SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

「『赤』の誘惑」をめぐって 3

2010年08月13日 | Weblog


>昨日お会いした時に利部志穂さんが、台北でやったパフォーマンスをYouTubeにアップしたので観て下さいと言っていて、検索してそれをみつけた。赤ずきんちゃんみたいな衣装が意味不明なところまで含めて、利部さんぽくてすごくかっこいい。(古谷利裕の偽日記2010-06-10より)

 批評家が「意味不明」という言葉を使ったら「負け」だと思うんだけど......。それはともかく、この利部志穂の「赤頭巾」のパフォーマンスが台北で行われたということと、蓮實重彦のテキスト「「『赤』の誘惑」をめぐって」がソウルと北京で発表されたということの間には、何かの繋がりがあるのではないだろうか。作者や著者の発話内意図を超えた、間テクスト的で地理学的な繋がりが。

>かりにそれが偶然の一致だったとするなら、偶然の一致には著者の意図を超えたところでなにがしかの意味を持つのであり、いずれにせよ、サールのいう「フィクション=内=存在」は著者の「発話内意図」では統御しかねるものなのだ。この色彩は、それぞれの著者の意図とは無縁に「間テクスト」的な磁場を構成しており、そこでは各々のテクストがおさまるべきコンテクストを無視した意味作用が、命題の意味論的、統辞論的、文法的な論理にとらわれることなく形づくられてゆく。言説の論理を超えたかたちで類似した言語記号を引き寄せ、差異のシステムの外部に形成される吸引力を、「テーマ」と呼びたい。「フィクション」のテクストの分析にふさわしいテーマ解読は、理論的なテクストにも適応可能であるかにみえるからだ。実際、サールも、三浦も、アウエルバッハも、スペルベルも、シェフェールも、彼らが意識して選択したわけではない「赤」のテーマ体系に拘束されて発言している。「フィクション」をめぐる理論的な言説も、筆者の意図の及ばぬ「テーマ」の領域で、知らぬ間に「フィクション」に近づこうとしているかのようだ。(蓮實重彦著『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』(青土社)310ページ)

「『赤』の誘惑」をめぐって 2

2010年08月13日 | Weblog
>さらには、ジャン=ピエール・リシャールが『詩の深さ』の「ネルヴァルの魔法の地理学」の章で、植物的な「緑」のテーマが「赤」にゆきつくさまを、「ネルヴァルの燃えあがる植物性の論理的な終局」としてみごとに解読していることも想起される。ネルヴァルに「赤の叫び声」を読みとるマルセル・プルーストの分析にしたがい、フランスの批評家リシャールはこう結論する。「緑は、したがって赤に行きつくのである」。(蓮實重彦著『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)306ページ)

 ヴィトゲンシュタインが『色彩について』で「赤‐緑‐色盲」の問題について書いているということを知らなくとも、東浩紀が『文学環境論集L』を赤と緑の二冊セットにしているということに気が付けば、せめてゼロ年代批評の地平からの転落だけは避けられると思う。『文学環境論集L』では、赤本がエッセイ、緑本がジャーナルとなっている。そして続く『情報環境論集S』はテクノロジーの問題を扱った黄色の本だ。ここで蓮實重彦を踏み台にして大雑把に跳躍してみれば、「緑(コミュニケーション)が、したがって黄(テクノロジー)を介して、赤(スペキュレイティヴ)に行きつくのである」と言えるだろう。言えないのかも知れないが(爆)。

ミステリック・サイン

2010年08月12日 | Weblog


>柄谷によれば、前近代の物語の言葉は「不透明」で、近代文学あるいは自然主義の現実描写は言葉を「透明」にすることで生まれた。そして、大塚によれば、キャラクター小説はその過程で抑圧された可能性の回帰として生まれた。つまり、キャラクター小説の誕生によって言葉はふたたび「透明」ではなくなり、現実を単純に描写するものではなくなった。しかし、それはただ「不透明」に戻ったわけでもなかった。なぜならば、キャラクター小説が導入した新しい言葉、まんが・アニメ的リアリズムは、記号的でありながら「自然主義の夢」を見る、すなわち、〈不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする矛盾を抱えた、マンガ表現のそのまた「模倣」として〉作られた言語だからである。(東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』94ページ)

