宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

234 菅野正男と宮澤賢治

2010年04月14日 | Weblog
    【↑Fig.1 僕は満州へ行きます(小学校の校庭で門出の答辞を読む)】
      <『土と戦ふ』(菅野正男著、満州移住協会)より>

 北上市口内(当時は江刺郡福岡村口内)出身の菅野正男というベストセラー作家がかつていたことを知った。
 菅野は
【Fig.2 『土と戦ふ』】

    <『土と戦ふ』(菅野正男著、満州移住協会)>

を著し、それが当時ベストセラーになったのだそうだ。その内容は菅野自身の満蒙開拓青少年義勇軍における経験を綴ったものであったという。

(1) 菅野正男年譜
 先ずは菅野正男の略年譜を以下に示す。
1920年2月 江刺郡福岡村口内字大鳥田で生まれる
1926年4月 口内小学校入学
1932年4月  〃 高等科入学
1934年4月 口内農業補習学校入学
1938年3月  〃 卒業
 〃  3月 内原訓練所入所
 〃  4月 渡満→北安省嫩江訓練所(第一次先遣隊)
1939年3月 満鉄哈川訓練所
 〃  5月 「土と戦ふ」新満州誌5月号発表
 〃  6月 「土と戦ふ」出版(満州版)
〃11~12月 日本に一時帰国して現地報告会(宮城・岩手)
1940年1月 「土と戦ふ」出版(文部省推薦・農民文学有馬賞)
 〃  2月 チチハル満鉄病院入院(肋膜炎)
 〃  5月  〃 退院
 〃  〃   徴兵検査第二乙種合格
1941年1月 再発入院
 〃   5月 フラルキ療養所で死亡(享年22歳)
    <主に『菅野正男小伝』(伊藤誠一著)より>

 菅野は満蒙開拓青少年義勇軍に入りたいと思って1938年(昭和13年)3月18歳で加藤完治が所長を務めていた茨城県内原訓練所に入所、そして同4月満蒙開拓青少年義勇軍の第一次先遣隊の一員として満州に渡り、1941年(昭和16年)1月21歳であっけなく亡くなってしまったことになる。

(2) 満蒙開拓青少年義勇軍
 前の年譜は『菅野正男小伝』(伊藤誠一著)を基にして記したものである。同著は「満蒙開拓青少年義勇軍」に関して次のようなことを述べている。
 四 満蒙開拓青少年義勇軍
 昭和六年(一九三一)九月の満州事変で勝利を収めた日本(関東軍)は、翌七年三月に同盟国満州国を建国しました。
 満州国の建国の理想は民族協和<五族協和・満州族・蒙古族・日本(大和)民族・漢民族・韓族>と王道楽土<有徳の君主が治める平和で楽しい土地>建設で、そのためには「日本人の移住開拓が興亜大業の基本」と国策をすすめました。
   …(中略)…
 義勇軍の役割は「国策移民の完成を助け、将来の移民地を管理し、交通線を確保し、一朝有事の際には現地後方の兵站<食糧・軍需品の供給輸送にあたる>の万全に資する」(昭和十二年十一月、満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書)とあり、満州国の防衛強化と手段開拓の労力不足を補完するものでした。

 さてこのようにして創設された満蒙開拓青少年義勇軍だが、『満蒙開拓青少年義勇軍』(上 笙一郎、中公新書)によれば、新聞や雑誌は争ってこれらを取り上げ、その国策的な意義とすばらしさを書き立て、青少年義勇軍のことを『第二の屯田兵』とか、少年達だけで編成されるところから『昭和の白虎隊と』讃えたという。そのせいか、昭和十三年の第一次募集では定員5,000名に対してその約2倍9,950名の応募があったという。

