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505 「賢治の昭和3年の病気」 (#2)

《創られた賢治から愛される賢治に》
(承前)
病気であるということにした可能性
 さて、
 たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。……③
についてだが、この文章は意味深長であり、これを注意深くを読み直してみるとあることが思い浮かんでくる。
 まずは、なぜ佐藤隆房は
  両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。
という言い回しをしているのだろうか。どうしてこの部分を素直に
  両側の肺浸潤で病臥する身となりました。
と表現しなかったのだろうかということが、である。
 この著者自身が、つまり実質主治医の佐藤隆房自身が「たいした発熱があるというわけではありませんでしたが」と言っている一方で、なぜわざわざ「という診断」という文言で修飾したのだろうか。このことはかなり奇妙なことである。
 逆にこのような言い回しをされたのでは、
 賢治はたいした熱があった訳ではないが、佐藤隆房医師に頼んで賢治は「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにし、友人等が見舞に来ても面会を謝絶し、実家で謹慎していた。
という可能性があり、この穿った見方を一概に否定は出来ず、実はそれが真相ではなかったのかという疑いを持つ人だって現れてくるだろう。
自宅謹慎の可能性
 そして次が、その時期は岩手県下では大々的に「陸軍特別大演習」が行われた時期であり、その前には凄まじい「アカ狩り」が盛岡だけでなく、特にその初日が花巻の日居城野にて行われることになっていたから花巻でも徹底して行われた時期であれば尚更にそうだったのではなかろうか、ということがである。
 つまり、
 賢治は「陸軍特別大演習」を前にしての特高等の厳しい弾圧を受けて仕方なく、あるいは逼迫した状況から判断して自ら下根子桜の別宅から豊沢町の実家に戻り、「両側の肺浸潤」という病名の下に自宅に蟄居、自宅謹慎していた。
という可能性だって否定できないのではなかろうと主張する人も出てくるだろう。
 それゆえに友人がわざわざ見舞に訪ねて来ても、菊池武雄の場合がそうだったうにかたくなに面会を謝絶した。もし友人等に会ってしまえば賢治が病臥するほどの症状か否かすぐ読み取られる虞があると思っていたであろうからである、と。
 一方で、佐藤隆房が当時の賢治のことを
   療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。
と自書『宮澤賢治』になぜ書けたかというと、佐藤隆房はその当時の賢治を実際診ていたからであり、その頃の賢治を直接見ることが出来た家族以外のおそらくほぼ唯一の人物だったからである。
『宮澤賢治』第四版の信頼度
 ここで少し横道に逸れるが、誤解を懼れずに述べておきたいことがある。それはこの第四版で増補された「八二 師とその弟子」から導かれることである。
 その「八二 師とその弟子」は次のようにして始まっている。
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
 はじめての路ですから、距離も一層遠いように感じられ、曲がりや、岐れの数も大変多いと思いながら、ようやくその家らしい処に着きました。一群の松の木立は初冬の晴れた天にのびあがり、その傍の、木木にかまれた隔絶の家が、柾葺きの素朴な中に何かしら清浄さを感じさせています。
 北側の入口に立って訪ねますと、すぐに声がしてその家の主があらわれました。初めてお目にかかった宮沢賢治先生です。短くかった頭、カーキ色の農民服、足袋ははかないで。
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、第四版、昭和26年)197pより>
ここには、大正15年12月25日(大正天皇崩御の日)に松田甚次郎が宮澤賢治を下根子に訪ねる様が生き生きと実況中継しているがのごとくに綴られている。
 しかし、もし松田甚次郎の日記に従うならば、これは全くの虚構である。甚次郎がこの日に訪れたのは日詰であり、大干魃で苦しむ明石村を慰問しているからである。そして、その慰問後はその足で盛岡に戻っているからである。花巻には訪れていないし、ましてや下根子桜に賢治を訪れて等はいない。
 したがって、このことから懸念されることはこの「第四版」の信頼度は高いとは言い切れないことである。すると、自ずからこの『宮澤賢治』に書かれていることだってその信頼度には問題があると言わざるを得なくなってくる。証言として使用する際には慎重にということになる。
