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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 16歳-16

2014年02月17日 | 11年目の縦軸
16歳-16

 ぼくが学校を卒業して、彼女との交際を身近なものとして意識する夏の終わりまでの期間に、自転車に乗る彼女とすれちがったときの映像をぼくは大切にする。ぼくらが無関係でいる山場なのだ。ぼくらは多くの思春期の異性に対する態度と同様に無関心を装い、挨拶もせずに通り過ぎる。そうする義務もない。だが、あのときにもう萌芽はあったのだろうか? ならば、それはいつかなくなるとも考えられるのだろうか。なくなるのは成就したときだけなのだろうか。

 ぼくらはお互いがその場所を覚えている。地点といった方が正確かもしれない。ぼくらは無関係な状態を打破し、いまはふたりで歩いている。その辺りを通過するときに、どちらからともなくあのときのことを語る。ふたりの視線のなかには互いの姿が存在していた。しかし、親しい間柄でもない以上、立ち止まってわざわざ会話することもない。だが、なつかしい甘さのようなものがある。なつかしさとは戻れない郷愁のようなものを指すのだろうか。ぼくはあの交流がない関係の当時に戻りたいとも思わないが、どこかになつかしさのようなものも感じていた。半ズボンを常用していた少年時の夏の日々のように。

 好きになるということは相手を知るというところからはじまり、知るというのは自分の世界に入っているものから選ぶという当然の理屈のことを言おうとしている。ぼくらは交際前から近隣にいるため、同じ学校にいなくなっても相手と会うチャンスがあった。だが、多くはその小さなチャンスにまで気を留めない。ぼくらは歩きながら、あの過去を振り返っている。数か月間の経過でさえ、ぼくらには話し合う過去ができる。ぼくはその分量を無制限に増やしたいと願っていた。あのとき、あなたは確かにこう言った、という詰問を知らない世界の住人のままだった、ぼくは。だから、なつかしんでもいるのだろう。

 ぼくらはある店に入る。ぼくは備え付けの雑誌置き場から一冊の雑誌を取る。若者のデートの極意を教えるような雑誌が数多くあった。女性は、こういうことをすると喜ぶ、とか、期待しているという類いのものだ。ぼくらは鵜呑みにするほど馬鹿でもなく、却下するほど愚かでもなかった。ぼくはそのサンプルとしての不特定多数の女性の感情より、この生きた目の前にいる女性の思考の方を当然のこと大事にしていた。さらには、並列におくことすら許していなかった。彼女はサンプルでもなく、その他大勢でもなかった。しかし、この有益でもない情報も傍らにおいてありがたがらなければそれなりに機能していた。だから、ぼくは雑誌を手に取って眺めていた。

 男性の視点から見た、若い男性向けの雑誌。ぼくらは別の代替案を出せるほど経験もなく、蔑視することもできないほど女性の機微に精通していなかった。笑い飛ばそうと思いながらも、どこかで参考にしていた。自分の未熟で愚かな行動を恐れながら、友人たちと親身に作戦を練る訳にもいかなかった。あとは、自分の思考と見栄とスタイルで作り上げる必要があった。ダサいという評価を恐れ、格好わるいという宣告に傷ついた。男性というのはデリケートな生き物だ。その生き物が愛すべきものを前にしている。

 この場所もぼくらの後年の思い出になるのだ。ぼくはまったく意識もしていないが。思いがけない記録を生み出してしまった十代のスポーツ選手と同じぐらいに未来に対して無知である。あれが自分のピークでもあったのだという早い時期の到達に戸惑う。今後、もっとうまくなる可能性というものを信奉する年頃なのに。

 すれ違っても会釈もしなければ、手を振り合うこともなかったふたりが向かい合っている。ぼくにはそうする権利がある。ひとつひとつ意思を確認しなくても、許される範囲がひろまっていく。ぼくは彼女の瞳だけでぼくへの好意を判断するほど長けてはおらず、常に彼女のこころの動きを心配するほど幼くもなかった。あのすれ違った日より確実にぼくは女性に優しさを示す楽しさを知っていた。はっきりいえば雑誌の提案が教えてくれたものではなく、この実体験を通して身に着けたものだった。そうすると、彼女はさらにたくさんのぼくの胸に眠っている感情を呼び覚ましてくれるのだろう。反対に、彼女もぼくといて似た気分を味わってくれているのだろうか。だが、ぼくに切実な心配もなかった。ぼくは会話という会話に夢中にならなくても、そばに彼女がいるだけで安心感を得られていた。ご主人の足もとにゆったりと寝そべる飼い犬のように目をつぶっていても動作のひとつひとつを理解していた。ひとことも話せなかったあのすれ違うふたりの間柄からは大きな変更があった。変化は常に美であり、有益であるのだという短絡的な答えになっても恥ずかしがることはない。もっと大きな変化があるのかもしれない。ぼくは早くピークを迎えたスポーツ選手の残像を忘れようとしている。怪我も負傷もなければ、優勝台に立てたのに、と淡い歓喜の瞬間を自分のものにできずにいたグラウンドに背を向けて立ち去る青年の幻の姿を。敗者だけが受け取れる記念の砂も袋に詰め込めずに手ぶらで去る姿でもある