27歳-39
未来の恋人。
現在、遠い地にいる恋人。
ひとは、ひとを、断片的にしか追えない。連鎖も、変遷もみな無駄な試みだった。ずっと親しい関係のままだと思っていた友人とも、いつの間にか疎遠になった。また会えばあの状態に簡単に戻れることは知っていたが、家族や付属物が変わっていって、その状況に置くこと自体もむずかしくなるのがしばしばだった。家のローンをもう抱え込んだ友人もいる。仕事などそのひとを測る物差しではないころからの知り合いも、もう社会という仕組みの一員に正当に、完全に組み込まれていた。彼らがその社会でどれほどの能力を見せるのか、役立っているのかなど、もう友人でも分からなかった。
それでも、男同士なら、あのときの状態にまだ戻りやすかった。男女の間ではそうもいかない。終わったものは終わったものだし、はじまりそうなものは、はじまりそうな嬉しい予感が男同士では味わえない類いのものとして分かたれていた。
ぼくはアンドロイドにもサイボーグにもならなかった。人間という失敗と傷つきやすさをたっぷりと備えたものから外れなかった。その生身である限り防ぎようもない失敗を、拒否することもできずに受容し、繰り返すことを余儀なくされており、取り出せない機能として埋め込まれている自分を希美は選んでくれた。たまにかかってくる電話でその信頼の裏側のようなものが口振りから充分に理解できた。
こうなると、離れたことがまったくの無駄だとは思えなくなってくる。新鮮さというのは距離と時間のずれ(タイム・ラグ)を必要としていた。同時に誤解もそのずれが好きだった。電話の向こうで彼女は疲れていた。慣れない環境の疲労感というのは時間差で襲ってくるらしい。自分は新しい環境に足を踏み入れていないなと気付かされた。しかし、希美がいないというのも新しい環境に違いなかったのだが。
彼女の疲労を取り去ることも、なぐさめることも、笑わせることも遠くにいればできなかった。それも、言い訳のように聞こえたが、正直な気持ちだった。
ぼくらは気持ちが通じ合って電話を切ることもあれば、ケンカの最寄りという場所で会話を打ち切らせることもあった。終わったのは通話だけで、その後も不愉快さと謝罪したいという気持ちはそのままのこっていた。こんなときに、気まぐれに希美がアイスをスプーンですくって食べたなと、幸せの一瞬の幻想のようなものを思い出していた。
ぼくは窓を開けて夕日を見る。一軒家とアパートだらけの細切れの空は、海の向こうの国への思考を阻んだ。その点ではぼくの思いもアラジンのランプのころから具体的な情報を更新せずに、大まかには変更させていないようだった。ふたりは同じ町を歩く。十代の半ばのぼくらには渋谷という場所も、未知な事柄がたくさんあった。通うようになれば未知は遠退き、店の形態が変われば気付くという風になじむようにもなっていく。希美のいま見ている場所はどういう光を放っているのだろう。そこで疲れるということは、どのように身体やこころを蝕んでいき、かつ跳ね除けられる、成長させる力をぼくらにもたらすのだろう。夕日に答える義務もない。ぼくにも問い詰める権利はなかった。
味気ない夕飯を食べに外にでる。希美の部屋はいまは誰が住んでいるのだろう、とぼくは口を動かしながら考えていた。もちろん、知る権利もない。すると、ぼくが足を踏み込んではいけない場所や、考えが、たくさんあるように思えた。
孤独という状態は悪でもなかった。割合と程度による。放課後や日曜に、家の前まで自転車に乗って友人たちが集まる環境をなつかしんでいる自分もいた。約束も、計画も何一つない。ただ、友人の家の前に行くだけだ。こちらも準備も、用意も、算段もない。ただ、家のドアを開けて友人の姿を見つける。その行為がすべてだった。
あそこに孤独も思案もなかった。いつから、無頓着になれなくなっていくのだろう。
会うということは遠退いていた。ぼくらは会わないひとに関心をもつことなどできなかったはずなのだ。そこに電話が介在し、テレビの女性タレントに興味を抱き、架空のことにも幻想を覚えるようになる。だが、いまは生身のものだけが欲しかった。ただ、ここにあるもの。手で触れるもの。会話ができて、無愛想でもいいから返事をしてくれる相手。なぜ、大人はこの複雑さに耐えていけるのだろう。こんなものを文明だと信じて、持ち込んでしまったのだろう。ぼくは料理の代金を払った。思いがけなくクーポン券がつかえた。ひとはさまざまなものを発明するのだ。発明することにより距離が生じ、その距離を埋めるためにさらに別のものを発明する。それを売るために世界に出向き、それを作るのもどこか別の国なのだ。ぼくは満腹になっていた。自分が支配できるのはこの気持ちだけのような心細い感じを払い除けられなかった。休日の夜の駅は家族連れをたくさん吐き出した。同じ湯ぶねに浸かり、同じ炊飯器からご飯をよそう。目覚まし時計は家に何個、あるのだろう。ぼくには家族というものが等身大で分からなかった。そうしたかった相手は、いまは別のところにいた。
