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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(4)

2012年05月30日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(4)

「なる」その二文字を頭に思い浮かべ、「ある状態からある状態への推移」ということを連想させながら食後の満ち足りた気持ちを抱え歩いている。娘も同様のようで大人しくぼくの手を握り、歩いていた。将棋の駒の歩は努力した結果、葛藤しながらも金になった。

「パパ、プリンおいしかったよ。あのお店のお姉さん、パパのこと先生って呼んでたね」
「本の書き方を教えてあげていたから」
「じゃあ、パパはそれを簡単にできるの?」
 エキスパート。歴戦の勇士。赤子の手をひねる?
「ほんのたまにね」
「じゃあ、わたしにも教えて」
「昼寝をしたらね」
 ぼくは家に着くと薄い布団を敷き、タオルケットを娘のうえにかけた。
「パパ、本のどこか読んで」
「なにがいい?」
「愉快なやつ」

 ぼくもとなりに添い寝して枕に頭をのせ、目の前の大きな活字を読み始める。すると間もなく由美のちいさな寝息が聞こえ始める。ぼくはそのまましばらくその物語を自分のために読む。仕事に戻らなければならない。だが、物語を読むことへの誘惑と、書くことの憂鬱さを比較して、より安堵と楽しみの多いほうを無条件に選んだ。人間は快楽を求める生き物なのだ。足元ではジョンも寝ていた。夏の昼。世界は音を止める。

 マーガレットは図書館の自分の席の向かいの机にある忘れ物のノートに気付く。さきほどのケンという男性のもののようだった。彼女はそれも自分のバッグに一先ず入れ、明日にでも返そうと思って帰途に着いた。

 マーガレットは遅い食事を母と済ませ、お風呂に入った。洗髪後の濡れた髪を乾かしながら、バックのなかのブラシを探す。すると、ケンのノートがそこから転げ落ちた。彼の書き込んだ文字が見える。その筆跡が彼のまじめさを表しているようだった。そこに自分の名前があることを発見する。さっき、彼に自分の名前を伝えた。それを彼は忘れないようにそこに記したのだろうとマーガレットは思う。だが、それだけのために自分の名前が書かれたのであろうかと悩む。そこには別の意味があるのだろうか。

「パパ、そろそろ起きないと」娘がぼくの肩を揺すっている。
「え、眠ってしまってのか。いま、何時?」
「もう、四時になるよ」
「宿題は?」
「ちゃんとした。ママが約束を守らない子がいちばん嫌いだからっていつもいうから」
「口が酸っぱくなるほど、執拗に」
「なに、パパ?」
「ごめん、手伝ってあげられなくて」
「パパの仕事は?」
「夜にする」歴戦の勇士。

「ご飯を研いでおかないとママうるさいよ。約束を守らない子がいちばん嫌いだからって」
「それが彼女の口癖だった。うん、研いだら、ジョンの散歩に行こう」
 ぼくは冷水でお米を研いだ。それが済むと顔を洗い、ジョンにリードを着けた。眠りから覚めたジョンには元気がみなぎり、ぼくには反対に倦怠感があった。

「宿題、うまくいった?」
「うん、静かだったし」由美は好奇心のかたまりのようにキョロキョロとあたりを見回し犬の散歩に同行していた。同じように主婦たちもそれぞれの愛犬をひきつれ歩いていた。彼女たちは由美の愛想の良さを好ましいものと思っていた。それで、由美はアメやなにかを自分の笑顔と交換にもらった。

 ぼくらは家に戻り、それから炊飯器のスイッチを入れた。これで、妻が帰ってきたら下拵えしたものを調理し、直ぐに夕飯をむかえられる。ぼくは空いた時間を無駄にしないようにパソコンの電源を入れる。

「昨日、これ、忘れてました」マーガレットは、ケンにノートを差し出す。それを受け取るときに彼は照れたような様子を見せた。その端に私の名前が書いてありましたけど、その理由は? と、マーガレットは質問したかったが、なにかが制御し結局は口について出ない。

「あ、あそこに忘れたのか、大切なことを書きなぐったのに」
 大切なこと、とマーガレットは思う。
「パパ、ここにママが書いたメモがあるよ」机で人形をいじっていた娘があるものを発見する。「これ、買っておいてって、ママ、朝にそういえば言ってた」
 大切なこと。書きなぐられた妻の癖のある文字が目に浮かぶ。
「なんだっけ?」
「おしょうゆとか。あとは難しい漢字で由美には読めない」

 ぼくはそれをつかみ、「ちょっと、スーパーに寄って来るね。ご飯、もう直き炊けると思うから」と言って慌てて玄関を飛び出した。ケンは次の講義のために、マーガレットと会っていた部屋から飛び出した。ノートにはうっすらと女性の化粧品のような匂いがうつっていた。ケンはそれを好ましいものと感じる。ぼくはスーパーで列に並びメモとカゴのなかの品物を見比べて点検し買い物を終え、その荷物が入ったレジ袋をぶら提げ、近くのドラッグ・ストアにまた寄った。娘の弱い肌をいたわる石鹸。パパのための環境にも頭髪の栄養にも無関心のシャンプー。それらをレジに持っていくと化粧のきつめの女性がバーコードをかざした。運命を途中で切断する鎌をもつ番人のように。しかし、ぼくはその女性から発せられる匂いを好ましいものと感じていた。

壊れゆくブレイン(67)

