夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(51)
翌朝、妻はいつもより遅くまで寝ていた。ぼくが愛犬との散歩から帰ってきても、まだ部屋着のままリビングで寛いで、のんびりとしていた。
「会社、行かないの?」
「今日、休みだって言ったじゃない。娘の夏休みの最後ぐらいプールに行って遊ぼうって。たまには、わたしも水着を着たいしね。由美はあなたとの思い出しか作ってなくて、母親のことを忘れちゃいそうだし。男親との狭い思い出だけど。それにね、休みの前日ぐらいしか、あんなにビールを飲まないわよ」
彼女の昨夜の摂取量は普段と変わりなかった。高い位置を常にキープしている。
「そうか、今日は仕事をお預けか。残念だな。発想はそこまで来ているのに」
「あなたも行くの?」
「そういう予定じゃないの?」
「嘘よ。冗談よ。たまにはきれいにひげでも剃って太陽を浴びなさい」
寝起きの由美が髪もぼさぼさのまま歩いて来た。
「今日、プールに行くわよ。昨日、ママ、言ったわよね?」
「うん」
本当なのだろうか? 娘は期待に胸を膨らませている態度ではなかった。いつもの、いつもの朝と同じ態度だった。大体が、子どもなんて楽しみがあれば朝から騒がしくなる生き物なのだ。
マーガレットはまだ猥雑な場所にいた。タバコの煙が部屋のなかを充満し、目に沁みて息苦しくなるほどだった。レナードはとなりの相手との会話に夢中になってしまった。そのひとが画家の能力の有無を試したことによって、この酒場に船の絵が飾られることに結果としてなった。その男性は満足している。だが、美女の絵が酒場にあっても良かったと付け加えていた。
妻はプールサイドでもビールを飲みたいと言って運転を嫌がった。だから、ぼくらは家族三人で電車に揺られている。目的地まで着くと、ポスターが貼ってあった。水着の美女が太陽のもと、健康そうに日焼けして微笑んでいる。片腕と片足を奇妙なかたちに曲げ、ジャンプをしていた。その周囲に水しぶきがきれいに舞っていた。彼女はこの写真のために何度、飛び跳ねたりしたのだろう。
「おじさん、真剣に見つめ過ぎだよ」妻は嫌悪感がいっぱいの眼差しを向けた。
「仕事をして稼ぐって、大変だなと思って。懸命に笑い、懸命にはじける」
「鼻の下を伸ばして見るひとのためよ」
「どこが伸びるの?」由美はぼくらの顔を交互に見た。
「パパの、そこの青い部分よ」妻は自分の鼻の下を優しく撫でた。
マーガレットはとなりの男性に話しかけられている。レナードはいつの間にか絵の前まで移動しており、先ほどの男性と何やら真剣な話をしているようだった。周囲の会話から察すると、その船の持ち主は数年前に他界し、この周辺では名人として名が通っていたようだった。生涯を独身で通して、ひとともあまり親しく接しなかった。その船に魔力があるとの羨望から、持ち主のいない船にみなが争って乗ってみたが、釣果はそれほどあがらなかった。道具や船ではなく、彼の長年の経験が編み出した漁の方法が失われてしまったことを、みなは、そのときになって嘆いた。もっと、しつこく付きまとっていろいろ伝授してもらえばよかったと全員が後悔した。
「その船なんだよ」と、となりの男性も言った。彼の息からアルコールの濃い匂いが発せられていた。マーガレットはなぜか亡くなった父のことを思い出していた。父はほとんど酒をたしなまなかったが、船の持ち主の寡黙さの総体が簡単に見つからない理由の裏返しとして、身近にいる目に見える横の男性をイメージしたのかもしれない。船で海に出ることは同じなのだ。レナードはそしてこちらにやっと気付いた。手にはビールの大きなジョッキが握られていた。マーガレットは自分のものを見つめる。量は、ほとんど減っていない。まったくといっていいほど減っていなかった。
「もう一杯、買ってきてよ」
妻は大きなサングラスをして、つばが頭の三倍ぐらいありそうな帽子をかぶっていた。由美は疲れたのか横で眠ってしまっている。その上を大きなタオルが覆っている。
「そんなに飲むと、ウエストに響くよ」
「大きな声で、失礼ね。これでも、由美がいる前とまったく変わっていないのよ。でも、最近、ほんの少し膨らんだかな」彼女は確かめるようにお腹をポンポンと軽く叩いた。「それに比べて、あなた、なんだか全体的に緩んできたのね。机の前ばっかりにいるからよ」
「はいはい。満員電車に乗る苦痛もしなくなったからね。痩せる思いか・・・」ぼくは立ち上がり、売店にビールを買いに行く。垢抜けない紙コップが重なっている。店員の若くて可愛い女の子は、「またですか!」という表情をした。ぼくは、たくさんの言い訳を探す。ぼくは娘とずっと水のなかにいたのだ。消費者は、我が妻なのだ。ウエストが細いままであることを自慢にしている女性が、底なしに飲んでいるのだ、と叫びたかった。
「飲みすぎて、水に入ると危険ですよ」
「優しいんですね。分かりました、気をつけます」と、ぼくは返答をした。彼女はにっこりと笑う。あのプールのポスターはこの娘でも良かったのではないのだろうか?
