宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

383 菊池信一のことを少し

2011年07月09日 | Weblog
                  《1↑『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著、高橋印刷)>

 この度板垣寛氏の著書『賢治先生と石鳥谷の人々』を読むことが出来た。その中には宮澤賢治にかわいがられ、信頼も厚かった教え子の菊池信一に関することが多く語られていた。
《2 菊池信一》

       <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著、高橋印刷)より>

1.板垣寛氏と菊池信一
 著者の板垣寛氏は亮一氏のご子息であり、この板垣亮一氏は菊池信一と親友であった。それゆえ板垣亮一氏は菊池信一のことを良く知っていたし、ご子息の寛氏も菊池信一本人を直接見ていて同著で次のように語っている。
  この菊池信一さんについての私の印象は、それもただ一度の思い出であるが、幼い日の真冬日の午前中、栗毛馬に乗って来られた時の勇姿である。
 当時、萱葺き屋根の曲がり屋の我が家に来られて、垣根に馬をつなぎ、縁側に腰を掛けて父、亮一(平成六年一月没)とかなり長い時間を話し合っていたものであった。おそらく、私が三歳頃であったろう。…(略)…
 父が後に、私ども家族に話しをしてくれたことは、あの馬上の人物こそ町内の大地主「東田屋」家のご長男、菊池信一さんであったとのことである。
 この菊池さんは、明治四二年九月一日生まれであり、私の父、亮一は同年七月二十三日生まれであることから、小学校でわずか一年間ではあったが席を並べて勉学し、花巻農学校に開設された「岩手国民学校」では寝食を共にし、賢治先生から学んだ教え子であったことから、何かと親しくしていただいたのである。

          <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著、高橋印刷)より>
 そうか、そういえば何かの本で菊池信一は立派な馬に乗っていたものだと書いてあったことをいま思い出したが、たしかにそうだったのだ。また、菊池信一は豪農の息子だったのだということも初めて知った。ならばたしかに馬にも乗って颯爽とあちこちを駆け回っていたのも宜なるかなと思った。因みに著者の板垣寛氏からは、菊池信一の家には当時七町もの田圃があったということを教えてもらった。

2.板垣亮一と菊池信一
 板垣寛氏同様、父亮一氏も書を著しており、その著書「賢治と私」から引用して『賢治先生と石鳥谷の人々』の中に次のようなエピソードなどを紹介している。
 (1)私と信一との出会い
 大瀬側小学校に高等科が設置されていなかったので、尋常科を大正十一年に卒業した私達は、好地尋常高等小学校へ入学した。
 隣の小さな小学校から来たということで、何となく肩身のせまい気がしたことを覚えている。
 好地小学校では、昼食になると家に帰って食事をする生徒が多く、教室に残って弁当を開くのは私達と町の遠いところから通学している生徒だけであった。
 「俺は、東田屋十万石の殿様の後裔、菊池信一だ」と机の上にあぐらをかいて、大きな声で叫ぶ変わった生徒がいた。
 小さな学校の静かな雰囲気の中から来た私はびっくりしたのであったが、その信一と一番先に親しくなったのは不思議であった。
 山菜の出る頃には、信一の呼びかけで隣の善一と三人で山に行き一日楽しんだものである。

                 <同著より>
とか
  (4)新しい賢治の生き方
 …(略)…
 「農学校はどうして退職したんだ」
と聞いたら、信一は、
 「岩手国民高等学校の舎監、高野主事と農業経営なのか学校経営なのか分からないが、議論したことが原因のようだ。岩手県国民高等学校の卒業式が三月二十七日であったが同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた」
と話していた。
 その年の入学式の日に、
 「私は、今後この学校には来ません」
廊下と講堂の入り口に、賢治自筆の紙が貼ってあったという。
 この紙を見て退職を知ったと、東和町の小田島留吉氏が話していた。…(略)

                 <同著より>
ということを。
 この前者からは幼い頃の菊池信一のガキ大将ぶりを、後者からは自筆の張り紙をした賢治の意外な行動を知ることが出来た。

3.賢治から菊池信一宛の書簡
 最後に、『賢治先生と石鳥谷の人々』の中の章〝三、書簡と年譜〟の中に賢治から信一宛の書簡が載せてあったがその中に二通ほど気になるものがあったのでそのことを少し述べたい。

 その一つ目は
 昭和二年三月十六日
  羅須地人協会から葉書
  石鳥谷 田屋農園 菊池信一様
 ばらの苗が来て居ります。廿日なればみんなも集まってゐませう。お知らせまで。

というものである。気になったのは、この葉書を出した場所が〝羅須地人協会〟となっていたからである。
 以前〝「羅須地人協会」のゴム印〟において冨手一宛の書簡の発送元として
  『羅須地人協會 岩手縣稗貫郡下根子』
のゴム印が押してあったことに触れたが、もしかするとこの葉書にもこのゴム印が押してあったのではなかろうかということを思い付いたのである。
 そこで『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)で確認してみようと思ったのだが、この書簡は現在は所在が不明だということであった。というわけで残念ながら最早確認できそうにないが、おそらくその可能性は高いと見た。

 さらにこの書簡の中味〝廿日なればみんなも集まってゐませう〟から、昭和2年3月20日には羅須地人協会で集会が開かれたのではなかろうか、ということが推測できる。
 そこで念のため『校本』年譜で確認してみたならばそこには
 三月二〇日(日) 羅須地人協会。「エスペラント」か、あるいは「地人芸術概論」か。
とあった。
 そういえば以前〝楽団解散〟の先頭に掲げた『1月10以降の講義予定表』の中に
 三月中 「エスペラント」「地人芸術概論」
とあったが、ふ~むこれに相等しているのか。
 つい、2月1日の岩手日報の記事により羅須地人協会の活動は低迷していったとばかり思っていたのでもしかするとこの〝三月中…〟は予定に過ぎず、果たして実施されたのだろうかと実は正直疑っていた。ところが3月16日付けのこの書簡で3月20日の集会の実施に言及しているわけだから、楽団活動はきっぱりと止めてしまったのだが講義の方は少なくとも3月20日までは続けていたということがこれで確信できた。ひいては昭和2年の1月から3月20日の間は、10日おきに集会を定期的に開いていたであろうということがかなりの確度で言えそうだ。

 気になった二つ目は
 昭和五年十一月廿二日
  菊池信一宛(謄写版)
   岩手縣稗貫郡下根子 羅須地人協会

のものであり、その中味は以前『〝定期の集まり〟案内状(T15/11/22付)』で示した「案内状」
 一、今年は作も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでしたが、
  いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も来ませうから、農業
    …(略)…
  五、それではご健闘を祈ります。       宮沢賢治

と同一のものである。なお、この書簡⑧は『校本』書簡集には書簡としては載っていないようだ。
 もちろん、ここでの〝昭和五年十一月廿二日〟の日付はほぼ間違いで正しくは〝大正十五年十一月廿二日〟であろう。がそのことはさておき、伊藤忠一へ近所の人に配ってくれるように頼んだというこの「案内状」は、遠くの菊池信一には〝羅須地人協会〟から郵送で案内されたということになる。
 
 よって以上の書簡①と⑧および前の冨手一宛の書簡より、賢治は書簡の発送元として少なくとも大正15年の11月以降しばしば〝羅須地人協会〟(それもおそらくゴム印のそれ)を用いていたであろうということがこれらのことより言えそうだ。

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