2012年05月30日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(67)

 ぼくは、ある場所で裕紀の兄と偶然に会う。この人生で最も会いたくないひとでもあり、また、こんがらがったぼくらの間をいつかは修正したくも思っていた人物だった。それは、ぼくの一方的な思いであったが。
「なんだ、君も来てたのか」
「ええ、でも知っていたら、来ませんでした」
「そんなに意気込むことないよ。あれから、もう長いことが経った。ぼくもこれで、五十歳に間もなくなる。その間大切なひとを失った。いろいろね。そのすべてを、君のせいにして責任を押し付けるのは、なんだか面倒になった」
「面倒ですか?」

「違うな。フェアじゃないという意味だよ。叔母さんからも君のことを教えてもらった。君も相当悲しんだようだ。ぼくら以上に」
「まあ」
「それで、人生はぼくら人間だけの力、いや力量で片付くようなものでもないことに気付いてきた。君が裕紀を早死にさせるような力は付与されてない。あれは、あいつなりの運命だったのだろう。両親もそうだったのかもしれない。だが、全面的に許す気も不思議だけどない」
「当然です」
「しかし、叔母の一途な信念のようなものが、ぼくの足元を徐々に揺るがせてきた」
「ぼくと裕紀のことをいつも、一番に信頼してくれました」
「そうだね。それに、誰かを憎んだりして自分の後半生を生きることも厭になった」
「まだ、若いのに」
「娘たちに自分の妹のことを訊かれる。彼女は誰かと結婚していたのか? とかね。その時、ぼくは相手の彼のことを恨んで仕方がないとも言えずにいる。死者には平和な境地が訪れるべきなんだよ」
「そうあってほしいですね」

「君にも見せるよ」彼は、財布から写真を撮り出す。「驚くだろう?」
「ええ」ぼくは絶句というものを生まれてはじめて味わったような気がした。
「あのときの裕紀と同じ顔をしている」
「そうですね。瓜二つ」
「ぼくは、娘の顔を見るたび、裕紀から君を責めるのをやめて欲しいと言われているような気がする」
「そうでしたか」
「まあ、急に君と密接な関係も作れない。それに、ぼくらの関係は現在のところ他人であり、これまでも今後もそれが変わることはない」

「ぼくらを結び付ける当事者がいないから」
「そうだ。それに、君も結婚したんだろう? それは叔母からきいた」
「ええ、してます」
「子どもは?」
「妻にひとりの娘がいます」
「じゃあ、なんとなくぼくの気持ちは分かるわけだ」
「そうですね、彼女に対して恥ずかしくないような生き方を選びたい」ぼくは普段どこかで思っていたかもしれない言葉が不意に口に出た。

「ぼくも、死んだ妹の元旦那を憎んでいるなんて、口が裂けてもいいたくない。ひとには思いやりをもてとか、優しく接するようにとか教えているのに。ごめん、長く話しすぎた。君と話したがっているひとが待っている」彼はメモになにか書きつけ、手渡した。「裕紀は、ここにいる。もちろん、それで君のこころが慰められるわけでもないだろうけど、いつか、墓参りでもしてやってくれ。それぐらいがいまのぼくの優しさの限度だ」

「ありがとう、ございます」ぼくはそれを握り、上着のポケットにしまった。

「近藤さん、あの仕事の件ですけど・・・」直ぐに顔見知りの男性が声をかけてきた。ぼくは、いままでの数分が夢のなかの話のような気がしていた。彼はそれでもぼくを恨んでいる。ぼくはその罪過を甘んじて受けることによって、自分は正しい生き方をしているという変な理解の仕方をしていた。彼女は、とにかく三十六歳で死んだのだ。何があっても、そんなことはあってはならなかったのだ。ぼくは、その知人と話し続けながらも、裕紀の兄が見せてくれた娘の写真の印象から離れられずにいた。似ていて当然なわけだが、裕紀のもっていた純粋な優しさは彼女独自のものだと不思議と思い続けたかった。あの少女にそれは受け継がれるべきものでもないのだと思いたかった。「じゃあ、決まり次第、連絡くださいね」と、言って彼は離れた。

 それは、あるパーティーの会場だった。裕紀の兄のまわりにもたくさんのひとがいた。ぼくと彼の関係を知っているひとはいないようだった。ぼくはグラスの中味を飲み干し、新たなグラスを制服を着た女性から貰った。
「ごめんなさい、広美ちゃんの?」
「ああ、君」それは広美のバスケット・ボール部の先輩だった。もう卒業してこのホテルに就職したのだろう。うちにも何度か来てくれた子だった。
「ごめんなさい、仕事中なのに」
「いいよ」
「広美は元気ですか?」
「うん、相変わらず。また、来ると、いいよ」
「はい」と言って彼女はアルコールを望んでいるひとのために銀のトレイを持ち軽やかに歩いて行った。ぼくはこの今日のことを誰かと話したいと思いながらひとりで新たなグラスに口をつけた。それに相応しいのはなぜだか裕紀のような気がしている。君の兄は、君の優しさと同じものを持っているのかもしれない。ぼくには、義理の娘ができてね、その子の友人がぼくのことに気付いた。それは、君がいたらなかった未来だけど、とても悲しいけど、しかし、行き続けるって結局はこういうことなんだろうとも思っているんだ、と独り言のように頭のなかでこだまさせていた。意図的に。答えはなくても。