 満蒙青少年義勇軍の様子を伝える幾つか写真のを見てみる。
【Fig.3 鍬の柄を手に渡満の正装(内原訓練所での基礎的訓練を終えて愈々渡満)】

 『片手に鍬、片手に銃』を合い言葉に渡満した青少年義勇軍の
【Fig.4 大地で持つ初めての鍬】

【Fig.5 雪の中の立哨】

  <いずれも『写真集満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より>
どの写真を見ても青少年というよりはあどけなくいたいけな子供達ばかりである。

 『満蒙開拓青少年義勇軍』(上 笙一郎著、中公新書)によれば
 ・敗戦直前の在満日本開拓民 約27万人
 ・    〃      引揚げ者 約19万人

 ・敗戦直前の在満日本人   約155万人
 ・    〃   引揚げ者   約137万人
であり、
    27/155≒17%
だから在満日本人の約17%が開拓民であったが、引き上げの際に亡くなった人数は
 ・在満日本開拓民の場合 約78,500人
 ・在満日本人の場合   約176,000人
だという。すると
    78,500/176,000≒45%
となるから、上笙一郎は言う、
 在満全日本人の17%に過ぎない開拓民が、その死亡率において約50%(約45%?)を占めている事実は、何を物語るのであろうか。それは、青少年義勇軍を含む満州開拓民が、敗戦前後の時期、いかに過酷な条件のもとに置かれたかということを示すものにほかならない。
と。

 満蒙開拓青少年義勇軍の何人がはたして犠牲になったのだろうか。おそらくその数は少なくなかったはずである。

(3) 『土と戦ふ』出版
 この満蒙開拓青少年義勇軍の第一次募集に応じた一人が菅野正男であり、その経緯を後ほど日本に一時帰国して行った現地報告会で彼は次のように述べている。
 私は長男であるから義勇軍を志願しても父が許さなかった。しかし百姓として生きる信念の私には大陸の土に対する愛着と憧憬は深かった。私は三年たったら帰ってくると父を騙して渡満した。義勇軍は忠義となる第一歩である。国の為になることであり将来安定した一家をつくるのであるから、父を一時騙しても結局は孝行にもなる。
    <『菅野正男小伝』(伊藤誠一著)より>
 そして、昭和13年4月に渡満した菅野は最初は嫩江(ノンジャン)訓練所に入所、約1年後哈川(ハセン)訓練所に移ることになったがその間の体験を手記『土と戦ふ』として著した。
 この執筆に関しては、菅野自身が昭和14年の初春に川口農業補習学校時代の恩師昆野安雄に宛てた手紙の中で次のように述べている。
 実は中隊長の指導によって私は今我らの苦闘の記「土と戦ふ」を書いて居ります。未だ完成しません。題も確定した訳ではありません。私の一人決めです。私は何も書いた事もなくテンデ見当がつきません。書く前に「土と兵隊」「麦と兵隊」を読みました関係で似た様なものの下等なのが出来る様に思えてなりません。どうでも好いから最後まで書ければ此の上もない事と思って居ります。
【Fig.6 『土と戦ふ』(復刻版)】

    <『土と戦ふ』(復刻版)(菅野正男著、「土と戦ふ」刊行委員会)より>
ということであったが、出版したならばたちまち反響を呼び第2回農民文学賞受賞、文部省推薦やそうそうたる人物が推薦したようでかなりの版を重ねたという。
 その著書の一部分を拾うと
 夏の短い北満は、播種、除草、管理など各作物を一度にしなければならないので、その忙しさは又格別だ。
 私達がトーピーズ造りや壁塗りで泥を相手に汗を流してゐる時、農耕班は、春蒔き野菜の管理から、トマト、茄子などの定植と、一度に押し寄せて来て、落ちつく暇もなく働いた。農耕は建築と違って適期を外してはならないので、この頃は未明から農場へ出て働いた。
 午前二時半、幾ら夜の短い時でも未だ薄暗い。小隊から六名宛三十名の農耕班は互いに起こし合って、渡満の時持つて来た鍬を肩に、班長引率で農場に向かふ。夏とは云へ大陸の夜明けは寒さが身に沁みた。仄かに明るみかけた空には、余燼のやうに凄い光を放つて明の星が瞬いてゐる。四辺は寂として物音一つない。寝不足でぼんやりしてゐた頭が次第に冴えてくる。靴底を通して感ずる土の冷たさが心地よい。農場に着く頃はそろそろ東空が白んでくる。日中に植えると植付きが悪いから、苗は夕方から夜にかけてと、未明とに植えるのだ。

