50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

100万ユーロを村に遺贈して100歳で逝った女性、その人生は・・・

2008-02-26 02:10:42 | パリ
去年の6月7日に100歳の天寿を全うしたフランス人女性が、ル・モンド紙(24-25日付)で一面を使って紹介されています。100万ユーロ(約1億6,000万円)を超す全財産を住んでいた村に遺贈した! ただし、奇妙な条件をつけて・・・彼女は、モーリセット(Mauricette)と呼ばれていました。彼女はどんな人生を送ったのでしょうか・・・


記事の見出しは、“La cassette de Mauricette”(「モーリセットの小さな宝石箱」、あるいは「モーリセットのへそくり」)。モーリセット、フルネームではHelene Marie Louart(エレーヌ=マリー・ルアール)、名前があまりに平凡で気の毒だということで、おばさんが彼女の父親・モーリス(Maurice)に因んでモーリセットという名前を付けてくれたそうですが、それがそのまま通称に。生まれは、1907年5月16日。フランス中部、ベリー地方(Berry)のペルヴォワザン(Pellevoisin)という小さな村です。亡くなったのもこの村です。

祖父は蹄鉄工、父は召使という家に生まれたモーリセット。しかし、1915年に父親が戦士してしまい、若くしてパリへ。母の死後、その家を売り払い、完全に故郷とは縁が切れたかに思えた彼女が再びこの村に戻ってきたのは、1964年。50代後半になっていました。里心がついたのでしょうか。大して見栄えのしない家を建て、夏のヴァカンスシーズンだけ戻ってくるようになりました。しかし一人ではなかった・・・パリで出会った恋人のイタリア人仕立て屋と一緒でした。そのふたつ年上の恋人はいかにもイタリア人らしく人懐こくて、村の連中と気軽にカード・ゲームに興じたりしていたそうですが、本心はやはりパリのほうが良い。一方、彼女もイタリアには行く気はしない。そこで、パリの17区、モンソー公園に近い、広いアパルトマンに一緒に住み、夏のひと月だけを彼女の故郷へ、というパターンになったようです。

やがて、恋人(Valere:ヴァレール)は庭で倒れてしまい、半身不随に。そして1995年8月の暑い日に、彼女を残して先立ってしまった。彼女88歳。彼の全財産を受け継いだモーリセットは、故郷に定住。一人暮らしの生活へ。

さて、このモーリセット、全財産を村に遺贈するくらいですから、さぞや優しい人物かと思いきや・・・故郷では、気難しいので有名。近所付き合いもあまりなく、何かというとすぐ怒り出す。例えば、白内障の手術を受けた際、どうも昔ほどには視力が回復していない。すると、医師に罵詈雑言。あきれた医師が自分は全能の神ではないからと言うと、モーリセットは即言い返したそうです、自分は寛大なマリア様ではない。モーリセットの口癖は、自分は施しを与えないし、施しを受けることもしない。自分にも、そして他人にも厳しいのかもしれませんね。あるいは、人間嫌い・・・

12月のあるどんより曇った日に彼女は倒れてしまう。数日入院した後は、養老院へ。それからは、養老院が大変な目に合うようになる。例によって、彼女の悪態・・・一方、村の人々は、静かな日々を。それほど、彼女の悪態は有名だったようで、近所の子どもたちは、彼女を魔法使いと呼んでいたそうです。

また、晩年、彼女の唯一の親類である姪が久しぶりに訪ねてくると、突然今頃訪ねてくるなんて、理由は見え見えだ。遺産なんか、やるもんか、と姪二人の相続権を抹消してしまった!

こんな彼女が亡くなると、数少ない付き合いのひとり、隣に住むエディットばあさん(80歳)が彼女の死装束などを整えてあげる事になっていました。モーリセットは、左右が不揃いの靴下やエディットばあさんの着古しを平気で着たりしていたので、ちょっと心配になっていたエディットばあさんが、いざタンスを開けてみると・・・ミンクのコートやアストラカンのコート、仕立てのいいスーツなどがいっぱい。隠し立ての多い人だったからとエディットばあさんは誰に言うともなく独り言を呟きながら、白いシャツにアストラカンのマントという衣装を着せ、十字架と恋人だったイタリア人仕立て屋の写真を一緒に棺の中へ。

