夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(4)
「なる」その二文字を頭に思い浮かべ、「ある状態からある状態への推移」ということを連想させながら食後の満ち足りた気持ちを抱え歩いている。娘も同様のようで大人しくぼくの手を握り、歩いていた。将棋の駒の歩は努力した結果、葛藤しながらも金になった。
「パパ、プリンおいしかったよ。あのお店のお姉さん、パパのこと先生って呼んでたね」
「本の書き方を教えてあげていたから」
「じゃあ、パパはそれを簡単にできるの?」
エキスパート。歴戦の勇士。赤子の手をひねる?
「ほんのたまにね」
「じゃあ、わたしにも教えて」
「昼寝をしたらね」
ぼくは家に着くと薄い布団を敷き、タオルケットを娘のうえにかけた。
「パパ、本のどこか読んで」
「なにがいい?」
「愉快なやつ」
ぼくもとなりに添い寝して枕に頭をのせ、目の前の大きな活字を読み始める。すると間もなく由美のちいさな寝息が聞こえ始める。ぼくはそのまましばらくその物語を自分のために読む。仕事に戻らなければならない。だが、物語を読むことへの誘惑と、書くことの憂鬱さを比較して、より安堵と楽しみの多いほうを無条件に選んだ。人間は快楽を求める生き物なのだ。足元ではジョンも寝ていた。夏の昼。世界は音を止める。
マーガレットは図書館の自分の席の向かいの机にある忘れ物のノートに気付く。さきほどのケンという男性のもののようだった。彼女はそれも自分のバッグに一先ず入れ、明日にでも返そうと思って帰途に着いた。
マーガレットは遅い食事を母と済ませ、お風呂に入った。洗髪後の濡れた髪を乾かしながら、バックのなかのブラシを探す。すると、ケンのノートがそこから転げ落ちた。彼の書き込んだ文字が見える。その筆跡が彼のまじめさを表しているようだった。そこに自分の名前があることを発見する。さっき、彼に自分の名前を伝えた。それを彼は忘れないようにそこに記したのだろうとマーガレットは思う。だが、それだけのために自分の名前が書かれたのであろうかと悩む。そこには別の意味があるのだろうか。
「パパ、そろそろ起きないと」娘がぼくの肩を揺すっている。
「え、眠ってしまってのか。いま、何時?」
「もう、四時になるよ」
「宿題は?」
「ちゃんとした。ママが約束を守らない子がいちばん嫌いだからっていつもいうから」
「口が酸っぱくなるほど、執拗に」
「なに、パパ?」
「ごめん、手伝ってあげられなくて」
「パパの仕事は?」
「夜にする」歴戦の勇士。
「ご飯を研いでおかないとママうるさいよ。約束を守らない子がいちばん嫌いだからって」
「それが彼女の口癖だった。うん、研いだら、ジョンの散歩に行こう」
ぼくは冷水でお米を研いだ。それが済むと顔を洗い、ジョンにリードを着けた。眠りから覚めたジョンには元気がみなぎり、ぼくには反対に倦怠感があった。
「宿題、うまくいった?」
「うん、静かだったし」由美は好奇心のかたまりのようにキョロキョロとあたりを見回し犬の散歩に同行していた。同じように主婦たちもそれぞれの愛犬をひきつれ歩いていた。彼女たちは由美の愛想の良さを好ましいものと思っていた。それで、由美はアメやなにかを自分の笑顔と交換にもらった。
ぼくらは家に戻り、それから炊飯器のスイッチを入れた。これで、妻が帰ってきたら下拵えしたものを調理し、直ぐに夕飯をむかえられる。ぼくは空いた時間を無駄にしないようにパソコンの電源を入れる。
「昨日、これ、忘れてました」マーガレットは、ケンにノートを差し出す。それを受け取るときに彼は照れたような様子を見せた。その端に私の名前が書いてありましたけど、その理由は? と、マーガレットは質問したかったが、なにかが制御し結局は口について出ない。
「あ、あそこに忘れたのか、大切なことを書きなぐったのに」
大切なこと、とマーガレットは思う。
「パパ、ここにママが書いたメモがあるよ」机で人形をいじっていた娘があるものを発見する。「これ、買っておいてって、ママ、朝にそういえば言ってた」
大切なこと。書きなぐられた妻の癖のある文字が目に浮かぶ。
「なんだっけ?」
「おしょうゆとか。あとは難しい漢字で由美には読めない」
ぼくはそれをつかみ、「ちょっと、スーパーに寄って来るね。ご飯、もう直き炊けると思うから」と言って慌てて玄関を飛び出した。ケンは次の講義のために、マーガレットと会っていた部屋から飛び出した。ノートにはうっすらと女性の化粧品のような匂いがうつっていた。ケンはそれを好ましいものと感じる。ぼくはスーパーで列に並びメモとカゴのなかの品物を見比べて点検し買い物を終え、その荷物が入ったレジ袋をぶら提げ、近くのドラッグ・ストアにまた寄った。娘の弱い肌をいたわる石鹸。パパのための環境にも頭髪の栄養にも無関心のシャンプー。それらをレジに持っていくと化粧のきつめの女性がバーコードをかざした。運命を途中で切断する鎌をもつ番人のように。しかし、ぼくはその女性から発せられる匂いを好ましいものと感じていた。
「なる」その二文字を頭に思い浮かべ、「ある状態からある状態への推移」ということを連想させながら食後の満ち足りた気持ちを抱え歩いている。娘も同様のようで大人しくぼくの手を握り、歩いていた。将棋の駒の歩は努力した結果、葛藤しながらも金になった。
「パパ、プリンおいしかったよ。あのお店のお姉さん、パパのこと先生って呼んでたね」
「本の書き方を教えてあげていたから」
「じゃあ、パパはそれを簡単にできるの?」
エキスパート。歴戦の勇士。赤子の手をひねる?