 エイリアンの手に息子のシャツの柄が浮き出ており、主人公の姿も腕の反対側に染み出ている。叫ぶ娘の姿も体に染み出しているが、いずれも透過しているわけでも反射しているわけでもない。このエイリアンは泥で固めたように不透明な奴だが、どうやら自分では透明のつもりでいるか、透明になろうとしているようなのだ。このエイリアンの体内から皮膚の表面に染み出してブレる像をよく見てほしい。「ミステリック・サイン」とは、もちろん黒瀬陽平の作品シリーズのタイトルである。

 ところで保坂和志が「遠い触覚」の第一回で面白いことを書いている。ちょっと読んでみようか。

>芥川賞をもらったのはその一年半後の95年の夏のことで、Sさんのご主人の方の、つまりもともとカルチャーセンターの講師としておつきあいがはじまったIさんからお祝いの電話がかかってきて、私は、「奥さんが生きていらしたら、ものすごく喜んでくれたと思うと残念です」と言ったのだが、Iさんは即座に、「いや、わかってますよ」と言ったのだった。

「『赤』の誘惑」をめぐって

2010年08月12日 | Weblog


>一見したところごく些末な設問から分析を始めたい。サールが「赤頭巾」に言及したのは何故かという設問である。それは、すでに見たように、「赤」という単語が「フィクション」においても日常生活においても同じ赤を意味すると主張するためだった。彼にしたがうなら、「『赤い』は色を塗った(あるいは色を塗りうる)対象についてのみ賓辞たりうる」ものである。「頭巾」は「色を塗りうる」対象の一つであるが故に、「赤頭巾」は例として成立しうることになる。このことは日本の文学理論家であり作家でもある三浦俊彦が、『虚構世界の存在論』(勁草書房)の中で、「虚構『赤い靴』において、少女カレンは赤い靴を履いて踊った」は命題として真だと書いていることとも関係を持つ。これが真であるのは、『赤い靴』が、主人公である少女の靴が赤である世界だけを含んでいるからだと三浦はいう。だが、彼は著作『虚構世界の存在論』の中で、「赤紫」のように境界領域にある色についてそれが妥当するか否かは決定しえないと述べ、サールとは異なり「虚構世界」の不完全性に言及している。(蓮實重彦著『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)302ページ)

 シャマランの『ヴィレッジ』を設定する色調、この赤と黄色の境界領域にある「セピア」という色調が、すでにそれだけで「虚構世界」の不完全性を示している。言語行為論のジョン・R・サールによる『赤頭巾』への言及の指摘から始まる蓮實重彦のこのテキスト「「『赤』の誘惑」をめぐって」を読むと、シャマランの理論家ぶりにあらためて膝を打つというか、腑に落ちるというか、なんというか、言語行為論(とそれへの批判)の文脈を「単調だ」とか言って馬鹿にする古谷利裕がシャマランの映画を理解できないのも当然だと思われるのだった(←また余計なことを)。

(続く)

レーザー効果―『絵葉書』から

2010年08月12日 | Weblog


>またしても幸いなことに、序文のフィクションもある、そして、S/Pという資料体(コーパス)と、それが導入部をなしている三つの試論から来る厳格な命令、私はそれがレーザー効果を発揮することを期待している、このレーザー効果は反転して、手紙(レトル)、および、事実上、私たちの身体の表面を裁断することになるだろう。その効果は原則的には、私のどの選択も正当化し、電動タイプライターの運動を統御できることになるだろう。(ジャック・デリダ著『絵葉書』322ページ)

狂気の老人たち―『絵葉書』から

2010年08月12日 | Weblog
>私はといえば、さしあたり、君にこう言っておこう、私に見えるのは、プラトーがソクラテスの背後で勃起している姿だ。そして、彼の陰茎の無分別なヒュブリス(傲慢)、際限のない、度外れた勃起が、あたかもそれだけが唯一の観念であるかのように、パリスの頭と写字生の椅子を貫通し、まだ熱い状態のまま、ソクラテスの右足の下に、ゆっくりと滑っていく姿だ、そのさまは、すべて同じ方向に差し向けられているさまざまな尖ったペン先、ペン、指、爪、字を削り取るナイフ(グラトワール)、筆記具入れなどといった、男根(ファルス)の束と調和的あるいは交響楽的な運動をなしている。このカップル、これら狂気の老人たち、跨って街中を走り回る腕白小僧達......(ジャック・デリダ著『絵葉書』31ページ)

