著者:田中芳樹 祥伝社ノン・ノベル 平成19年2月初版 838円(税別)
さて、田中芳樹である。
彼は、前回に読んだ「薬師寺涼子の怪奇事件簿8 水妖日にご用心」の余りの
トホホさ(そう思った訳に興味がある方は、書評をご参照下さい)に、
暫く手を出す積りは無かったのだが、行きつけの古本屋でふと手に取った
この本の帯の煽り文句
「遥か異境で、大軍勢を撃破! その知略にインドが震え懼れた
知られざる唐の英雄・王玄策!
世界史に燦然とかがやく偉業
驚異的史実にもとづく超娯楽エンターテインメント」
に惹かれて、つい買ってしまった。
(ちなみに、購入価格は450円)
後は、藤田和日郎の表紙絵であったことも、藤田ファンの身としては外せない
ポイントであった。
で、その結果はどうだったのか…。
語り口の妙、多様な表現等、作者の持ち味は流石である。
何より、王玄策という、あまり日本的には知名度の低い素材を見つけ出し、
少ない史料からここまで話を膨らませる手腕も、手馴れたものである。
何より、主人公の王玄策という男。
凄い男なのである。
かの高名な玄奘三蔵(蛇足だが、この場合、玄奘が固有名詞。三蔵は経・律・論の
三つの道を究めたもの、という意味の普通名詞である(以上、薬師寺のHPより))が、
足掛け17年掛かって往復した唐~天竺の旅(もっとも、そのうち12年は
天竺での経典収集等の時間であったが)を、生涯の間に3回も行い、成功させた
という人物なのである。
時に、西暦でいえば7世紀。
当時の事情を斟酌すると、長安を抜け、大唐帝国の支配権を脱して遥か天竺まで、
徒歩中心の旅程をこなすということは、数年にわたり道中の食料や安全の確保を
し続けるということである。
公的な使いでなく、僅かな供とともに不法出国(玄奘が出国した当時は唐は
鎖国政策を取っていたため、出国は認められなかった)した玄奘の場合は、
更に過酷だったであろうことは、想像に難くない。
十分な路銀も持てず、道中の国情も不明なものが多いという中で、
国禁を犯してまで旅立った玄奘の心情は、求法の念に満ち満ちていた
ことであろう。
(以下は、玄奘三蔵の通ったルート図。
NAMCO TRAVELのHPの大慈恩寺より)
まあこう書くと、唐の正式な国使として天竺を訪問した王玄策の場合は、
きちんとした旅団を組んで(何せ国使なのである。大唐帝国の面子もあり、
天竺の戒日王はもとより、道中の諸国に対しても、相当な礼物を持参する
必要があったため、相当な体制の使節団が編成された、という)旅に臨めた分、
楽だったのかというと、それはそれで大変であったと思われる。
参考までに、本書で取り上げられた王玄策の2回目の天竺行(このとき、
初めて王玄策は正使となる)の場合は、総勢36名のメンバーによる
使節団であったらしい。
※ 長安出立当時は44名。途中、病気その他で8名が離脱した。
以下に、本書よりその編成内容を参考までに紹介する。
正使 王玄策
副使 蒋師仁、王玄郭(王玄策の従兄弟)
学僧 智岸、彼岸
医師 1名
通訳 1名
料理人 2名
兵士 27名(護衛の他、馬や驢馬の世話、幕舎の設営その他の雑役に従事)
~ 本書 P36「第2回 彼岸師 拉薩にて公主に謁し、
智岸師 辛苦して雪山を越ゆ」より
これだけの人員を率いて、数年がかりで旅をするということは、相当な
統率力や決断力、人望が無ければ出来ないということは、自明である。
しかも、現代の旅行とは全く異なる、命の安全も十全ではない旅行なので
ある。
指揮者は使命感に満ちているかもしれないが、従卒としての兵士一人ひとり
が同じテンションを共有出来ていたかどうかまでは分からない。
きちんとした公募制と、適切な審査により選ばれたメンバーであれば、
いやそれであっても、数年に渡る旅においては、何度も挫折感や前途に
対する不安感等で、使節団の空気が不穏なものになったことであろう。
これは、シャクルトンの南極行にも十分比肩する偉業である。
※ シャクルトンについては、またいつか稿を改めて書き起したい。
それだけの随行メンバーである。
