、わたしは席をゆずる。引き継ぎのノートを見て、「火事があったんだな。災難だ」と夜の観察者は感想を漏らしてから任務に入った。
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