 では佐藤隆房の著書はこの辺で終わりにして、次からは別な人の著書において昭和3年の賢治の病気がどのように書かれているかを調べてみることにしよう。
関登久也の著書では
 さて、では佐藤隆房以外の人はどのようなことを「賢治昭和3年の病気」に関して述べているのだろうか。
 物書きの中で一番このことを知っていそうな人物の一人が関登久也であり、探してみたのは以下の著書の中からである。
(1)『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版社、昭和18年)
(2)『宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和22年)
(3)『續宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)
(4)『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
 瞥見した限りにおいては、このことに関して述べてあったのは意外なことに(4)の場合だけであり、それは以下のようなものであった。
  病床の頃
 過労と粗食による栄養不足のため賢治の健康は、昭和三年に入つてその衰弱が目立つてきたようでした。
 ことにもその年は気候が不順で、稲作を案じて昼夜をわかたず農村をかけまわつた末に、八月のある日、空腹のところへ夕立に濡れて帰つたのが原因で風邪をひき、遂に豊沢町の両親の家に帰つて、病臥のみになりました。しかしどうやら十二月に入つて、ふしぎに病気もなおり、そのまま無事に冬を過ごすことができました。
 昭和四年は、ほとんど病床にあつて、読書と詩の推敲に日を送りましたが、秋にはじめて外出することができ花巻温泉に、ダリアの品評会を見に行けるところまで、元気も回復しました。
               <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)95pより>
 この記述は、かつてのほとんどの年譜にあった昭和3年の記述
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
及び前に触れた
  八七 發病
 賢治さんは…(略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。…(以下略)…
の二つを踏まえた記述と思われるし、この(4)からは新たな情報を得られない。
 なおかつ、関登久也は「しかしどうやら十二月に入つて、ふしぎに病気もなおり」と記しているが、これは佐藤隆房の記述内容「昭和3年12月結核性肺炎となり重病化した」とは矛盾している。このことに関してはおそらく関登久也の方が誤解していたのであろう。なぜならば、実質的な主治医である佐藤隆房の方の記述がはるかに具体的で詳らかであるからである。
 言い方を変えれば、流石の関登久也でさえもこの期間中は賢治を直に見舞うことは不可能であったということなのだろう。したがって、佐藤隆房ほどにはその時の賢治の「療養」の仕方等を知り得なかったのであろう。
森の『宮澤賢治』の場合
 では、物書きの中で一番このことを知っていそうなもう一人の人物森荘已池の著書からである。
 …昭和三年八月のある日、外を歩いてゐるうちに、ひどい夕立にあつて、ずぶぬれとなつてかへり、かぜをひいて、たかい熱を出しました。そして豐澤町のお家にかへつて寝こみました。
 その年の十二月の寒い晩に、寒くて寒くてひと晩ねむられず、とうとう肺炎になつてしまひました。はあはあと、ひどくくるしい、むしの息でありながら、お醫者さんが來ますと、にこやかにむかへたといふことです。このときの病氣は、すつかりつかれたところへ肺炎になつたので、とてもたすからないと思はれました。
               <『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館、昭和18年)202pより>
同書の発行は昭和18年1月30日であり、この時点では既に佐藤隆房著『宮澤賢治』が昭和17年9月8日に発行されているし、その内容からいっても森荘已池の記載内容は佐藤隆房の前掲書を基にしていると判断できる。そこには、目新しい記載内容はない。
森の『宮沢賢治の肖像』の場合
 こちらは、昭和49年の出版だが森がそれまでに著した著作の多くを編んでいると、森自身が「あとがき」で記している著作である。
 ところが、私が見落としたのだろうか、「賢治昭和3年の病気」そのものの記述はそれらの著作のどこにもなく、それに関しての記載が「昭和六年七月7日の日記」の中にかろうじて見つかっただけだった。それは例の「レプラ詐病」事件を受けての次のような記述であった。
