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竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

冬籠る今戸の家や色ガラス  子規

2016-12-31 | 子規鑑賞
冬籠る今戸の家や色ガラス





徳富蘆花が不如帰」を発表した明治31年 子規32才の作句

年表には下記の記載がある
活動的な一年だったことが伺える
掲句の本意はなにか ただ写生であってはおもしろくないように思う

1 月給40円。
2.12 「歌よみに与ふる書」(10回,「日本」2.12~3.4)を発表し,短歌の革新運動に着手する。
3 子規庵ではじめての歌会。
3.30『新俳句』刊。
10「ほとヽぎす」を東京発行に切り替える。
(丈士)

かいつぶり 浮寐のひまも なかりけり  子規

2016-12-30 | 子規鑑賞
かいつぶり 浮寐のひまも なかりけり





子規は水鳥を詠んだ句が意外に多い
明治34年だけでも掲句をはじめに次の句が残されている

かいつぶり浮寝のひまもなかりけり
浮寝鳥平入道の天下かな
水遠く渚曲りて浮寝鳥
徳川の夢や見るらん浮寝
鴛鴦の二つ並んで浮寝かな
居る程の小鴨動かぬ浮寝かな

いづれの句も水鳥の自由な振る舞いを切り取っている

子規は翌年9月36才で没している

この明治34年には病床で精力的に次の活動が記録されている
墨汁一滴』を「日本」に連載開始
『春夏秋冬』春の部刊
病状悪化。
俳談会を子規庵で開催、出席者20名
『仰臥漫録』を執筆し始める
母と妹の不在中に自殺を思い見る。 時々絶叫号泣する。
11.6漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。
子規庵で義太夫会を催す

梟や 聞耳立つる 三千騎

2016-12-29 | 子規鑑賞
梟や 聞耳立つる 三千


堀之内の「歩兵第二十二聯隊跡」碑



子規、明治22年(1889)の句。前書きには「松山堀ノ内」とある。
堀之内(城山の南西部)は松山城の三ノ丸だったところで、
廃藩置県後は陸軍の屯所がおかれ、明治17年には歩兵第二十二連隊の用地となった。
句の「梟」は冬の季語。
梟は留鳥であるが、鳴き声の悽愴な感から、俳句では冬に配当される。
「三千騎」は第二十二連隊の兵たちをいうものであろうか。
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-486.html参照


霜よけの 笹に風吹く 畑かな 子規

2016-12-28 | 子規鑑賞
霜よけの 笹に風吹く 畑かな



笹の葉が畑に敷かれている
この笹は霜除けの藁をおさえているのだ
畑には冬野菜が植えられているのだろう
あるいは土に保存用されている野菜かもしれぬ

北風がその笹の葉を揺らしている
荒涼とした何も見えない景なのだが
子規はしっかりと農民の生活を写生している(丈士)

山茶花を 雀のこぼす 日和かな  子規

2016-12-27 | 子規鑑賞
山茶花を 雀のこぼす 日和かな




この句には鑑賞に迷うことはなさそうだ
我家にも山茶花の垣根があるが
この句の景はここ毎日の実景だ
句の巧拙は私には不明だが反論の沸くはずはない

山茶花 雀 冬のおだやかな日差し
この句材での工夫は
花弁の散るのを雀のしわざとしたことだけだと思う



松山の 城を見おろす 寒さかな   子規

2016-12-26 | 子規鑑賞
松山の 城を見おろす 寒さかな




松山の城は、市民の誰からも親しまれている「城山」の上にある。
城山は、もとは二つの山を一つの山として築城されたものである。
街のやや北よりの真ん中にあって、こんもりとして丸い。
高さ130mばかりの山である。
松山藩士の家に生まれた子規も、ふるさとに帰省するたび、
一番にこの城を見上げたことであろう。
この城より上には、高い空が広がり、
瀬戸内と言えども、空からの寒気に襲われることもしばしば。
「城を見おろす」は、子規がまるで寒気にでもなったかのような見方である。
http://blog.goo.ne.jp/kakan16/e/9ad27a5bf19490dddec257f6f158f68a

いくたびも 雪の深さを 尋ねけり   子規

2016-12-24 | 子規鑑賞
いくたびも 雪の深さを 尋ねけり 明治29年



子規が亡くなるまで病床生活を送ったのは、
東京根岸の子規(しき)庵(あん)でした。
ここで母・八重(やえ)と妹・律(りつ)の献身的な看護を受けました。
雪が降ったというのに障子がさえぎって庭のようすが見えません。
病床から動けない子規は、自分で確かめることが出来ません
そのため雪がどれくらい積もったかを聞いているのです。
「いくたびも」と詠んだところに、
雪を喜ぶ子規の気持ちが表れているようです。
子規庵にガラス障子を虚子(きょし)が入れてくれたのは、明治32年です。
子規記念博物館より