償いの書(21)
ぼくは、まだ10代だったときに、いままでのことはすべて継続すると思っていた。誰でも、そう思うだろう。そのときにまだ同じ年頃だった裕紀といくつかの約束をしていたらしい。ぼくは、そのようなことはすべて忘れてしまっている。彼女は、そのうちのいくつかを覚えていて、こんなことを言ったね? とぼくに訊いたが、そのどれをも覚えていないぼくのことに対してすこしがっかりしたような表情をした。
ぼくは意図して、そのようなことを忘れるように計ったのだろうか? それとも、自分の記憶というものはこれほどまでに不甲斐ないものかなどと思い、自分自身でもやりきれない思いがした。
3月には大きな遊園地にふたりで行った。それは、ぼくらがまだ地元にいたころ、今後行こうと約束していた場所だったらしい。くどいようだが、ぼくはそのことを忘れている。でも、深く記憶をたどれば、その日が蘇ってきそうなおぼろげな雰囲気はあった。彼女の17歳ぐらいのこと。彼女は意地なのか、誰と交際してもその場所にはいかなかったらしい。もう二度とぼくに会えないかもしれないのに、そこは彼女にとって、ぼくと行くべき場所になったのだと決めていたらしい。ぼくらは、もし仮に東京タワーのふもとで会わなかったら、彼女にとってそこは永久に未知の場所になりえたのだ。
そのことで期待以上に彼女は喜んでいた。27歳になった裕紀は、10年間待った望みを叶えていたのだ。ぼくにとって、そのような場所はあるのだろうかと考えている。それは、大体雪代と過ごしたときに経験してしまっているかもしれない。思い出の引き出しのストックには、まだ未整理のままそのような状態で雪代との思い出が氾濫していた。
ぼくらは乗り物にのり、たくさん笑い合い、彼女の新たな表情を手に入れ、ぼくの性格の一部を彼女は知ることになったのかもしれない。楽しい一日はあっという間に過ぎてしまい、夜の闇がぼくらを覆うようになる。ぼくらはひとの目を意識せずに抱き合い、ぼくの背中からこんな声が聞こえてきたような気がした。
「さんざん、彼女に苦労をかけたことだし、今の瞬間を永久なものにお前はしたくないのか? また、この女性を失うことになってもかまわないのか?」
「なんか、あった?」ぼくが背中のほうを振り向くと心配そうに彼女は言った。
「いや、なんか知っているひとのような声がしたもので」
「いた?」
「いや、いない」それは、いるはずもなかった。皆が歓声をあげ、ひかりのほうを見ていた。その言葉は、ぼくの未来から訪れて来たのかもしれないし、過去の17歳のぼくが告げに来たのかもしれない。いいや、山下か上田先輩か、もしくは智美たちのミックスした声と願望だったのかもしれなかった。
閉園が告げられ、ぼくらはとぼとぼと歩く。彼女のこころには、どのようなものがあり、また眠っているのか。そして、何を望んでいるのか知りたくてたまらなかった。暗いなかで彼女の表情が分からないように、それ以上に、彼女のこころは永久に分からないような気がした。
「さっき、わたしも何か聞こえたような気がした」
「いつ?」
「ひろし君が強く抱いてくれていたとき」
「どんなことが聞こえた」
「教えない」
「うそだろう」
「うそ。彼を手放すことになってもいいのか、とか、彼は誰かのほうに向いてしまわないのか? とかを」
「もう手放さないよ」
「ほんとうに?」ぼくは、見えもしないのに「うん」というように頷いた。
電車に乗っても、ぼくらの会話はいつもどおりに、はかどらなかった。それは、退屈であるとかつまらない状態だったとかではまったくなく、どちらも、どこからか聞こえて来てしまった声のありかをたどるかのように思いつめていたからかもしれない。ぼくは、そうだったし、彼女もその後、そう告白した。
裕紀の家のそばの駅で降り、彼女を送ることにした。そこは、ある意味、ぼくの見慣れたいるべき場所になりつつあった。そこには雪代の思い出が混入する心配はなかった。
家の前で躊躇していると、「どうしたの? 休んでいけば」という優しげなイントネーションを含んだ声で彼女がいった。
そこに入り、裕紀のいつもの匂いを確認し、ぼくはソファに座った。1杯ずつ冷えた白ワインを飲み、ぼくらは遊園地にいたときの続きのように強く抱き合った。彼女は心細げにぼくに抱かれ、身をすべてゆだねてしまったような状態になった。
「ひろし君もなんか聞こえたんでしょう? さっき。とても、不自然だったもの」
「うん。自分自身からなのか、それとも、山下や上田さんが常に裕紀の味方をしているのを知っているよね? 彼らがぼくらを後押しするように表れて、裕紀を失わないようにとアドバイスに来たような感じがした」
「そうなんだ」
ぼくらは神秘的な話をしているのではなかった。ただ、決断や選択にあやまりがないように、しかし、それは選択でもなかったのかもしれない。もう、それは決定事項でもあったのだろう。どちらも、言葉としては出さなかったが、すでに結婚というかたちがしっかりとした形でぼくらに表れ、意識をもっているように強くぼくらに要求しだしたきっかけだった。
