宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

469 賢治は「牧民会」にも出入り

2013年05月23日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛される賢治に》
賢治は「牧民会」にも出入りしていた
 名須川溢男は「宮澤賢治とその時代」において次のようにも述べている。
 さらにまた賢治は農学校教師ではあるが、学校内にとどまらず各地の農村をまわり、農事講演をしてい歩いた。…(略)…岩手の地における啄木会や牧民会に賢治は出ていた。あるいは加賀豊彦の講演に感激し社会問題に強い関心を示して、車夫などに社会主義の宣伝活動などをし、ために盛岡中学を退学させられた梅木文夫を中心に花巻の青年たちが、社会主義研究会を開いていたが、その青年たちが賢治を訪ねたり会合をもっていた。
              <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)110pより>
 賢治が啄木会の会員であったということは以前から聞いたことだが、賢治は「牧民会」にも出ていたとか、梅木らの「社会主義研究会」のメンバーが賢治の許を訪ねていたりしていたということは知らなかった。
 同じく名須川の指摘するところであるが、昭和45年4月11日付『岩手日報』の「ばん茶せん茶」には次のような石川準十郎の証言が載っている<*1>。
 盛岡までは二十一㌔余、夜八時すぎ、ふたりはグロッキーになって、やっと歓迎会場にたどりついた。牧民会は社会主義研究団体。石川金次郎氏令弟準十郎さん(後早大教授)によると、詩人宮沢賢治さんも前後、牧民会に出入りしていたという。
            <「悲劇の啄木と秋浜さん」より>
となれば、賢治が社会主義研究団体「牧民会」に出入りしていたことはほぼ間違いないと判断せざるを得ないようだ。
「牧民会」とは
 さて、ではこの「牧民会」とはどんな会だったんだろうか。『啄木 賢治 光太郎』には次のように書かれていた。
   牧民会―啄木を継ぐ人々
 東京啄木会の石川準十郎も盛岡啄木会の吉田弧羊も、ともに準十郎の兄、金次郎が主催していた社会主義研究会「牧民会」の会員だった。…(略)…
 牧民会は大正八年十二月、油町の金次郎方の表二階をたまり場にしていた青年グループ「黎明会」が母胎となって発足した。…(略)…
 金次郎は毎夜、仁王小の教室でこうした国際情勢について話した。生徒は二十名ほどで、吉田弧羊や松本政治もいた。…(略)…
 彼らは<社会主義と個人の自由を阻む制度の否定><資本主義の打倒>をスローガンに挙げ、排娼や女工解放を叫んで演説会を開いたが、過激はというより、むしろ白樺派の強い影響下にあった。幸徳秋水や堺利彦、山川均やクロポトキンの熱心な読者であると同時に武者小路実篤に感動する青年でもあった。
          <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)13p~より>
 続けて同書は、
 鈴木彦次郎が「物語岩手社会運動史」の中で<啄木会は、牧民会の絶好の文化工作隊の役目を務めた>と述べている。
ということも紹介していた。私はここで初めて、啄木会と牧民会の関係とそれぞれの役割を知った。「牧民会」は社会主義研究会であり、「啄木会」はその文化工作隊であったということのようだ。
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<*1:註> 昭和45年4月11日(土)4面
   「悲劇の啄木と秋浜さん」 松本 政治(盛岡啄木会会長)
 あの日の帰りに、私どもは好摩駅の夕方発の汽車に乗り遅れてしまった。その夜、石川金次郎さん(後の社会党代議士)らの牧民会同志たちが歓迎会を開いてくれることになっていた。夜まで汽車がない。宮君は夜の汽車を待つことにし、米内君と私は、いきなり国道すじをまっしぐらにかけ出したのであった。
 盛岡までは二十一㌔余、夜八時すぎ、ふたりはグロッキーになって、やっと歓迎会場にたどりついた。牧民会は社会主義研究団体。石川金次郎氏令弟準十郎さん(後早大教授)によると、詩人宮沢賢治さんも前後、牧民会に出入りしていたという。
 秋山さんとの交遊はその日以来である。当時、啄木碑を訪れるものの身辺には警察の目がきびしく光るのであった。啄木を思慕するいろんな人物が続々とやって来る。そのたびに秋浜さんは、啄木の教え子代表格でガイド役に引き出され、そのため警察がとてもうるさかった。


 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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