未来の恋人。
現在、遠い地にいる恋人。
ひとは、ひとを、断片的にしか追えない。連鎖も、変遷もみな無駄な試みだった。ずっと親しい関係のままだと思っていた友人とも、いつの間にか疎遠になった。また会えばあの状態に簡単に戻れることは知っていたが、家族や付属物が変わっていって、その状況に置くこと自体もむずかしくなるのがしばしばだった。家のローンをもう抱え込んだ友人もいる。仕事などそのひとを測る物差しではないころからの知り合いも、もう社会という仕組みの一員に正当に、完全に組み込まれていた。彼らがその社会でどれほどの能力を見せるのか、役立っているのかなど、もう友人でも分からなかった。
それでも、男同士なら、あのときの状態にまだ戻りやすかった。男女の間ではそうもいかない。終わったものは終わったものだし、はじまりそうなものは、はじまりそうな嬉しい予感が男同士では味わえない類いのものとして分かたれていた。
ぼくはアンドロイドにもサイボーグにもならなかった。人間という失敗と傷つきやすさをたっぷりと備えたものから外れなかった。その生身である限り防ぎようもない失敗を、拒否することもできずに受容し、繰り返すことを余儀なくされており、取り出せない機能として埋め込まれている自分を希美は選んでくれた。たまにかかってくる電話でその信頼の裏側のようなものが口振りから充分に理解できた。
こうなると、離れたことがまったくの無駄だとは思えなくなってくる。新鮮さというのは距離と時間のずれ(タイム・ラグ)を必要としていた。同時に誤解もそのずれが好きだった。電話の向こうで彼女は疲れていた。慣れない環境の疲労感というのは時間差で襲ってくるらしい。自分は新しい環境に足を踏み入れていないなと気付かされた。しかし、希美がいないというのも新しい環境に違いなかったのだが。
彼女の疲労を取り去ることも、なぐさめることも、笑わせることも遠くにいればできなかった。それも、言い訳のように聞こえたが、正直な気持ちだった。
ぼくらは気持ちが通じ合って電話を切ることもあれば、ケンカの最寄りという場所で会話を打ち切らせることもあった。終わったのは通話だけで、その後も不愉快さと謝罪したいという気持ちはそのままのこっていた。こんなときに、気まぐれに希美がアイスをスプーンですくって食べたなと、幸せの一瞬の幻想のようなものを思い出していた。
ぼくは窓を開けて夕日を見る。一軒家とアパートだらけの細切れの空は、海の向こうの国への思考を阻んだ。その点ではぼくの思いもアラジンのランプのころから具体的な情報を更新せずに、大まかには変更させていないようだった。ふたりは同じ町を歩く。十代の半ばのぼくらには渋谷という場所も、未知な事柄がたくさんあった。通うようになれば未知は遠退き、店の形態が変われば気付くという風になじむようにもなっていく。希美のいま見ている場所はどういう光を放っているのだろう。そこで疲れるということは、どのように身体やこころを蝕んでいき、かつ跳ね除けられる、成長させる力をぼくらにもたらすのだろう。夕日に答える義務もない。ぼくにも問い詰める権利はなかった。
味気ない夕飯を食べに外にでる。希美の部屋はいまは誰が住んでいるのだろう、とぼくは口を動かしながら考えていた。もちろん、知る権利もない。すると、ぼくが足を踏み込んではいけない場所や、考えが、たくさんあるように思えた。
孤独という状態は悪でもなかった。割合と程度による。放課後や日曜に、家の前まで自転車に乗って友人たちが集まる環境をなつかしんでいる自分もいた。約束も、計画も何一つない。ただ、友人の家の前に行くだけだ。こちらも準備も、用意も、算段もない。ただ、家のドアを開けて友人の姿を見つける。その行為がすべてだった。
あそこに孤独も思案もなかった。いつから、無頓着になれなくなっていくのだろう。
会うということは遠退いていた。ぼくらは会わないひとに関心をもつことなどできなかったはずなのだ。そこに電話が介在し、テレビの女性タレントに興味を抱き、架空のことにも幻想を覚えるようになる。だが、いまは生身のものだけが欲しかった。ただ、ここにあるもの。手で触れるもの。会話ができて、無愛想でもいいから返事をしてくれる相手。なぜ、大人はこの複雑さに耐えていけるのだろう。こんなものを文明だと信じて、持ち込んでしまったのだろう。ぼくは料理の代金を払った。思いがけなくクーポン券がつかえた。ひとはさまざまなものを発明するのだ。発明することにより距離が生じ、その距離を埋めるためにさらに別のものを発明する。それを売るために世界に出向き、それを作るのもどこか別の国なのだ。ぼくは満腹になっていた。自分が支配できるのはこの気持ちだけのような心細い感じを払い除けられなかった。休日の夜の駅は家族連れをたくさん吐き出した。同じ湯ぶねに浸かり、同じ炊飯器からご飯をよそう。目覚まし時計は家に何個、あるのだろう。ぼくには家族というものが等身大で分からなかった。そうしたかった相手は、いまは別のところにいた。