宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

502 昭和3年7月特高新設

2013年07月07日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
岩手の特高設置について
 特高(特別高等警察)は昭和3年の7月に新設されたということだが、岩手の場合にはその設置の狙いは陸軍特別大演習と密接につながっていたのではなかろうか。
 そこで当時の『岩手日報』のマイクロフィルムを見てみたところ、岩手県における当時の徹底した取り締まりや弾圧等に関する報道は『岩手日報』紙上では見ることが出来なかったが、関連する以下のような幾つかの報道があることを知った。
○8月2日、顔写真入りで 
 特高課長着任 
 特高課長工藤慶一氏は三日午前九時着任したが…
という報道があり、
○8月5日
 警官大移動けふ正午発表
 特高課新設と大演習施行について縣警察部では警官の大移動を行ふ事となり四日午後四時三井警察部長は前日作製せる腹案について丸茂知事と協議し…その内警部補八人を新任として盛岡、花巻、日詰の各署に配置し…
となっており、この〝盛岡、花巻、日詰〟とはまさしく10月の陸軍特別大演習の御野立が行われた場所であり、そこに特高を配置したようだ。そしてその彼らによって、盛岡では横田忠夫や小舘長右エ門が、日詰では平井直衛が、そして花巻では川村尚三や八重樫賢師が徹底的にマークされたということになり、結局は捕まったり、職を追われたり、北海道へ奔ったりしたという図式になったということのようだ。
 そしてこの翌日以降の同紙面上には、
○8月6日
 本縣警察部異動
 特高課新設及び大演習関係より五日正午異動を発表した
  休職岩手縣警部 伊藤信夫
復職を命ず
給六級俸
警察部特別高等課勤務を命ず
警察部保安課勤務を命ず…
○8月8日
 思想警察實施最初の全國特高課長会議
 きのうふから内務省會議室で開會
  内相のの訓示 …
○8月18日
 危険思想は結核菌のやうで何時這入るか判らぬ
 来盛した林前司法次官談…
○8月31日
 一斉に襲つて福岡縣下の共産党員一掃さる
 寺島検事正総指揮の下六〇余名検挙す
というような報道がなされていた。そこからは、当時凄まじい「アカ狩り」が行われたことを直に読み取ることは出来ないにしても、その一端は垣間見られる。
当時の世相
 一方では、いわゆる〝一面〟を全面使ったマルクスの文字が躍っている次のような広告が当時の『岩手日報』には載っていたりもする。
○8月30日

 あるいはまた、
○9月26日
 大本教講演會
 大本教講演會は二十四日午後七時から市内櫻城小學校で開かれたが聴衆はトルコ帽の信者を始め又軍市議、古川縣視學、梅津川口町長…市内名士の顔多く…かいつまんでいふところこの頃のやうに危険思想がやかましくなるのは疾うの昔に大本には解つてゐたこのまゝにしては置かれぬそれには動物のやうな心をとり去つて崇祖敬神の大本によらねばならぬ…
という記事が、トルコ帽を被った王仁三郎の写真入りで載っていたりもする。この記事により、少しだけだが大本教の位置付けも知ったような気がする。
これらの記事から見えてくるもの
 いずれこれらの報道からは当時の世相の一端が見えてくるし、私はこういう時代であったということをこの度ここで初めて知った。
 そして以上の幾つかの記事に従うならば、岩手の場合特高が実質的にスタートしたのが8月4日であるということが言えるし、そしてこの8月こそが平井直衛は盛中の教師の首を切られ、小舘長右ェ門が小樽に奔り、八重樫賢師が函館に奔ったことを思い返せば、この昭和3年の8月頃から一瀉千里に凄まじい「アカ狩り」が特高等によって行われたと見ることが出来そうだ。
 となれば、賢治もまた官憲からマークされることを免れ得なかったのではなかろうか。そのことは、賢治が実家に戻ったのがこの年の8月であったことがまさしく暗示しているような気がしてくる。
 
 『賢治昭和三年の実家蟄居』の仮「目次」
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   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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