宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

12 (5)物見崎(その2)

2008年09月28日 | Weblog
 ”(5)物見崎(その1)”の続きである。
 前回『物見ヶ崎にはいかにも「経埋ムベキ山」らしいところがあまりない。逆に言えば、この物見ヶ崎についてはもっともっと調べてみる必要があると思う』と述べた。
 そこで、この物見ヶ崎の東側には北上川が流れているから対岸からまずは物見ヶ崎を眺めてみようと思って昭和橋方向に進路をとった。すると、物見ヶ崎の参道入り口から約1㎞行ったところに次のような標識あり。
《1 和賀氏居館濠跡》(平成20年9月24日撮影)

 その直ぐ近くには
《2 和賀神社境内の説明標識》(平成20年9月24日撮影)

があった。そして、その中には菅江真澄の名が出ていた。菅江の名があるということは一見の価値ありと判断して境内に入ってみた。
《3 和賀神社境内》(平成20年9月24日撮影)

 鳥居脇の
《4 菅江 真澄 歌碑》(平成20年9月24日撮影)

《5 和賀神社》(平成20年9月24日撮影)


 さて、今度は和賀神社の西隣の白鳥神社へ行ってみる。
《6 白鳥神社鳥居》(平成20年9月24日撮影)

《7 白鳥神社由緒》(平成20年9月24日撮影)

《8 二の鳥居と境内》(平成20年9月24日撮影)

この鳥居の隣の赤い神社は道祖神社である。同じく境内少し奥左手の
《9 六社神社、淡嶋神社》(平成20年9月24日撮影)

《10 白鳥神社》(平成20年9月24日撮影)

《11 〃本殿説明板》(平成20年9月24日撮影)

 物見ヶ崎からそう遠くないこんな場所にこれだけの神社等があることにびっくりしながらみていたが、それ以上に驚いたのが次の建物である。
 さらに奥に進むと、なんと驚きここに
《12 金比羅神社》(平成20年9月24日撮影)

があった。あの”金毘羅塔”のある物見ヶ崎の石塔よりはるかに立派な構造物である。
《13 〃御神徳説明》(平成20年9月24日撮影)

 この金比羅神社の直ぐ裏から
《14 見下ろした北上川》(平成20年9月24日撮影)

 かつては、北上川では舟運が盛んであったし、見下ろした北上川はこの辺りで曲っているので水難事故が起こりがちな地点であったであろう。一方、金毘羅さんは舟人に尊崇されてきた神社である。
 おそらく、舟の運航の安全を願ってこの場所には金毘羅神社が、物見ヶ崎には金毘羅塔が建てられたのであろう。
 これで、この場所に金比羅神社が、物見ヶ崎に金毘羅塔が祀られていた理由が見つかった。賢治が物見ヶ崎を選んだ理由の一端が見えてきたような気がしたし、一本の細い糸が繋がったような気がしてきた。

 神社を後にして昭和橋に向かう。下り坂を進むと途中右手に
《15 御台方屋敷跡》(平成20年9月24日撮影)

《16 永明寺の門》(平成20年9月24日撮影)

 この門を過ぎるとT字路があり、左折して見た
《17 永明寺》(平成20年9月24日撮影)

 ここまで見てきて今回思ったことは、うら寂しい物見ヶ崎付近からは想像できなかったことだが、この辺りにこれだけの神社仏閣があり、和賀氏にまつわる遺跡もあることからかつては和賀氏の勢力が盛んで、さぞかし栄えていたであろうということである。

 さて、昭和橋を渡ろうとしたならば手前左手にかつての
《18 永明寺舟渡》(平成20年9月24日撮影)

があったので川原に下りていった。
《19 渡し場跡》(平成20年9月24日撮影)

《20 〃説明板》(平成20年9月24日撮影)

《21 永明寺舟渡記念碑》(平成20年9月24日撮影)

《22 記念碑付近の北上川の流れ》(平成20年9月24日撮影)

なお、この写真の左手が和賀神社の森である。
《23 かつての渡し場と昭和橋》(平成20年9月24日撮影)

 この橋を渡って向こう岸から西の方角を向くと見える
《24 物見ヶ崎》(平成20年9月24日撮影)

である。同じく南西方向に目をやるとそこには
《25 大きな森》(平成20年9月24日撮影)

があり、その上部に展望台のような建造物があるのでズームアップしてみると
《26 森にはやはり展望台あり》(平成20年9月24日撮影)

 そこで、展望台を目指そうと先程の道を戻り、次の十字路を左折するとそこは上り坂になっていて
《27 それらしい場所》(平成20年9月24日撮影)

があった。左の坂を上っていくと
《28 ”和賀氏盛衰の跡飛勢城”の碑》(平成20年9月24日撮影)

陰碑には、『和賀氏は奥州藤原氏滅亡後、豊臣秀吉の全国統一まで、三百数十年にわたり和賀郡地方を治めた』とあった。
 そしてその近くには次のような説明板が立っていた。
《29 二子城の説明板》(平成20年9月24日撮影)

