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380 『イーハトーヴォ(第一期)』から(その1)

                        《↑『イーハトーヴォ(第一期)』》

 このたび『イーハトーヴォ(第一期)』の中味を見ることが出来た。興味深い事柄が少なからずあったが、中でも松田甚次郎関連の記事が多いことにである。
 昨今は松田甚次郎のことを賢治の周辺ではあまり重んじていないような気がするが、この『イーハトーヴォ(第一期)』が出版されていた頃(昭和14年11月~16年1月)は如何に松田甚次郎の存在が大きかったかということが垣間見られる。

そこで、今回は『イーハトーヴォ(第一期)』創刊号~第4号の中に出てくる松田甚次郎関連の記事を以下に先ずは抜き出してみる。

【創刊号(昭和14年11月21日発行)】
☆  謝す
                    松田甚次郎
 皆さんに御心配をお掛けし、そして特別に激励とご援助を戴きました最上共働村塾々舎も、御陰様で去る九月四日に上棟式を挙げ、塾生一同は九月八日は花巻の宮澤先生の詩碑の前に参りました。
 十月十日には未落成乍ら移居致し、稲の取り入れに従事しながら落成にはげんで居ります。
 十一月十一日・十二日には満州国政府派遣の大同学院講習生二十六名が東北・北海道視察の途次一泊の上内地農村を聴くの座談会が催されます。新塾舎の最初の来訪者として御待ちしている次第であります。
 落成式は十二月初旬挙式の事になつて居り、かくして焼かれた塾舎は建てられ、そして内にも外にも新たに進む道を見付け、宮澤先生の大愛と大精神のもとに「雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ」ぐんぐん歩み続けて行きます。

☆  賢治七回忌
山形 二十一日午後七時より山形市中央図書館に於いて開催、詩碑拓本を正面に掲げ一同斉誦、精神歌合唱の後
宮澤賢治の生涯について 真壁仁
イーハトーヴオの風土  新関三良
宮澤賢治観       松田甚次郎
諸子の研究発表あり、夜ふけて会を閉ぢた。

☆  各地ニユース
□松田甚次郎氏は十一月七日県農務課主催の水沢町消防会館に於いて開かれた「農村指導員講習会」に講師として来水、同夜青森に向ふ。
□山形賢治の会は事務所を鳥越松田氏のところに移し、十一月二十一日例会は同塾に於いて開催。
□新塾舎は松田氏「謝す」にもある如く落成式間近にて、義捐金は壱千余円集り、芳志者に近々経過報告発送とのこと。
『宮澤賢治名作選 松田甚次郎編』(四六版五九七頁)定価三圓 「セロ弾きのゴーシュ」「グスコ・ブドリの伝記」その他詩、戯曲等四十数編を蒐めたものである。 羽田書店


【第二号(昭和14年12月21日発行)】
☆  十二月賢治の会
山形 二十一日六時半、稲舟村鳥越 松田甚次郎氏塾に開催す。

☆  十一月賢治の会
山形 二十一日六時より鳥越最上共働村塾私塾舎に於いて次の次第にて催す。
一、黙祷、二、礼拝、焼香、三、精神歌合唱、四、妙法蓮華経読誦、五、詩朗読、六、追想文、七、晩秋の頃の宮澤先生(松田甚次郎)、八、一同懇話、九、参禅、十、詩碑朗読、星めぐりの歌合唱。閉会。

☆  各地ニユース
□松田甚次郎氏新塾舎落成報告のために二十四日頃来県、花巻、盛岡によられる筈。
□山形鳥越松田氏の最上共働村塾舎落成式は十二月三日午後一時より挙行されたがそれより先午前九時からは神宮鎮座式挙行、次いで第九回の長期生終了式があつた。遠く青森、秋田、岩手、福島からも来会し参会者七十二名、祝電四十六通、祝辞二十四通であつた。夜は座談会開催各自の抱負を語つた。
賢治の會所在 ……山形縣最上郡稲舟村鳥越(松田甚次郎方)山形賢治の會……


【第三号(昭和15年1月21日発行)】
☆  十二月賢治の会
山形 同二十一日六時より最上共働村塾階上で開かれ、焼香、礼拝、読経、精神歌斉唱、朗読「種山ヶ原の夜」、碑文朗誦、法話、牧歌合唱あつて閉ぢた。

☆  各地ニユース
□山形松田甚次郎氏は旧臘新塾舎落成報告の為来花、二十二日午後三時から九時まで胆沢郡南都田小学校での講演会並びに座談会に、翌二十三日は午前詩碑参拝、午後二時より胆沢相去村の青年団の講習会に列席即日退縣。


【第四号(昭和15年2月21日発行)】
☆  二月賢治の会
花巻 二十四日夜七時より南城振興共働村塾開墾に講師として松田甚次郎氏を迎へ南城小学校にて開催す。

☆  鳥越一月賢治の会の日
                松田甚次郎
 一月二十一日、昨年は凄まじい吹雪と厳寒の日であつた。この吹雪を衝いて森、菊池の両氏(盛岡賢治の会)は遥々宮城県越しに思い賢治愛用のレコードを持ち二重マントに足駄掛け、風呂敷包みを沢山提げて鳥越の賢治の会創立にお出でになつたのは昨日の事の様である。
 待ちに待った全国から入塾した生徒と、新築された「土に叫ぶ館」、其の床の間に掛けられた碑文石刷り、掛軸、電気蓄音機等あつたが、今はその全てを失ひ本年は全国の皆様からの心と血に依つて再建された塾舎で、本年最初の賢治の会が催された。
 …(中略)…
 夜塾生は村の人々を待ち室を片付けた、女子二十一名、男子二十四名、それに塾生十名を加へ五十余名で一杯であつた。の同志である和尚さんが朗々と妙法蓮華経を読経せられ、童話集「風の又三郎」の出版を祝し書中の「貝の火」を塾生で輪読し、余興には各国の自慢の民謡や県民歌、最後に一同で精神歌、牧歌、イギリス海岸、応援歌を昨年菊池氏からお習ひした様に合唱した。寒月は鳥屋峯の上に冴え輝いて居た。村の人々ももう寝静むだ十一時半、焼香と共に碑文が朗読されたのであつた。
 何という厳しい清らかな一月二十一日であつたらう。私は「貝の火」を読んで涙流れ宮澤先生の有り難い教訓をいただいた。そして本年の歩みに光そのままを与えられたのである。

☆  各地ニユース
□花巻町南城組合内にある南城振興共働村塾では松田甚次郎氏を講師として南城小学校に於いて第三回の短期塾を開設。二月二十四日(土)午後二時より四時までは「銃後農村婦女子に求めるもの」と題して講演あり、夜は花巻賢治の会二月例会が同所に催されそれに講習者一同参会。翌二十五日は午前九時より午後四時までは県下農民七名による「農村振興退縣発表会」あつて、一人三十分以内、松田氏の一人一人に対しての指導批評あり、夜は六時より九時まで座談会を催す。松田氏は二十四日午前来花の筈。


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