下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
498 事情聴取されていた賢治
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
さて、名須川溢雄が「賢治と無産運動」等に関して公にする以前にこのことを公にした人達は殆どいなかったようだし、まして賢治が当時警察から事情聴取を受けていたということを公に詳らかにしていた人はなかったようだが、もしかすると、その噂だけは早い時点から拡がっていたのかもしれない。伊藤儀一郎からの事情聴取
次のようなインタビュー記事が『國文學 53年2月号』に載っていて、そのインタビュー記事「賢治年譜の問題点――堀尾青史に聞く――」において、インタビュアーの境忠一が次のように質問したならば、それに対して堀尾が次のように答えていた。
――これは重要な資料だと思いますが、昭和二年二月一日に、「岩手日報」に羅須地人協会の紹介記事が載りまして、その後「日時不明であるが、花巻警察署伊藤儀一郎の事情聴取があったためと思われる」とあります。年譜では三月頃で集会が終わっていますが、このことと関係あるでしょうか。
堀尾 これは左翼的な思想や、社会主義の立場からではない――いわゆる危険思想での取り調べではなかったようです。しかし、警察に呼び出されたということは当時としては大変です。
この時の調書がどこかにあると聞いています。それを見たいと思ったのですが、どうにもしようもなかった。この日時もはっきりわからない。
<『國文學 53年2月号』(學燈社)175pより>堀尾 これは左翼的な思想や、社会主義の立場からではない――いわゆる危険思想での取り調べではなかったようです。しかし、警察に呼び出されたということは当時としては大変です。
この時の調書がどこかにあると聞いています。それを見たいと思ったのですが、どうにもしようもなかった。この日時もはっきりわからない。
ということは、その当時賢治は少なくとも一度は「花巻警察署伊藤儀一郎の事情聴取があった」と考えてほぼ間違いなさそうだ。ただし、残念ながら現時点ではその事情聴取を受けた時期は判っていないようなのだが。
なお、私は少なくともその時期はその新聞報道のあった「昭和二年二月一日」直後ではないと思っている。なぜならば、その後も少なくとも4月10日頃まではそれまでと同じような講義や集会は行われていたからである。賢治が新聞報道で焦って止めたのはあくまでも「楽団活動」だけだったのではなかろうか。
そこで私が思うのは、いつ頃その事情聴取が行われたかといえばいの一番に考えられる時期は他でもない、前回〝警察から事情聴取の懼れ〟で触れたように労農党の活動家が弾圧され、北海道へ追われたりした頃、すなわち昭和3年の8月頃である。ちなみにこの年、昭和3年7月には特高が新設されてもいることもまたこれあり。
そしてこれは何も花巻に限ったことではなく、『岩手県の百年』によれば
(昭和3年)、三・一五事件で、伊藤勇雄、横田忠夫・義重兄弟、泉国三郎らが検挙され、労農党は解散命令を受けた。されに七月特別高等警察が新設された。同年十月には、天皇を迎えて陸軍特別大演習ぎ実施されたので、弾圧は強化された。
<『岩手県の百年』(長江等共著、山川出版)160pより>ということだし、平井直衛が盛岡中学の教師の職を追われたのも昭和3年8月だから、この時の凄惨な弾圧は全県下にわたっていたということであろう。
最初、私はそう思っていたのだったが、その時に賢治が事情聴取をされたにしてその際に賢治から事情聴取をした担当責任者は伊藤儀一郎だったかというと、それはほぼあり得なさそうであるということに気付いた。
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「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
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