活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像(その5)

2008-07-11 01:12:04 | 活字の海(読了編)
木崎 喜代治著  岩波書店刊  1986年3月初版発行版  定価2900円

第三章 大臣そして国王の弁護人(その1)

主に、ルイ15世とそのモープーを中心としたその取り巻き(という表現
が悪ければ、王権絶対主義者達)と、王権に立脚しつつも自由民権へも
最大限の理解を示すものとして、マルゼルブが熾烈な戦いを続けていた
18世紀半ば。

当時、国家財政はもう壊滅的な状況となっていた。
そして、それを糊塗するかのごと、税率の上昇や新税の創設、更にそれら
を推し進める上で障壁となる、パルルマン(最高裁判所)や租税法院が
解体させられてしまった。

つまりは、マルゼルブは政治的に失脚したこととなる。

時に、1771年。

その三年後、つまり1774年にルイ15世は天然痘により死亡。
同年、ルイ16世が即位することとなる。
まだ20歳。
フランスという、巨大な国土をその双肩に担うには、そして、逼迫した
国家財政状況の中の舵取りを強いられるには、あまりに若過ぎ、かつ
経験が無さ過ぎた不幸な船出だった。

しかしながら、その若さでもって、一気に政治、経済改革を進めようと
したルイ16世は、ネッケルやテュルゴーといった改革派を積極的に
登用。そのテュルゴーの進言により、国民的人気も高かったマルゼルブが
宮内大臣として登用されることとなる。

財政改革の一環で、租税法院が復活していたため、再び院長に就任していた
マルゼルブは、当初は大臣就任を固辞していたが、テュルゴーやルイ16世
からの度重なる就任依頼をとうとう承諾し、数ヶ月という期限付き!という
奇妙な形で大臣に就任する。

なぜ彼は、大臣就任を固辞し続けていたのか?
本書では、それを、常に行政権と対を成す司法権の側にいた自分が、対立
する立場に回ることを潔しとしなかったこと。
そもそも彼が自分自身を政治家向きとは思っていなかったこと。
更には、もし政治家になったとしても、自分が理想とする改革は成し得ない
と十分に認知していたこと等を挙げている。

では、なぜ大臣就任を承諾したのか?
これについても、著者は明快な答えを出している。
一つは友人テュルゴーの政治生命を危惧したこと。
更に、国王自ら就任を要請する依頼を受けたこと。

僕は、これらを総括して彼の気持ちを表す言葉としては、ノブレス・オブリージュ
(高貴なる義務)を贈りたい。
言い古された言葉では有るが、正にこの場の彼に、これほど相相応しい言葉は
見当たらないのではないか?

彼は、就任したとしても、何の成果を成し得ず、かつ、それが自分自身に
とってマイナスの意味しか持たない(※)と十分に分かっていながら、
友を、国王を、国家を、そして人民を思い、その身を投げ出したのだ。


※ マルゼルブが国民に人望があったのは、行政権に対抗する司法権を
  振るい、国政の横暴に立ち向かい、人民を守護する存在として
  見られていたからである。

  その彼が行政側に身を翻し、かついくら外部要因とはいえ、改革が
  一向に進まないとなれば、彼に対する人望も下がらざるを得ないで
  あろう。

  自由民権思想を保護し、三部会を早くから提唱していた彼は、恐らく
  時代の趨勢を読み切っていたに違いない。

  どう考えても、自由民権は王権神授とは相容れない。
  となれば、どちらかが変質せざるを得ないのは明らかであり、
  時代の流れから見て、消え去るのは自分を含めたアンシャン・レジーム
  体制であるとも。

  そうなった時、国王の傍らに立ち、行政権を執行するということは、
  正に体制を具現化する営みであり、体制崩壊の折には真っ先に駆逐
  されるであろうことも…。

そして、その行為は、正しく彼を死へと誘ったのである。

(長くなったが、いよいよ次(その6)でラスト)

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