   <『土と戦ふ』(菅野正男著、満州移住協会)より>
というようなことが記されている。

(4) タイトル『土と戦ふ』について
 さて、ここで気になることが二つほどある。その一つはこの本のタイトル『土と戦ふ』である。あれっ、甚次郎の『土に叫ぶ』のタイトルと”土”がダブッテいるぞと思ったからである。
 直感で、もしかすると菅野は『土と戦ふ』出版以前に『土に叫ぶ』も読んだことがあるのではなかろうかと思ったのである。その本で菅野は甚次郎の一途な生き方と実践を知って共鳴し、それがタイトルに現れたのじゃなかろうかと思ったからである。
 因みにそれぞれの初版の出版時期は
 『土に叫ぶ』:昭和13年5月18日
 『土と戦ふ』:昭和14年6月(満州版)
であるから時間的な矛盾はない。

 一方、以前”松田甚次郎と吉田コト”で触れたように、甚次郎の生活の実践記録『土に叫ぶ』は昭和13(1938)年5月に発売されるやいなや全国の農業青年を中心に熱狂的に受け入れられてたちまちベストセラー、出版から三ヶ月もたたないうちに新国劇でとりあげるところとなり、同8月からは東京有楽座で華々しく上演された。島田省吾、辰巳柳太郎を主役に一ヶ月のロングラン、連日満員御礼を続けた。
 ところが、菅野は1938年4月にはもう渡満しているから日本には居らず、同5月に出版された『土に叫ぶ』が日本国内でベストセラーになっていることや、日本国内で農業青年を中心に熱狂的な支持を受けていることなどは知る由もなかったろう。
 したがって、菅野が『土と戦ふ』を出版する前に既に『土に叫ぶ』を読んでいたということはほぼなかったであろう。

 おそらく、菅野が出版に際して読んだという火野葦平『土と兵隊』(初版は昭和13年)といい、当時出版された『土に叫ぶ』といい何れもタイトルの出だしが『土……』となっている。そういえば、以前吉田コトのことを報告した際にも『土に叫ぶ』のタイトルの候補に『土に生きる』というのがあったということであった。多分、当時は本のタイトルに”土”を着けるが流行っていたのだろう。それが、菅野の手記のタイトルに”土”がついている大きな理由だったのだろう。先ず気になっていたことの一つはこれで得心した。

(5) 宮澤賢治からの影響
 気になったことのもう一つは、菅野正男は昭和15年2月までには少なくとも『土に叫ぶ』を読んでいたのではなかろうかということについて考えてみたい。
 『菅野正男小伝』(伊藤誠一著)によれば、
 (菅野正男は)昭和十四年内地へ帰り、強行日程の現地報告会を無事果たして、年末ぎりぎりに哈川に戻りました。
 明けて昭和十五年(一九四〇)は紀元二六〇〇年奉祝の年です。内地を見てきて新春をむかえ、正男氏は心に期するものがあります。それを恩師昆野安雄先生宛の手紙(一月五日)でみます。
 謹みて二千六百年の春をお祝い申し上げます。
 輝かしい興亜の春を迎えて大陸第二年目の光を浴びて、無窮の大空に掌を合わせ、先づ先生のご健康をお祈り申し上げます。
 昭和十四年は私に随分さまざまな課題を与えてくれました。私は出来るだけそれに解決をつけ様と努めて参りました。そして半ば片付けたと思って居ります。今年は紀元二千六百年、と言いましても別に私一個人にはかゝわりもない事ですが、やはり神武の建国から二千六百年経って今又偉大なる昭和維新満州建国がなされつゝあると思うと、何かしら一期を画する事があっても良い様な気がします。早くも渡満三年です。私も愈々兵隊に行ける年になりました。嬉しい様な淋しい様な気が致します。とにかく訓練生としての生活は今年ばかりですから、私もうんと頑張ります。そして五年後か十年後の先生と再会の日を待ちます。今度は満州でお会いするのではないか……とそんな予感が致します。