「あなた、暇があるとさかりの着いた猫みたいになるのね。見てたわよ」
「口が悪いよ。飲みすぎは危険だよ、と感心にも注意してくれたんだよ」
「わたしにも注意したらいいじゃない」
「してるよ」
「釣った魚には餌をあげないタイプなのよ」
「してるよ。いつも、してるよ」
「ちょっと、泳いでくる。まだ、独身だと思われてナンパされるかもよ」
妻の背中が見える。肩甲骨が動いている。姿勢も良い。大量のビールが流し込まれたのが確認できないほど、足元もふらふらとしていなくて、きちんとしている。となりで由美が寝言を言った。昨夜の初恋の唄の節回しのようだった。ぼくははじめてデートをしたときの妻の姿を思い出そうとしていた。だが、それは妻の大きなサングラスのように漆黒を通したなかにしかないのであった。誰も見通せない向こう側に。
翌朝、妻はいつもより遅くまで寝ていた。ぼくが愛犬との散歩から帰ってきても、まだ部屋着のままリビングで寛いで、のんびりとしていた。
「会社、行かないの?」
「今日、休みだって言ったじゃない。娘の夏休みの最後ぐらいプールに行って遊ぼうって。たまには、わたしも水着を着たいしね。由美はあなたとの思い出しか作ってなくて、母親のことを忘れちゃいそうだし。男親との狭い思い出だけど。それにね、休みの前日ぐらいしか、あんなにビールを飲まないわよ」
彼女の昨夜の摂取量は普段と変わりなかった。高い位置を常にキープしている。
「そうか、今日は仕事をお預けか。残念だな。発想はそこまで来ているのに」
「あなたも行くの?」
「そういう予定じゃないの?」
「嘘よ。冗談よ。たまにはきれいにひげでも剃って太陽を浴びなさい」
寝起きの由美が髪もぼさぼさのまま歩いて来た。
「今日、プールに行くわよ。昨日、ママ、言ったわよね?」
「うん」
本当なのだろうか? 娘は期待に胸を膨らませている態度ではなかった。いつもの、いつもの朝と同じ態度だった。大体が、子どもなんて楽しみがあれば朝から騒がしくなる生き物なのだ。
マーガレットはまだ猥雑な場所にいた。タバコの煙が部屋のなかを充満し、目に沁みて息苦しくなるほどだった。レナードはとなりの相手との会話に夢中になってしまった。そのひとが画家の能力の有無を試したことによって、この酒場に船の絵が飾られることに結果としてなった。その男性は満足している。だが、美女の絵が酒場にあっても良かったと付け加えていた。
妻はプールサイドでもビールを飲みたいと言って運転を嫌がった。だから、ぼくらは家族三人で電車に揺られている。目的地まで着くと、ポスターが貼ってあった。水着の美女が太陽のもと、健康そうに日焼けして微笑んでいる。片腕と片足を奇妙なかたちに曲げ、ジャンプをしていた。その周囲に水しぶきがきれいに舞っていた。彼女はこの写真のために何度、飛び跳ねたりしたのだろう。
「おじさん、真剣に見つめ過ぎだよ」妻は嫌悪感がいっぱいの眼差しを向けた。
「仕事をして稼ぐって、大変だなと思って。懸命に笑い、懸命にはじける」
「鼻の下を伸ばして見るひとのためよ」
「どこが伸びるの?」由美はぼくらの顔を交互に見た。
「パパの、そこの青い部分よ」妻は自分の鼻の下を優しく撫でた。
