下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
235 『白髭水』
<↑Fig.1 「早池峰と賢治」展示館展示パネル『河原の坊』より>
このブログの先頭の『河原の坊』のパネルの中に
河原の坊は宝治元年(1244←1247?)8月の白髭水によって流失してしまったと伝えられ、賢治は「河原坊(山脚の黎明)」という詩の中で、…この伝説を知っていたと思われるのです。
という説明がある。さてこの文章の中に出ている『白髭水』とは具体的にはどのようなものであろうかと思っていたところ、たまたま『花巻の伝説 上』の中に次のような伝説があった。まさしくそのことであった。
『白ひげ水』
…
川原の坊は、その名が示すように、むかし、一宇の庵寺のあった所である。奥州を巡歴していた快賢という僧が、早池峰山に登って、その霊場であることに感銘して建てたものである。
…
前述の川原の坊の建物は、宝治元年(一二四七)八月に起こった大洪水によって流されている。この洪水については、次のような伝説が残されている。
川原の坊の堂守が、ある夜、つれづれなるままに餅を火のまわりに並べて焼いていた。すると、そこへ、どこからともなく一人の山姥がやって来て、堂守のそばに座り、しばらく火にあたっていた。
その山姥は、雪のように白い髪をおどろに振り乱し、まゆ毛もまた白く長く、大きな両眼はらんらんと光って、その口は耳元辺りまでもあるかと思われるほど広く裂けていた。
堂守が、生きた心地もなく、じっとしていると、山姥は、そのうちに、いろりにあぶっておいた餅を片っぱしから取り上げて、一つ残らずみな食べてしまった。そして、そばに置いてあったとくりの酒まで、快さそうにみな飲んでしまうと、どこへともなく去っていった。
せっかく楽しみに用意しておいた餅や酒を、勝手に残らず飲み食いされてしまったので、堂守はすっかり腹を立てた。いろいろと考えた末に、その翌日、川原へ出て餅に似た丸くて白い石を拾って、日暮れから火の中に入れて赤くなったところを取り出し、餅のように見せて、いろりのわきに置いた。また、とくりには油を入れて、夜の更けるのを待った。
すると、果たしてまた、その夜も、山姥がやってきて、またぞろ前に手を出して、焼けた石を口にほうり込み、またとくりを持ち上げて、その中の油を飲み込んだ。すると、たちまち、山姥の口からは火焔が吹き出し、全身を焼ながら苦しみもだえた。山姥は、悪鬼のような形相となって、
「おのれ、よくもはかったな。いまに思い知らせてくれるぞ」
と叫ぶと、どこへともなく飛び去った。
凄まじい大雨が降り出したのは、その夜半のことであった。それからというもの、その大雨は、七日七夜にわたって、数刻の休みもなく降りに降りつづけた。山々は鳴動して水を噴き、水は谷という谷に満ちあふれて、濁流は山野に渦を巻いた。
川原の坊はいうにおよばず、早池峰山の頂上の社殿も鳥居も、この洪水によって、全てことごとく押し流されてしまった。このときの洪水はまた、岳川の貫流する大迫の町の相貌を変え、その本流が西に下って北上川に入ると、花巻市矢沢の胡四王山麓を荒れ狂って、更にその西南、花巻の鳥谷ヶ崎城の搦め手門まで押し流している。
このときのこと、稗貫川(岳川はその下流の中居川と合流し、稗貫川と名を変える)の濁流の上を、一人の白ひげの翁が、流れる家の屋根に乗って流れ下り、やがて北上川に出ると、何やらのびやかに歌いながら過ぎてゆくのを見たという者が、何人もあった。このときの洪水が「白ひげ水」といわれているのは、そのためである。
…
<『花巻の伝説 上』(及川惇著、図書刊行会)より>
前回の”笛貫の滝”の伝説といい今回のこの伝説といい、賢治はおそらく沢山の伝説を知っていたと思われる。一体、宮澤賢治はどのようにしてこのような伝説を知り得たのであろうか、興味の湧くところである。
