宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

504 「賢治の昭和3年の病気」 (#1)

2013年07月29日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 さて、ここからは「賢治の昭和3年の病気」に関する記述のある著作等の幾つかを少し調べていきたい。
「八七 發病」より
 まず今回は、佐藤隆房著『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行)の中の「八七 發病」を見てみたい。それは以下のような内容である。  
   八七 發病
 賢治さんは…(略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。
 不加減になつた賢治さんは、その八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。今まで家人のいふことを聴かないでそれがもとで、病氣になつて歸つて來たといふので、いくらか遠慮に思つてゐたらしいのです。病間の裏座敷は晩秋になるにつれて保温の不完全を思はせましたが、
「あゝ、こゝはいゝなあ。」などといつてをりました。
 十二月に入つた或る晩、気温が急に下がつてひどく寒さが増しました。
 お母さんが心配して、夜の明け早々に行つて、
「昨夜はひどく冷えたつたが賢さんおまへはなじょでもなかつかた。」
ときゝますと、
「ゆふべは餘り寒くて眠られなかつた。」
と答へました。その時はもう熱がぐうつと昇つて、お母さんの見た目にも、どうにも普通のやうではなくなつてをりました。
「さあ、大變な事をした。早く部屋を替えて置けばよかつた。」とお母さんは心中に悔みながら、取り敢へず保温のよい二階の部屋に床を移しました。
 そのうちに主治醫松永博士が迎へられましたが、
「これは少し心配だ、急性肺炎です。入院した方が好い。」
 と決つて、病院の方からは部屋の支度も出來たと知らせて來ました。
 その日は寒さも寒く、その上雪がしきりに降つてゐました。
「手遅れになるといけませんから。」
 などといはれるのですが、お母さんは途中が心配でならなく、何となし病院へやりたくありません。看護婦をつけ、温度にも注意して家で治療が出來ないものか、と思ふにつけ、いろいろ迷つた擧句走つて行つて、占ひにみてもらひました。すると「家を出るのは惡い。」といはれたので、兎に角これを唯一の理由として家で治療することにしました。
 それから、一、二週間は生死の境を歩むといふ有様で、ハアハアと呼吸をする度に小鼻が動き、附き添ってゐる人も見てゐられないというやうな有様です。皆が心配して、
「賢さん、苦しくないか。」ときくと、
「なに、見てゐるほどのものでもありません。」
 とあつさりいつて、人達に心配かけまいとします。
 そのうちどうやら熱も下降し、
「人は死なうと思つてなかなか死なれないものですね。」
 などといひ乍ら小康を保つて冬を無事に越しました。暖かくなるにつれて庭のあたりもぶらぶらと歩けるやうになりました。
 その年の秋、知人の八木氏の介添えで初めて外出し、花巻温泉のダーリア品評會を見にいつて來てから大分健康に自信が出來、朝なども家人に先だつて店の戸を開けたりするやうなこともありましたが、矢張り一度失つた健康を完全には取戻せない身體になりました。…(以下略)…
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月8日発行)195p~より>
 この記述に基づけば、
 賢治が実家に戻って病臥したことについては
・時   期=昭和3年8月~
・発病原因=空腹と夕立に濡れたことによる疲労困憊
・病名症状=「不加減」?