マーガレットはとなりの男性に話しかけられている。レナードはいつの間にか絵の前まで移動しており、先ほどの男性と何やら真剣な話をしているようだった。周囲の会話から察すると、その船の持ち主は数年前に他界し、この周辺では名人として名が通っていたようだった。生涯を独身で通して、ひとともあまり親しく接しなかった。その船に魔力があるとの羨望から、持ち主のいない船にみなが争って乗ってみたが、釣果はそれほどあがらなかった。道具や船ではなく、彼の長年の経験が編み出した漁の方法が失われてしまったことを、みなは、そのときになって嘆いた。もっと、しつこく付きまとっていろいろ伝授してもらえばよかったと全員が後悔した。
「その船なんだよ」と、となりの男性も言った。彼の息からアルコールの濃い匂いが発せられていた。マーガレットはなぜか亡くなった父のことを思い出していた。父はほとんど酒をたしなまなかったが、船の持ち主の寡黙さの総体が簡単に見つからない理由の裏返しとして、身近にいる目に見える横の男性をイメージしたのかもしれない。船で海に出ることは同じなのだ。レナードはそしてこちらにやっと気付いた。手にはビールの大きなジョッキが握られていた。マーガレットは自分のものを見つめる。量は、ほとんど減っていない。まったくといっていいほど減っていなかった。
「もう一杯、買ってきてよ」
妻は大きなサングラスをして、つばが頭の三倍ぐらいありそうな帽子をかぶっていた。由美は疲れたのか横で眠ってしまっている。その上を大きなタオルが覆っている。
「そんなに飲むと、ウエストに響くよ」
「大きな声で、失礼ね。これでも、由美がいる前とまったく変わっていないのよ。でも、最近、ほんの少し膨らんだかな」彼女は確かめるようにお腹をポンポンと軽く叩いた。「それに比べて、あなた、なんだか全体的に緩んできたのね。机の前ばっかりにいるからよ」
「はいはい。満員電車に乗る苦痛もしなくなったからね。痩せる思いか・・・」ぼくは立ち上がり、売店にビールを買いに行く。垢抜けない紙コップが重なっている。店員の若くて可愛い女の子は、「またですか!」という表情をした。ぼくは、たくさんの言い訳を探す。ぼくは娘とずっと水のなかにいたのだ。消費者は、我が妻なのだ。ウエストが細いままであることを自慢にしている女性が、底なしに飲んでいるのだ、と叫びたかった。
「飲みすぎて、水に入ると危険ですよ」
「優しいんですね。分かりました、気をつけます」と、ぼくは返答をした。彼女はにっこりと笑う。あのプールのポスターはこの娘でも良かったのではないのだろうか?
「あなた、暇があるとさかりの着いた猫みたいになるのね。見てたわよ」
「口が悪いよ。飲みすぎは危険だよ、と感心にも注意してくれたんだよ」
「わたしにも注意したらいいじゃない」
「してるよ」
「釣った魚には餌をあげないタイプなのよ」
「してるよ。いつも、してるよ」
「ちょっと、泳いでくる。まだ、独身だと思われてナンパされるかもよ」
妻の背中が見える。肩甲骨が動いている。姿勢も良い。大量のビールが流し込まれたのが確認できないほど、足元もふらふらとしていなくて、きちんとしている。となりで由美が寝言を言った。昨夜の初恋の唄の節回しのようだった。ぼくははじめてデートをしたときの妻の姿を思い出そうとしていた。だが、それは妻の大きなサングラスのように漆黒を通したなかにしかないのであった。誰も見通せない向こう側に。