宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

6 (1)旧天山

2008年09月22日 | Weblog
 まず羅須地人協会跡地を訪れて「経埋ムベキ」山のうちの3つの山『旧天山、胡四王山、観音山』を眺めてみよう。
 4月下旬の頃であれば、羅須地人協会跡地の入り口ではキクザキイチリンソウが出迎えてくれる。
《1 キクザキイチリンソウの花叢》(平成20年4月20日撮影)

《2 下ノ畑ニ居リマスの立看板》(平成20年4月20日撮影)

『ここはかつて花巻川口町下根子八景とよばれたところで、そのころ柾葺きの二階家が立っていました。宮沢賢治は対象15年3月末に花巻農学校教諭を依願退職し、4月にはこの家に移って独居自炊の農耕生活を始めました。
 そして、その理想であった「羅須地人協会」を開設し、近在の農業青年に化学、土壌、肥料、農民芸術概論等を講義し、農村をまわっては稲作、肥料の指導相談をしました。この詩碑は賢治がなくなった3年後の昭和11年に建立されました。
 碑文は賢治の死後見つかった手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」の詩が選ばれ高村光太郎の筆によるものです。
 詩碑の下には遺骨、経文が納められ、同年11月23日に建碑除幕されました。』
と説明してある。
《3 桜の下には・・・》(平成20年4月20日撮影)

《4 「雨ニモマケズ」の詩碑》(平成20年4月20日撮影)

《5 その近くの大樹の根元にカタクリの花》(平成20年4月20日撮影)

《6 協会跡地から「経埋ムベキ山」を望む》(平成20年4月20日撮影)
 左より胡四王山、旧天山(=旧天王山)、観音山である。

羅須地人協会跡地から見れば、”下ノ畑”の向こうに北上川が流れ、その向こう岸に旧天山が横たわっている。
 
 下根子桜から旧天山に向かう。朝日大橋を渡ったところから眺めた
《7 旧天山など》(平成20年9月19日撮影)

 そのまま旧天山の方向に向かうと、『銀河モール』という大きなショッピングモールが左手に現れるが、そこからの
《8 旧天山の眺め》(平成20年9月19日撮影)

 そこからは『高木団地』方向へ向かうと、高木岡神社がみつかる。
《9 高木岡神社入り口》(平成20年6月25日撮影)

 その近くに咲いているのは
《10 ネビキミヤコグサ?》(平成20年6月25日撮影)

だろうか。
 この入り口を入って行くと左手に大きな鳥居がある。その傍に咲いていた
《11 ヤマタツナミソウ》(平成20年6月25日撮影)

 そこからは、次のようなやや上り坂の
《12 参道》(平成20年6月25日撮影)

を進むことになる。
 その参道脇には
《13 ヒヨドリバナ》(平成20年6月25日撮影)

が間もなく咲きそうだった。
 参道の坂を登りつめると
《14 高木岡神社の堂宇など》(平成20年6月25日撮影)

《15 古峰神社の石碑》(平成20年6月25日撮影)

《16 高木岡神社の扁額》(平成20年6月25日撮影)

《17 高木岡神社由緒》(平成20年6月25日撮影)

この由緒
 ・・・古くから祠があったものと思われる。昔からこの付近一帯は久田野と呼ばれ先住民族が住んでいたらしく古い文化遺跡が数多く発掘されている。神社のあるこの森は長者屋敷と呼んでいた。・・・
 昔、この社を修業の場としていた出羽(山形県)の羽黒山に属する山伏達が住んでいたので、修業の一環として文化九年十五日に建立したものである。住民は羽黒山と呼び、長い間霊山として信仰の聖域となっていた。明治の初期に高木岡神社と改称となり村社であった。
  
の中に注目すべきものがあった。それは”久田野”であり、”きゅうでんの”と読めるではないか。そして、ここは霊山として信仰の聖域となっていた村社であったのだ。
 境内の隅には
《18 「法華経一字一石塔」や「三峯山供養塔」など》(平成20年6月25日撮影)