ぼくは、まだ10代だったときに、いままでのことはすべて継続すると思っていた。誰でも、そう思うだろう。そのときにまだ同じ年頃だった裕紀といくつかの約束をしていたらしい。ぼくは、そのようなことはすべて忘れてしまっている。彼女は、そのうちのいくつかを覚えていて、こんなことを言ったね? とぼくに訊いたが、そのどれをも覚えていないぼくのことに対してすこしがっかりしたような表情をした。
ぼくは意図して、そのようなことを忘れるように計ったのだろうか? それとも、自分の記憶というものはこれほどまでに不甲斐ないものかなどと思い、自分自身でもやりきれない思いがした。
3月には大きな遊園地にふたりで行った。それは、ぼくらがまだ地元にいたころ、今後行こうと約束していた場所だったらしい。くどいようだが、ぼくはそのことを忘れている。でも、深く記憶をたどれば、その日が蘇ってきそうなおぼろげな雰囲気はあった。彼女の17歳ぐらいのこと。彼女は意地なのか、誰と交際してもその場所にはいかなかったらしい。もう二度とぼくに会えないかもしれないのに、そこは彼女にとって、ぼくと行くべき場所になったのだと決めていたらしい。ぼくらは、もし仮に東京タワーのふもとで会わなかったら、彼女にとってそこは永久に未知の場所になりえたのだ。
そのことで期待以上に彼女は喜んでいた。27歳になった裕紀は、10年間待った望みを叶えていたのだ。ぼくにとって、そのような場所はあるのだろうかと考えている。それは、大体雪代と過ごしたときに経験してしまっているかもしれない。思い出の引き出しのストックには、まだ未整理のままそのような状態で雪代との思い出が氾濫していた。
ぼくらは乗り物にのり、たくさん笑い合い、彼女の新たな表情を手に入れ、ぼくの性格の一部を彼女は知ることになったのかもしれない。楽しい一日はあっという間に過ぎてしまい、夜の闇がぼくらを覆うようになる。ぼくらはひとの目を意識せずに抱き合い、ぼくの背中からこんな声が聞こえてきたような気がした。
「さんざん、彼女に苦労をかけたことだし、今の瞬間を永久なものにお前はしたくないのか? また、この女性を失うことになってもかまわないのか?」
「なんか、あった?」ぼくが背中のほうを振り向くと心配そうに彼女は言った。
「いや、なんか知っているひとのような声がしたもので」
「いた?」
「いや、いない」それは、いるはずもなかった。皆が歓声をあげ、ひかりのほうを見ていた。その言葉は、ぼくの未来から訪れて来たのかもしれないし、過去の17歳のぼくが告げに来たのかもしれない。いいや、山下か上田先輩か、もしくは智美たちのミックスした声と願望だったのかもしれなかった。
閉園が告げられ、ぼくらはとぼとぼと歩く。彼女のこころには、どのようなものがあり、また眠っているのか。そして、何を望んでいるのか知りたくてたまらなかった。暗いなかで彼女の表情が分からないように、それ以上に、彼女のこころは永久に分からないような気がした。
「さっき、わたしも何か聞こえたような気がした」
「いつ?」
「ひろし君が強く抱いてくれていたとき」
「どんなことが聞こえた」
「教えない」
「うそだろう」
「うそ。彼を手放すことになってもいいのか、とか、彼は誰かのほうに向いてしまわないのか? とかを」
「もう手放さないよ」
「ほんとうに?」ぼくは、見えもしないのに「うん」というように頷いた。
電車に乗っても、ぼくらの会話はいつもどおりに、はかどらなかった。それは、退屈であるとかつまらない状態だったとかではまったくなく、どちらも、どこからか聞こえて来てしまった声のありかをたどるかのように思いつめていたからかもしれない。ぼくは、そうだったし、彼女もその後、そう告白した。
裕紀の家のそばの駅で降り、彼女を送ることにした。そこは、ある意味、ぼくの見慣れたいるべき場所になりつつあった。そこには雪代の思い出が混入する心配はなかった。
家の前で躊躇していると、「どうしたの? 休んでいけば」という優しげなイントネーションを含んだ声で彼女がいった。
そこに入り、裕紀のいつもの匂いを確認し、ぼくはソファに座った。1杯ずつ冷えた白ワインを飲み、ぼくらは遊園地にいたときの続きのように強く抱き合った。彼女は心細げにぼくに抱かれ、身をすべてゆだねてしまったような状態になった。
「ひろし君もなんか聞こえたんでしょう? さっき。とても、不自然だったもの」
「うん。自分自身からなのか、それとも、山下や上田さんが常に裕紀の味方をしているのを知っているよね? 彼らがぼくらを後押しするように表れて、裕紀を失わないようにとアドバイスに来たような感じがした」
「そうなんだ」
ぼくらは神秘的な話をしているのではなかった。ただ、決断や選択にあやまりがないように、しかし、それは選択でもなかったのかもしれない。もう、それは決定事項でもあったのだろう。どちらも、言葉としては出さなかったが、すでに結婚というかたちがしっかりとした形でぼくらに表れ、意識をもっているように強くぼくらに要求しだしたきっかけだった。