・過ごし方=療養の傍菊造りなど
・重 病 化=昭和3年12月急性肺炎
・療養方法=自宅療養(入院はせず)
・快   復=昭和4年暖かくなった頃庭に出られるまでに
・外   出=昭和4年秋花巻温泉へ
ということなどが言えそうだ。
 そしてまず感ずることは、12月の方の病気については詳らかに明確に書いているのに、8月の方の病気についてはそれほど明確には記述していないことのアンバランスである。そしてなおかつ、前者の病気とは下根子桜から親元に戻って「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り」と賢治が教え子に述べているほどの重病だというのに、何と「不加減になつた賢治」という不思議で奇妙な形容をしていることである。
 この年の8月の方の病気については、12月からのそれと比べるとどうも真実味が正直伝わって来ない、と感ずるのは私だけのことなのだろうか。
「第四版序」
 さて、佐藤隆房著『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行)はその後版を重ね、その「第四版」では新たに〝十一篇〟が増補されている。そのうちの一篇「第四版序」は次のようなものであった。
 賢治さんの作品は「北ニケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラ ヤメロトイヒ」と申すような思想ですから、戦前には一部の人々から反対の目が注がれがちであったのですが、戦後の思想の大転換とともに、この賢治さんの思想は改めて識者から認められるようになりました。
 小学校の教科書には「どんぐりと山猫」、中学校の教科書には「雨ニモマケズ」、高等学校の教科書には「農民芸術概論」が掲載されまして、わが国の思想上の指導者の一人として仰がれるようになりました。…(以下略)…
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、第四版、昭和26年3月1日発行)>
 ということは、よく知られていることのようだが「中学校総合国語二には佐藤隆房著『宮沢賢治』から十編が教科書に採り入れられ」ということ以外に、この三作品も教科書に採用されていたということなのであろう。当時、賢治の作品が教科書に採用されるということはちょっとしたブームでもあったようだ。
 それはさておき、この「第四版」には興味深い次のような増補がある。
「一〇九 疾病考(一)」
 この第四版に新たに増補された部分で特に私が気になったのが「一〇九 疾病考(一)」であり、その中に昭和3年8月以降の賢治の病臥に関する次のような記述がある。
 花巻下根子桜の仮寓に隠遁され、自炊生活に入りましてから二年ばかり経ちました。昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが、重要な診断や助言については、前々から父政次郎さんと甚だしい昵懇の中であって、また賢治さんとも親しい間柄でありました院長の須永博士が当たっておりました。
 東北の寒い十二月のある晩のことです。その室の設備が防寒に不備であったために突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました。しかし経過から見ますと明らかに結核性肺炎であったのでした。看護のかいがあって、またその時は本人の体力も相当強く、「人は死のうとおもってもなかなか死なれないものですね。」
 などと言いながら再び元気になり、冬を越しましたが病後の衰弱は相当なものでした。…(略)…
 その年の秋になって賢治さんは大変に健康を取りもどし、花巻温泉辺りまで出かかるようになったのです。
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行)269p~より>
 今回の最初の方で述べたように、初版ではこのことに関して「八七 發病」で既に述べられているのだが、増補した「第四版」ではさらにこの「一〇九」でもそのことを改めて述べている訳である。
 こちらの「一〇九」に従えば、
 賢治が実家に戻って病臥したことについては
・時   期=昭和3年8月~
・発病原因=食事の不規律や粗食、また甚だしい過労
・病名症状=肺浸潤という診断、たいした発熱ではない
・過ごし方=病臥
・重 病 化=昭和3年12月結核性肺炎
・快   復=昭和4年冬を越して元気に
・外   出=昭和4年秋花巻温泉へ
ということなどが言える。
すこぶる驚き
 この「一〇九」を読んで私がすこぶる驚いてしまったのはもちろん、
 たいした発熱があるというわけではありませんでした
の部分である。前の「八七 發病」の内容とはかなり異なっている。
 もちろんここで「重要な診断や助言については、前々から父政次郎さんと甚だしい昵懇の中であって、また賢治さんとも親しい間柄でありました院長の須永博士が当たっておりました」となっている院長の「須永博士」とは仮名であり、まさしく医師佐藤隆房その人である。
 何と意外にも、その
 実質的な主治医佐藤隆房が、昭和3年8月に下根子桜から豊沢町の親元に戻った賢治はそれほど熱があった訳ではなかったと証言している。
ことになる。賢治が「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り」と教え子に述べているほど苦しんだはずの賢治のその病気に対してである。
 どう考えても、矢張り何か変である。こうなってくると、8月に実家に戻ったのはもっと大きな別の理由があったのではなかろうかと思えてくる。つまり、やはり「陸軍特別大演習」の方が大きく絡んでいるのではなかろうかと、そしてその方が説明がより付きやすいのではなかろうかと思えてきた。