 「私はレプラです」
という虚構の宣言などは、まったく子供っぽいことにしか見えなかった。彼女は、その虚構の告白にかえって歓喜した。やがては彼を看病することによって、彼の全部を所有することができるのだ。喜びでなくてなんであろう。恐ろしいことを言ったものだ。
 しかしながら以上のような事件は、昭和三年に自然に終末を告げた。
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、帰宅して父母のもとに病臥す。」という年譜が、それを物語っている。
              <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)169pより>
 意外なことに、私が見逃したせいなのだろうか、これ以外には『宮沢賢治の肖像』の中からは何一つ見つからなかった。それも、そこにあった「八月、…父母のもとに病臥す」はあくまでも当時の年譜をそのまま引用しているに過ぎない
知らない訳はない
 どうして、「賢治昭和3年の病気」に関しては、関登久也の著書の場合には佐藤隆房著『宮澤賢治』からの焼き直しであり、森荘已池のそれの場合も同様であり自分の見方を殆ど語っていないのだろうか。私はこれが不思議でならない。
 それから、
 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
というエピソード<*1>を関登久也や森荘已池が知らない訳がないのだがこのエピソードについてすらこの両者ともに一切言及していない。これもかなり不思議である。
 また、そもそもこの二人、関と森はその当時賢治が豊沢町に戻って病臥していることを知らない訳はない。それなにの賢治の許に見舞に行ったりしなかったのだろうか。その当時は阿部晁でさえも二回は見舞っている<*2>と推測できるのに、である。
 そういえば、藤原嘉藤治はどうだったのだろうか。嘉藤治は武雄を案内して桜を訪れた際に賢治は不在だったというから、気掛かりだったであろう。当時の武雄は東京在住(武雄は大正14年上京して図画の教師をしていた)だったがその武雄が「その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった」というくらいだから、その頃花巻在住だった嘉藤治ならば、賢治が豊沢町に戻ったということは容易に知ることができたであろう。当然見舞にも行ったであろう。
実はアンタッチャブルだった?
 こうやってあれこれ考えてみると、関や森は「賢治昭和3年の病気」についての情報は少なからず知っていたであろうし、知ろうとすればかなりのことを知り得たはずだ。ところが、彼らの著作からはそのようなことは微塵も窺えない。〝形〟としては関と森は「賢治昭和3年の病気」に関しては取材も論考も積極的にはしていないという〝形〟になっている。
 これは、私からすれば極めて奇妙に感じるし、変な疑いを抱いてしまうことを禁じ得ない。もしかすると
 「賢治昭和3年の病気」の件に関しては実はアンタッチャブルなことであった。
のではなかろうか、という。そしてそれは、賢治の病気が当時恐れられていた「肺結核」ゆえにではなくて、それ以上に恐れられていた「思想」の持ち主であると思われる虞があったからである。
 もう少し丁寧な言い方に換えれば、次のような可能性が大である。
 昭和3年の8月、賢治は病気のためにやむを得ず実家に戻ったわけではなくて、その真の理由は「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためであったから、「賢治昭和3年の病気」の件はアンタッチャブルなことであった。

<*1註> このエピソードはかなり早い時点で知られていた。ちなみにそれは『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中で既に語られていたことである。
<*2註> 『阿部晁「家政日誌」において
【昭和三年】
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳三升(根子切手)
○一一月一二日
[文書・着]宮沢政次郎氏ヨリ金員在中書状
[備考]中根子実行組合外五組合ヨリ令息賢治君見舞トシテ進呈セル金子宮政氏ヨリ謝絶
        <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)168pより>
とある。

 『賢治昭和三年の実家蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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