食料にしても、出立から遠からず、現地調達となったことであろう。
その場合、水は、食料はいつ、どこで入手できるのか。
そのあたりの相場はいくらぐらいか。
路銀の残額と照らし合わせて、どの時点でどこまで使ってもよいのか。
幕舎の設営に際しても、どこが安全か。
危険をもたらすものは、様々である。
自然、野生動物、そして野盗その他の人的被害…。
常にこれらに配慮を怠らず、使節団を統括していくことは、並大抵の
人材で出来ることではない。
王玄策の悩みは、更に続く。
その使節団の腹に抱えた、諸国の王への礼物についてである。
恐らくは目録等が用意されていることだろうから、馬一頭、驢馬一頭が
失われたとしても、それは礼を欠くこととなってしまう。
目録にも無いものを、唐の皇帝は送りつけたと称するのかという疑念。
あるいは、目の前の国使が中抜きしたのではという疑念。
様々な問題が生じるが故、これらの扱いには、細心の注意が払われた
ことであろう。
#面会寸前に、目録をリライトするような融通が利いていればよいのだが、
そこまでの詳細な様子は、少なくとも本書からは不明である。
更に、はしっこい部下が、こんな旅はやってられないと、馬ごと使節団から
逃亡するようなことも、考えられなくは無い。
#かなり高価な礼物であることは、間違いないだろうから、手っ取り早く
金を手にすることは出来ただろう。
(換金に行って、あっさり荷物も命も奪われるという懼れも当然有るが)
#ちなみに、どのようなものが礼物として供せられたかといえば、
「茶と絹、錦、医書や暦、それに最上質の陶器など」といったものらしい。
~ 本書 P38「第2回 彼岸師 拉薩にて公主に謁し、
智岸師 辛苦して雪山を越ゆ」より
考えれば考えるほど、艱難辛苦の種は尽きない、そうした大変な天竺行を、
一度ならず、三度も達成した男なのである。
魅力的でない訳はないではないか…。
しかしながら…
何かが、物足りない。
読後感に、消化不良感が付きまとって、離れない。
次稿にて、その思いの源泉を探ってみることとしたい。
(次稿へ続く)
さて、田中芳樹である。
彼は、前回に読んだ「薬師寺涼子の怪奇事件簿8 水妖日にご用心」の余りの
トホホさ(そう思った訳に興味がある方は、書評をご参照下さい)に、
暫く手を出す積りは無かったのだが、行きつけの古本屋でふと手に取った
この本の帯の煽り文句
「遥か異境で、大軍勢を撃破! その知略にインドが震え懼れた
知られざる唐の英雄・王玄策!
世界史に燦然とかがやく偉業
驚異的史実にもとづく超娯楽エンターテインメント」
に惹かれて、つい買ってしまった。
(ちなみに、購入価格は450円)
後は、藤田和日郎の表紙絵であったことも、藤田ファンの身としては外せない
ポイントであった。
で、その結果はどうだったのか…。
語り口の妙、多様な表現等、作者の持ち味は流石である。
何より、王玄策という、あまり日本的には知名度の低い素材を見つけ出し、
少ない史料からここまで話を膨らませる手腕も、手馴れたものである。
何より、主人公の王玄策という男。
凄い男なのである。
かの高名な玄奘三蔵(蛇足だが、この場合、玄奘が固有名詞。三蔵は経・律・論の
三つの道を究めたもの、という意味の普通名詞である(以上、薬師寺のHPより))が、
足掛け17年掛かって往復した唐~天竺の旅(もっとも、そのうち12年は
天竺での経典収集等の時間であったが)を、生涯の間に3回も行い、成功させた
という人物なのである。
時に、西暦でいえば7世紀。
当時の事情を斟酌すると、長安を抜け、大唐帝国の支配権を脱して遥か天竺まで、
徒歩中心の旅程をこなすということは、数年にわたり道中の食料や安全の確保を
し続けるということである。
公的な使いでなく、僅かな供とともに不法出国(玄奘が出国した当時は唐は
鎖国政策を取っていたため、出国は認められなかった)した玄奘の場合は、
更に過酷だったであろうことは、想像に難くない。
十分な路銀も持てず、道中の国情も不明なものが多いという中で、
国禁を犯してまで旅立った玄奘の心情は、求法の念に満ち満ちていた