矢張り変
 この「一〇九」を読んで私が思わず驚いてしまったのが、
 たいした発熱があるというわけではありませんでした……①
という箇所であった。
 思い返せば、「新校本年譜」によれば、
・八月中旬 …菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった、という。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)より>
ということだったからこの頃の賢治はかなりの重症だと私は思い込んでいた。友人が見舞に行っても面会さえかなわなかったからである。
 実際、菊池武雄の「賢治さんを思ひ出す」を見てみれば
 私どもは雜草の庭からそこばくのトマト畑の存在を見出して、玄關先の小板に「トマトを食べました」と斷はつて歸つたことでしたが、もうその頃は餘程健康を害してゐたので、二三日前豊澤町の生家の方に引き上げて床について居られた時だったことを後で聞いてすぐ見舞に行つたが、あまりよくないので面會は出來ませんでした。
              <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325pより>
ということであり、菊池武雄の証言するところの
   あまりよくないので面會は出來ませんでした。
と〝①〟との間の落差はかなり大きい。
 さらには、賢治は澤里武治宛書簡で
   八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが
としたためているくらいだから賢治はかなりの重病だったということがこの書簡からも導かれる。
 それに対して佐藤隆房が「たいした発熱があるというわけではありませんでした」と証言していることになる。医者の佐藤隆房が賢治はその当時それほど重症ではなかったと言っていたのである。矢張りとても変である。
二つの比較
 そこでこれらの二つを「賢治が実家に戻って病臥した」ことに焦点を当てて比べてみよう。それは他でもない、佐藤隆房著『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行)の中の「八七 發病」のポイント
・時   期=昭和3年8月~
・発病原因=空腹と夕立に濡れたことによる疲労困憊
・病名症状=不加減?
・過ごし方=療養の傍菊造りなど
・重 病 化=昭和3年12月急性肺炎
・療養方法=自宅療養(入院はせず)
・快   復=昭和4年暖かくなった頃庭に出られるまでに
・外   出=昭和4年秋花巻温泉へ
と『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和26年3月1日発行)の中の「一〇九 疾病考(一)」についての次のようなそれとをである。
・時   期=昭和3年8月~
・発病原因=不規律や、粗食や、また甚だしい過労
・病名症状=肺浸潤という診断、たいした発熱ではない
・過ごし方=病臥
・重 病 化=昭和3年12月結核性肺炎
・快   復=昭和4年冬を越して元気に
・外   出=昭和4年秋花巻温泉へ
疑問発生
 こうして見比べてみると、青文字部分は両者ともにほぼ同じであるが、赤文字部分に問題があるということが浮き彫りになってくる。
 まず一点目は、発病の原因が同一著者のものなのに違って書いてあるし、それが発病の原因、それも「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが……②」というほどの重症の原因になり得るかということである。発病の原因が違っているということは、逆に言えばその原因はともに信憑性に欠けるということにならざるを得ない。したがって、私からしてみればこれらの「発病原因」はいずれも取って付けたような理由にしか見えなくなってきた。
 その二点目は病名である。賢治は重症であったはずなのに、前者においては病名が明記されておらず、私にとっては意味不明の「不加減」という表現がせいぜいそこにあるだけである。一方後者では「肺浸潤という診断、たいした発熱ではない」というような病名と症状になっている。このことに関してはさらに疑問が湧いてくるのだがそれは後述したい。
 そして最後の三点目だが、療養中の過ごし方である、賢治は教え子に〝②〟であったと伝えているが、前者では「傍菊造りなど」をしていたとある。ならば、やはり実家に戻ってからしばらくの間は少なくとも賢治はそれほど重症であったとは思えない気もしてくる。また、後者においてはただ病臥していたということしか書かれておらず、あっさりと扱われていて何か奇妙である。
 したがって、たしかに昭和3年の12月に賢治は重病になったかもしれないが、この佐藤隆房著『宮澤賢治』からは、同年8月に実家に戻った頃の賢治はどう考えても〝②〟であったと言えるほどの切迫感が伝わってこない。だから、まさしく当時の賢治は〝たいした発熱ではない〟というのが真相だったのかもしれない。
 その上で、この部分が含まれている文章
 たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。……③
を注意深く読み直してみると意味深長であるという気もしてきた。

 『賢治昭和三年の実家蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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