「ほんのたまにね」
「じゃあ、わたしにも教えて」
「昼寝をしたらね」
ぼくは家に着くと薄い布団を敷き、タオルケットを娘のうえにかけた。
「パパ、本のどこか読んで」
「なにがいい?」
「愉快なやつ」
ぼくもとなりに添い寝して枕に頭をのせ、目の前の大きな活字を読み始める。すると間もなく由美のちいさな寝息が聞こえ始める。ぼくはそのまましばらくその物語を自分のために読む。仕事に戻らなければならない。だが、物語を読むことへの誘惑と、書くことの憂鬱さを比較して、より安堵と楽しみの多いほうを無条件に選んだ。人間は快楽を求める生き物なのだ。足元ではジョンも寝ていた。夏の昼。世界は音を止める。
マーガレットは図書館の自分の席の向かいの机にある忘れ物のノートに気付く。さきほどのケンという男性のもののようだった。彼女はそれも自分のバッグに一先ず入れ、明日にでも返そうと思って帰途に着いた。
マーガレットは遅い食事を母と済ませ、お風呂に入った。洗髪後の濡れた髪を乾かしながら、バックのなかのブラシを探す。すると、ケンのノートがそこから転げ落ちた。彼の書き込んだ文字が見える。その筆跡が彼のまじめさを表しているようだった。そこに自分の名前があることを発見する。さっき、彼に自分の名前を伝えた。それを彼は忘れないようにそこに記したのだろうとマーガレットは思う。だが、それだけのために自分の名前が書かれたのであろうかと悩む。そこには別の意味があるのだろうか。
「パパ、そろそろ起きないと」娘がぼくの肩を揺すっている。
「え、眠ってしまってのか。いま、何時?」
「もう、四時になるよ」
「宿題は?」
「ちゃんとした。ママが約束を守らない子がいちばん嫌いだからっていつもいうから」
「口が酸っぱくなるほど、執拗に」
「なに、パパ?」
「ごめん、手伝ってあげられなくて」
「パパの仕事は?」
「夜にする」歴戦の勇士。
「ご飯を研いでおかないとママうるさいよ。約束を守らない子がいちばん嫌いだからって」
「それが彼女の口癖だった。うん、研いだら、ジョンの散歩に行こう」
ぼくは冷水でお米を研いだ。それが済むと顔を洗い、ジョンにリードを着けた。眠りから覚めたジョンには元気がみなぎり、ぼくには反対に倦怠感があった。
「宿題、うまくいった?」
「うん、静かだったし」由美は好奇心のかたまりのようにキョロキョロとあたりを見回し犬の散歩に同行していた。同じように主婦たちもそれぞれの愛犬をひきつれ歩いていた。彼女たちは由美の愛想の良さを好ましいものと思っていた。それで、由美はアメやなにかを自分の笑顔と交換にもらった。
ぼくらは家に戻り、それから炊飯器のスイッチを入れた。これで、妻が帰ってきたら下拵えしたものを調理し、直ぐに夕飯をむかえられる。ぼくは空いた時間を無駄にしないようにパソコンの電源を入れる。
「昨日、これ、忘れてました」マーガレットは、ケンにノートを差し出す。それを受け取るときに彼は照れたような様子を見せた。その端に私の名前が書いてありましたけど、その理由は? と、マーガレットは質問したかったが、なにかが制御し結局は口について出ない。
「あ、あそこに忘れたのか、大切なことを書きなぐったのに」
大切なこと、とマーガレットは思う。
「パパ、ここにママが書いたメモがあるよ」机で人形をいじっていた娘があるものを発見する。「これ、買っておいてって、ママ、朝にそういえば言ってた」
大切なこと。書きなぐられた妻の癖のある文字が目に浮かぶ。
「なんだっけ?」
「おしょうゆとか。あとは難しい漢字で由美には読めない」
ぼくはそれをつかみ、「ちょっと、スーパーに寄って来るね。ご飯、もう直き炊けると思うから」と言って慌てて玄関を飛び出した。ケンは次の講義のために、マーガレットと会っていた部屋から飛び出した。ノートにはうっすらと女性の化粧品のような匂いがうつっていた。ケンはそれを好ましいものと感じる。ぼくはスーパーで列に並びメモとカゴのなかの品物を見比べて点検し買い物を終え、その荷物が入ったレジ袋をぶら提げ、近くのドラッグ・ストアにまた寄った。娘の弱い肌をいたわる石鹸。パパのための環境にも頭髪の栄養にも無関心のシャンプー。それらをレジに持っていくと化粧のきつめの女性がバーコードをかざした。運命を途中で切断する鎌をもつ番人のように。しかし、ぼくはその女性から発せられる匂いを好ましいものと感じていた。