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河原の坊は宝治元年(1244←1247?)8月の白髭水によって流失してしまったと伝えられ、賢治は「河原坊(山脚の黎明)」という詩の中で、…この伝説を知っていたと思われるのです。
という説明がある。さてこの文章の中に出ている『白髭水』とは具体的にはどのようなものであろうかと思っていたところ、たまたま『花巻の伝説 上』の中に次のような伝説があった。まさしくそのことであった。
『白ひげ水』
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川原の坊は、その名が示すように、むかし、一宇の庵寺のあった所である。奥州を巡歴していた快賢という僧が、早池峰山に登って、その霊場であることに感銘して建てたものである。
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前述の川原の坊の建物は、宝治元年(一二四七)八月に起こった大洪水によって流されている。この洪水については、次のような伝説が残されている。
川原の坊の堂守が、ある夜、つれづれなるままに餅を火のまわりに並べて焼いていた。すると、そこへ、どこからともなく一人の山姥がやって来て、堂守のそばに座り、しばらく火にあたっていた。
その山姥は、雪のように白い髪をおどろに振り乱し、まゆ毛もまた白く長く、大きな両眼はらんらんと光って、その口は耳元辺りまでもあるかと思われるほど広く裂けていた。
堂守が、生きた心地もなく、じっとしていると、山姥は、そのうちに、いろりにあぶっておいた餅を片っぱしから取り上げて、一つ残らずみな食べてしまった。そして、そばに置いてあったとくりの酒まで、快さそうにみな飲んでしまうと、どこへともなく去っていった。
せっかく楽しみに用意しておいた餅や酒を、勝手に残らず飲み食いされてしまったので、堂守はすっかり腹を立てた。いろいろと考えた末に、その翌日、川原へ出て餅に似た丸くて白い石を拾って、日暮れから火の中に入れて赤くなったところを取り出し、餅のように見せて、いろりのわきに置いた。また、とくりには油を入れて、夜の更けるのを待った。
すると、果たしてまた、その夜も、山姥がやってきて、またぞろ前に手を出して、焼けた石を口にほうり込み、またとくりを持ち上げて、その中の油を飲み込んだ。すると、たちまち、山姥の口からは火焔が吹き出し、全身を焼ながら苦しみもだえた。山姥は、悪鬼のような形相となって、
「おのれ、よくもはかったな。いまに思い知らせてくれるぞ」
と叫ぶと、どこへともなく飛び去った。
凄まじい大雨が降り出したのは、その夜半のことであった。それからというもの、その大雨は、七日七夜にわたって、数刻の休みもなく降りに降りつづけた。山々は鳴動して水を噴き、水は谷という谷に満ちあふれて、濁流は山野に渦を巻いた。
川原の坊はいうにおよばず、早池峰山の頂上の社殿も鳥居も、この洪水によって、全てことごとく押し流されてしまった。このときの洪水はまた、岳川の貫流する大迫の町の相貌を変え、その本流が西に下って北上川に入ると、花巻市矢沢の胡四王山麓を荒れ狂って、更にその西南、花巻の鳥谷ヶ崎城の搦め手門まで押し流している。
このときのこと、稗貫川(岳川はその下流の中居川と合流し、稗貫川と名を変える)の濁流の上を、一人の白ひげの翁が、流れる家の屋根に乗って流れ下り、やがて北上川に出ると、何やらのびやかに歌いながら過ぎてゆくのを見たという者が、何人もあった。このときの洪水が「白ひげ水」といわれているのは、そのためである。
…
<『花巻の伝説 上』(及川惇著、図書刊行会)より>
前回の”笛貫の滝”の伝説といい今回のこの伝説といい、賢治はおそらく沢山の伝説を知っていたと思われる。一体、宮澤賢治はどのようにしてこのような伝説を知り得たのであろうか、興味の湧くところである。
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