があた。

 賢治は『雨ニモマケズ手帳』の「経埋ムベキ山」のいの一番に旧天山と書いているが、『或る農学生の日誌』の1925年10月25日の中で
 ・・・それからは洪積層が旧天王の安山集塊岩の丘つづきのものにも被さっているかがいちばん疑問だったけれど・・・
     <『イーハートーボ農学校の春』(宮澤賢治著、角川文庫)より>
と書いている。
 この”旧天山”と”旧天王”は同じものなのだろうか。そして、そもそも高木岡神社のあるこの山を旧天王山とつい思い込んできたのだが、果たしてそうなのだろうかという疑問がこの頃湧いてきていた。
 そこで、そのヒントや手がかりがないか、安山集塊岩が見つからないか、と思って訪ねたのだが・・・。
 残念ながら、私にとってはここの山が”旧天王山”であることを確認出来るものはなかった。また、安山集塊岩を見つけることも出来なかった。
 ただし、神社の由緒の中にある”久田野”は”きゅうでんの”と読めるから、その読み方からこの辺一帯が”旧天王(きゅうてんのう)”という名で呼ばれても不思議ではない、と云うことに気がついた。とすれば、その一帯の中の小高い山だからここの岡は”旧天王山”と呼ばれても矛盾はないことも。
 また、次の賢治の詩(何かをおれに云ってゐる)
   何かをおれに云ってゐる
(ちょっときみ
 あの山は何と云ふかね)
   あの山なんて指さしたって
   おれから見れば角度がちがふ
(あのいたゞきに松の茂ったあれですか)
(さうだ)
(あいつはキーデンノーと云ひます)
   うまくいったぞキーデンノー
   何とことばの微妙さよ
   キーデンノーと答へれば
   こっちは琿河か遼河の岸で
   白菜をつくる百姓だ
(キーデンノー?)
(地圖には名前はありません
 社のある・・・)
(ははあこいつだ
 うしろに川があるんぢゃね)
(あります)
(なるほどははああすこへ落ちてくるんだな)
   あすこへ落ちて來るともさ
   あすこで川が一つになって
   向ふの水はつめたく清く
   こっちの水はにごってぬるく
   こゝらへんでもまだまじらない
(峠のあるのはどの邊だらう)
(ちゃうどあなたの正面です)
(それで・・・)
   手袋をはめた指で
   景色を指すのは上品だ
(あの藍いろの小松の山の右肩です)
(車は通るんぢゃね)
(通りませんな、はだかの馬もやっとです)
   傾斜を見たらわかるぢゃないか
(も一つ南に峠があるね)
(それは向ふの渡し場の
 ま上の山の右肩です)
   山の上は一列ひかる雲
   そこの安山集塊岩から
   モーターボートの音が
   とんとん反射してくる
(伏牛はソウシとよむんかね)
(さうです)
(いやありがたう
 きみはいま何をやっとるのかね)
(白菜を播くところです)
(はあ今かね)
(今です)
(いやありがたう)
   ごくおとなしいとうさんだ
   盛岡の宅にはお孃さんだのあるのだらう

   中隊長の聲にはどうも感傷的なところがある
   ゆふべねむらないのかもしれない
   川がうしろでぎらぎらひかる

    <『宮澤賢治全集 四』(筑摩書房)より>
は、詩の内容から賢治が下根子桜の自耕地で農作業をやっているときのことであろうことが推測できる。
 そして、この詩の出だしの”何かをおれに云ってゐる”等という表現から、人にものを訊ねる際のマナーを弁えない中隊長の横柄な態度を苦々しく思っていることが窺える。
 そこで賢治はこの横柄な中隊長をからかってやろうと企てて、”久田野(きゅうでんの)”のことを茶化して『キーデンノー』と言ったのではなかろうか。『キーデンノー』とは、やや怒気を含んだ突き放した言い方で”訊いてんのか?”という意味のこのあたりの方言だからである。
 それがゆえに、賢治は『うまくいったぞキーデンノー  何とことばの微妙さよ 』と詠っているのではなかろうか。
 つまり、訊かれたことに対してはそれらしく答えているし、賢治の気持ちは込めることが出来たし、さらには中隊長自身には賢治の思惑を悟られることもないはずだ。『キーデンノー』という賢治の心境をピッタシ表した表現をとっさに思いつき、賢治は心の内で”してやったり”とほくそ笑んだのではなかろうか。さぞかし賢治自身は溜飲が下がったことであろう。

 さて、いまでこそこの高木岡神社の南麓一帯は高木団地と呼ばれる住宅街になってしまったが、賢治が下根子桜の羅須地人協会で独居生活をしていた頃のこの山はは、「下ノ畑」からは指呼の距離にある霊山であったはず。なぜなら、神社由緒によれば、この辺りの里人はこの山を”羽黒山”と呼んで霊山として崇め奉ってきたと書いてあるからである。この山は下根子桜から見れば、胡四王山よりも、観音山よりも距離的に最も近い、里人からの信仰の篤い聖域であった。
 というわけで、私としてはやはり高木岡神社のあるこの山(岡)は、旧天山であり旧天王山であること、かつ、賢治がここを「経埋ムベキ山」の第一としたことがある程度”腑に落ちた”。
 さらに、平 来作の聞書に次のような文章があった。
 その猿ヶ石川がずっと流れて北上川に入るあたりが、稗貫郡矢沢村といい、この村の、胡四王山(一七六メートル)や、九天王(一二〇メートル)などという低い山が、イギリス海岸に立てばすぐ東の方の目の前に見えます。どちらの山も松がこんもりしげり、見た目にはしずかな気分を与えてくれるいい山だと思っていました。それらの山の麓はずっと整理された田や、昔から田畑になっており、こちらの岸から見わたすと、夏の青田がぎらぎら光ってたいへん美しいと、いつも思ったものでした。南はつまり北上川の下流で、五百メートルもの川下には朝日橋がかかっており、その橋の下から遠く川下の南の空が、ぼうと霞んで見え、北上山脈の終わりがその空に消えている光景は、夢のような感じを与えてくれたものでした。(以下略) 
     <『賢治随聞』(関 登久也著、角川選書)より>
 この聞書の中の”九天王”がその方角と高さからいって、まさしく高木岡神社のあるこの山(岡)であり、旧天山であり旧天王山であることを確信した。言い換えれば、かつて”旧天王”は数字の”九”を用いて”九天王”とも表されたいたのだと確信した。

 したがって、この高木岡神社のあるこの岡(国土地理院の地図からは120m余である)が「経埋ムベキ山」の旧天山(旧天王山であり、九天王でもある)であると判断できる。

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