こうしてあの世へと旅立ったモーリセットが残していったのが、遺言。さて、公証人が開いてみると・・・何と、作成した時期の異なる3通の遺書がありました。全財産を村へ遺贈するという内容は同じなのですが、条件が異なっていました。最初のは、1968年のもの。条件:①死者を弔う碑を再建し、名前のリストの最初に父の名を金色で記載すること ②村役場の建物を建て直すこと。2通目は1981年のもので、その条件は・・・①自分の住んでいた家をパリの人に売却すること ②家の正面に彼女の名を記したプレートを付けること ③墓地の糸杉の代わりに50cm以下のつげの木を植えること。そして、いよいよ最後の遺言。前の2通を取り消したうえで、新たな条件を記載。①遺産の全額で公営住宅の建設を ②自分の家はパリの人に売却すること ③村のメイン通りを共和国通りから彼女の名に因んだ名に代えること ④彼女の墓をきちんと守ること ⑤彼女の名を刻んだプレートを役場に掲げること・・・そして、すべての条件が満たされない場合は、全額を村ではなく癌撲滅団体へ寄付すること。

人口885人の村は、公営住宅を必要とはしていない。必要なのは、消防自動車と集会場のキッチン、そして街灯。しかし、村の年間予算と同程度の額、みすみす見逃す手はない。長年、助役、村長として村の運営に関わってきて、病もあいまって疲れきっていた66歳の村長も、この金額を聞いてにわかに元気を取り戻し、公営住宅の建設場所の策定に入ったそうです。なかなか現金なものですね。

しかし、それにしても、偏屈で、人付き合いが悪く、親類とも付き合いが途切れている。全くのひとりきり。そのためか、全財産を村へ。しかし、自分の名前をメイン通りに冠するようになどといった名誉欲丸見えの条件も。普段は質素に、しかし、しっかりと溜め込んでいた。家は大したものではないので、金額的にもわずかだそうですが、貴金属をしっかり溜め込んでいたそうで、100万ユーロ以上の財産。

また、遺言には付属書もあって、それには自分を描いた木炭画3枚を村長の執務室に飾ること、隣人のエディットに小額のお金と電話(古い)、庭仕事道具を上げること・・・こう記載されています。村長は早速大統領のポートレートを会議室に移動させて、彼女の肖像画を飾ったそうです。何しろ、年間予算を超える額・・・

付き合いのあった数少ない一人、村の助役の女性がいうには、モーリセットはパリを本当に愛していた。自分も若い頃パリでお針子の仕事をしていたので、その話になると彼女も嬉しそうだった。白い髪をいつもきれいにとかして、その姿はまさにパリジェンヌ・・・自分の家を売る相手をパリの人と限定していたのは、彼女のパリへの愛着からなのかもしれないですね。そして、もしかして口の悪さはパリジェンヌを真似したものなのでしょうか・・・養老院から戻ってきたモーリセットは、とても穏やかになっていたそうです。気難しさは仮面だったのでしょうか、あるいは、仮面がいつの間にか地になってしまった?

さて、1億円以上もの財産を村へ遺贈して100歳で旅立ったモーリセット。彼女の人生をどう思われますか。いろいろな解釈が出来るのでしょうね。こんな人が生きていた。こんな人生もある。やはり、最後は、セ・ラ・ヴィ、これが人生さ・・・これも人生、ひとつの生き方。皆さんの人生は、死後どのように語られることでしょうか・・・楽しみのような、心配なような・・・でも、死んでしまえば、それまで、とも言いますし・・・

ル・モンド紙は最後にこう書いています。彼女の愛したイタリア人仕立て屋が働いていた店の住所には、今も紳士服の店がある。しかし、もはや彼のことを覚えている人はいない。彼女の村、ペルヴォワザンの村には、作家のジョルジュ・ベルナノス(Georges Bernanos:1888-1948『田舎司祭の日記』などの著者)も眠っているが、その名ももはや人々の記憶の間から消えさろうとしている。


その紳士服の店です。マドレーヌ寺院のすぐ北西の通りにあります。人の人生は、歴史に残るような偉人でもない限り、必ずいつかは消え去っていくもの。だからこそ、「人生は儚く寂しい」のか、だからこそ「生きている間は精一杯に」なのか・・・答えはないのかもしれませんね。だから、人生・・・

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