次のように書かれている。
 別名飛勢城(とばせじょう)。和賀氏の本城で和賀最大の城郭跡である。その全体規模は南北約1,000メートル、東西約500メートルである。ほぼ中央の通称飛勢の森(現八幡神社境内)は標高やく130メートル、沖積地から約70メートルで最も高く、その周囲に平常居館や家臣屋敷が配置され、東側沖積地には宿(しゅく)と呼ばれる城下集落が形成されている。
 城主の平常居館(別名:白鳥館)は、城内の北西隅にあり、100メートル四方が掘り割りされている。そして、この南に堀(現在自動車道路)を隔てて同規模の文殊院という一郭がある。(以下略)

 また、”財団法人岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センター”HPの「成田岩田堂館遺跡」の項には次のような二子城についての説明文がある。
2 二子城について
 本遺跡の南側には中世和賀氏の居城である二子城(飛勢城)があります。その城域は南北約1㎞、東西約0.5㎞と広大で飛勢森を中心として見た場合その西側に西の森、北側に物見ヶ崎といった小山地形があり、その東側に城主屋敷とみられる白鳥館(白鳥神社)をはじめとする重臣屋敷が北上川沿いに並んでいました。南側には家臣屋敷や町屋が配され、北端は内膳堀(現在のしみず斎園付近)でした。そして搦手(からめて)が馬場野と呼ばれる飯豊側にかけての北側平坦地にあたるとみられ、また城外の北には成田氏の屋敷跡が配置されていたと考えられています。本遺跡はこの馬場野と伝成田氏屋敷跡にあたります。

 これらのことから、この城は和賀氏の最大の城であって、その周辺一帯の城下集落は往時は大変賑わっていたことが知れる。
 そして、
   物見ヶ崎はその二子城の一郭にあったのだ
ということが分かった。物見ヶ崎は単なる小山ではなかったのだ。
  
《30 八幡神社》(平成20年9月24日撮影)

《31 八坂神社》(平成20年9月24日撮影)

《32 疱瘡神社》(平成20年9月24日撮影)

《33 飛勢の森》(平成20年9月24日撮影)

ここは二子城の中心部分で、その西端には
《34 ”八幡山物見ヶ崎公園”と刻まれた碑》(平成20年9月24日撮影)

が立っていた。この名にもある通りこの山は”八幡山”と言うようだ。
 もしかすると、物見ヶ崎は”金毘羅塔”があったあの物見ヶ崎だけではなく、この辺りにも物見ヶ崎があったのかも知れない。
 境内の北端にある 
《35 展望台》(平成20年9月24日撮影)

《36 展望台から見下ろした北上川》(平成20年9月24日撮影)

 この展望台からはぐるり展望が利き、北→東→南の順に眺めてみると以下のようになる。
《37 北方向》(平成20年9月24日撮影)

《38 北東方向》(平成20年9月24日撮影)

《39 東方向》(平成20年9月24日撮影)

《40 南方向》(平成20年9月24日撮影)

 というわけで、ここからは”金毘羅塔”のあるあの物見ヶ崎よりも、白鳥神社境内の金刀比羅神社裏よりもはるかに広範囲に”物見”が出来る。
 因みに、この付近の地図は『花巻・北上・遠野・和賀・稗貫の歴史』(監修 鎌田雅夫・高橋順平)によれば
《41 二子城跡》(平成20年9月24日撮影)

のようなものとなっている。そして、同著には『八幡山は詰城、秋葉山と物見ヶ崎は物見台、白鳥館は城主の居館、城の東側は宿と呼ばれる城下集落、北上川沿いには重臣屋敷があったこと、そして二子城は和賀氏一族惣領の本城といえよう』と云うことなどが書かれている。

 したがって、今回の探索で物見ヶ崎は単なる物見ヶ崎ではなくて、かつてはこの辺りを治めた和賀氏最大の城、二子城の一郭にあったのだということが、そしてその名の通り物見ヶ崎は物見台としての役割をし果たしていたことなどが分かった。
 一方では、明治24年(1891)に鉄道の東北本線が開通したために舟運はしだいに衰退していったとはいえ、明治時代には蒸気船が就航して江戸時代以上に活況をみせたといわれる舟運であるから、賢治が若かった頃はまだその名残はあったと思う。
 とすれば、二子城は花巻から直ぐの場所でもあり、まして博覧強記の賢治は物見ヶ崎の二子城における位置づけなどを知っていただろう。
 したがって、賢治はそのような観点から物見ヶ崎を捉えていたが故に、「経埋ムベキ山」の一つにこの物見ヶ崎(120m)を選んだということが十分にあり得ると思う。
 これでやっと、物見ヶ崎が「経埋ムベキ山」に選ばれた訳が少し分かったような気がしてきた。
 
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