 また開拓文学者福田清人氏宛の手紙(二月)でみます。
 何から何まで福田先生のお世話になってしまい、全く御礼の申し上げ様に困ります。何しろ『土と戦う』では全然思いがけない事になって不意に人前に出されたのですから、すっかり慌てゝしまう始末です。そして何か書きたい事があって居て、中々書き出すことが出来なくなりました。これから本格的な勉強を始めたいと思って居ります。
 私達は独立の村を建設したならば先づ内地農村で衰退してしまった郷土芸術の再興に努力するでしょう。宮澤賢治の考えて居た事を私達は満州の大平野の中に実現しようとして居るのです。農村人の娯しみは農村人でつくり上げたものが一番よいと思います。それは決して文化からと遠ざかった山猿の生活をするという事ではありません。
 私達の理想はあまりにも大きく美し過ぎるかも知れません。或はその理想は半分しか遂げられないかも知れません。その時は私達の子や孫がそれをつくり上げるでしょう。私達はその土台を築くのです。

とある。

 したがって、菅野が満州の地で実現しようと思っていたことは”宮澤賢治の考えて居た事”=”農村で衰退してしまった郷土芸術の再興”ということだったのであろうが、それは”農民芸術概論”によるというよりは、『農村で衰退してしまった郷土芸術を農村人の力で再興したい』ということだから松田甚次郎が鳥越で実践していたことの方に近いイメージを私は持つ(というよりは『農民芸術概論綱要』が私にとっては難し過ぎるからなのであるが)。

 おそらく菅野は『土に叫ぶ』を読んで甚次郎の実践に共感を覚え、甚次郎は賢治を尊崇していてその”訓へ”に従って鳥越で愚直に実践していることを知ったのではなかろうかと考える。そして奇しくも賢治は福岡村口内からそう遠くない花巻の出身だということを知って、同県人の賢治をなおさら身近に感じたのではなかろうか(おそらく、松田甚次郎が『土に叫ぶ』を出版するまでは賢治は全国的にはもちろんのこと地元でさえもあまりよく知られてはいなかったはず。菅野も賢治のことは殆ど知らなかったであろう)。とまれ、菅野は『土に叫ぶ』を読んで”宮澤賢治の考えて居た事”を知り、手紙に書いたのではなかろうかと私は踏んだ。

 なぜならば、菅野が『土と戦ふ』を出版する以前であれば『土に叫ぶ』を読むことは時間的なずれから不可能だったが、昭和14年の年末に現地報告のために日本に一時帰国した頃であればそれは出来たはずだからである。まして、『土に叫ぶ』は昭和13年に発売されるやいなや全国の農業青年を中心に熱狂的に受け入れられてたちまちベストセラーになっていたから、似たようなタイトルの『土と戦ふ』を昭和14年6月に満州版を出版した菅野にすれば、日本に戻っていたときに『土に叫ぶ』を読まなかったことはあり得ないと思うからである。

 もちろん”宮澤賢治の考えて居た事”を恩師の昆野から伝え聞いていたという可能性もあるかも知れないが、菅野と甚次郎の考え方・生き方がかなり通底していることに鑑みれば、福田宛の手紙に
 宮澤賢治の考えて居た事を私達は満州の大平野の中に実現しようとして居るのです。
と認めていたのは、甚次郎の『土に叫ぶ』から”宮澤賢治の考えて居た事”を読み取ったのではなかろうかと思ったのである。

 という訳で気になっていた二つ目のことも私としてはこれで良しとしたい

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