ことであろう。
(以下は、玄奘三蔵の通ったルート図。
NAMCO TRAVELのHPの大慈恩寺より)
まあこう書くと、唐の正式な国使として天竺を訪問した王玄策の場合は、
きちんとした旅団を組んで(何せ国使なのである。大唐帝国の面子もあり、
天竺の戒日王はもとより、道中の諸国に対しても、相当な礼物を持参する
必要があったため、相当な体制の使節団が編成された、という)旅に臨めた分、
楽だったのかというと、それはそれで大変であったと思われる。
参考までに、本書で取り上げられた王玄策の2回目の天竺行(このとき、
初めて王玄策は正使となる)の場合は、総勢36名のメンバーによる
使節団であったらしい。
※ 長安出立当時は44名。途中、病気その他で8名が離脱した。
以下に、本書よりその編成内容を参考までに紹介する。
正使 王玄策
副使 蒋師仁、王玄郭(王玄策の従兄弟)
学僧 智岸、彼岸
医師 1名
通訳 1名
料理人 2名
兵士 27名(護衛の他、馬や驢馬の世話、幕舎の設営その他の雑役に従事)
~ 本書 P36「第2回 彼岸師 拉薩にて公主に謁し、
智岸師 辛苦して雪山を越ゆ」より
これだけの人員を率いて、数年がかりで旅をするということは、相当な
統率力や決断力、人望が無ければ出来ないということは、自明である。
しかも、現代の旅行とは全く異なる、命の安全も十全ではない旅行なので
ある。
指揮者は使命感に満ちているかもしれないが、従卒としての兵士一人ひとり
が同じテンションを共有出来ていたかどうかまでは分からない。
きちんとした公募制と、適切な審査により選ばれたメンバーであれば、
いやそれであっても、数年に渡る旅においては、何度も挫折感や前途に
対する不安感等で、使節団の空気が不穏なものになったことであろう。
これは、シャクルトンの南極行にも十分比肩する偉業である。
※ シャクルトンについては、またいつか稿を改めて書き起したい。
それだけの随行メンバーである。
食料にしても、出立から遠からず、現地調達となったことであろう。
その場合、水は、食料はいつ、どこで入手できるのか。
そのあたりの相場はいくらぐらいか。
路銀の残額と照らし合わせて、どの時点でどこまで使ってもよいのか。
幕舎の設営に際しても、どこが安全か。
危険をもたらすものは、様々である。
自然、野生動物、そして野盗その他の人的被害…。
常にこれらに配慮を怠らず、使節団を統括していくことは、並大抵の
人材で出来ることではない。
王玄策の悩みは、更に続く。
その使節団の腹に抱えた、諸国の王への礼物についてである。
恐らくは目録等が用意されていることだろうから、馬一頭、驢馬一頭が
失われたとしても、それは礼を欠くこととなってしまう。
目録にも無いものを、唐の皇帝は送りつけたと称するのかという疑念。
あるいは、目の前の国使が中抜きしたのではという疑念。
様々な問題が生じるが故、これらの扱いには、細心の注意が払われた
ことであろう。
#面会寸前に、目録をリライトするような融通が利いていればよいのだが、
そこまでの詳細な様子は、少なくとも本書からは不明である。
更に、はしっこい部下が、こんな旅はやってられないと、馬ごと使節団から
逃亡するようなことも、考えられなくは無い。
#かなり高価な礼物であることは、間違いないだろうから、手っ取り早く
金を手にすることは出来ただろう。
(換金に行って、あっさり荷物も命も奪われるという懼れも当然有るが)
#ちなみに、どのようなものが礼物として供せられたかといえば、
「茶と絹、錦、医書や暦、それに最上質の陶器など」といったものらしい。
~ 本書 P38「第2回 彼岸師 拉薩にて公主に謁し、
智岸師 辛苦して雪山を越ゆ」より
考えれば考えるほど、艱難辛苦の種は尽きない、そうした大変な天竺行を、
一度ならず、三度も達成した男なのである。
魅力的でない訳はないではないか…。
しかしながら…
何かが、物足りない。
読後感に、消化不良感が付きまとって、離れない。
次稿にて、その思いの源泉を探ってみることとしたい。
(次稿へ続く)