『絵葉書』では最初に、ジャックがボドーリアン図書館でこの問題の絵葉書を「こwれwはwww」と発見したときの興奮が伝えられる。ジャックによれば、このときプラトンは、スケートボードに乗り、片足で警報機のペダルを踏みながら、ソクラテスの背後でなんと勃起しているという。確かに言われてみれば、そんなふうに見えなくもない。しかしあまり愉快な話ではない。おもしろおかしくて堪らない様子のジャックだが、のちケンブリッジ大学から名誉博士号を受けるときに深刻な意見対立が起きたというのも分からなくもない。

洞窟へ 2

2010年08月10日 | Weblog


>わたしたちの最大の困惑の種は、ヘプタポッドの“文字”だった。なにしろ、まったく文字には見えない。どちらかというと、複雑なグラフィックデザインの寄せ集めに見える。この表語文字の配置には、行や渦巻きといった線形(リニア)の様式はどこにもない。フラッパーもラズベリーも文をそのようにはつづらず、必要となった多数の表語文字をくっつけあわせて巨大な集合物にしてしまうのだ。〔...〕〈ヘプタポッドB〉の文のサイズが相当に大きくなったとき、その視覚的効果は目覚しいものになる。解読しようという意図なしに見た場合、その文字は、たがいに少しずつ方向のずれたおのおのの線がすべてからみあってエシャーの描く格子めいた様相を呈し、奇想天外な、走り書きで描かれた祈りをささげるカマキリのようなものに見える。最大の文がもたらす効果となると、目が潤んできたり頭が朦朧としてきたりと、サイケデリック調のポスター類に近い。(テッド・チャン著『あなたの人生の物語』207、217ページ)

 現代ドイツを代表する画家、ヨナタン・メーゼ(ジョナサン・ミース)もまた何かの「ヘプタポッド」ではないだろうか。それを格好つけて「グラマトロジー」とか呼んでしまえば直ぐに叱られてしまうだろうが、この男の奇妙な言動は、チャンが『あなたの人生の物語』を「SF」として書かねばならなかったであろう理由と、どこかで通じ合っているように思える。そろそろ禁断の「グラマトロジー」をかじってみる必要があるだろう。

洞窟へ

2010年08月10日 | Weblog
>港千尋はこのことを謎のように感じているが、しかし、ぼくにはとても腑に落ちる。というか、この記述を読んで、ぼくの今やっていることが、何万年も前の旧石器時代の人がやっていたことと変わりないのだということが感じられて、すごく興奮する。(古谷利裕の偽日記2010-07-24より)

 そりゃ古谷は単純だからな。なんだって簡単に「腑に落ちる」だろうさw。しかし『洞窟へ』を読むと、そこで港氏がうすうす感じている謎は、何かもっと途方もなく大きなものだ。港氏の洞窟画への関心がまず言語行為論的なものであったことには訳があるんだ。それについてテッド・チャンの示唆を受けよう。もう何の話か分かるだろ。少々飛躍している気もするが。

>ヘプタポッドの“贈り物”がなんであったかを確認するために、イメージを記録したテープをのちほど再生することになっていた。わたしたちの“贈り物”は、ラスコー洞穴の壁画のひとつを提示することだった。(テッド・チャン著『あなたの人生の物語』271ページ)

天空のブラッディ・ロード

2010年08月08日 | Weblog
>しかし、彼自身の意図がどうあれ、ジャムは零と雪風からなにかを学び、零と雪風もまたそこからなにかを学び、そこに新しい生命状組織が誕生することだろう。生殖行為に愛は要らない。天空のブラッディ・ロード、つまり「血の道」に向けて最大推力で突き刺さる戦闘妖精の姿、それは筆者には、風の女王の飛翔というより、人類がジャムの子宮に向かって行った巨大な射精のように見える。(東浩紀著「鏡像から生殖へ―戦闘妖精の精神分析」より、『文学環境論集L』(赤本)220ページ)

 何言ってるのかマジで意味不明なんですけどwww。神林長平の小説を読んでいないから分からないにしても、比べてまだ黒瀬陽平の文章のほうが常人的に理解可能だって気がする。ていうかこの電波感、村上裕一かと思った。

秋葉原レッド・ライン

2010年08月08日 | Weblog
>「オルフェウスの死の図像」はそれゆえ、身ぶり言語の古代的最上級表現(Superlative)がその路上を移動しつつ、アテネからローマ、マントヴァ、フィレンツェをへてニュルンベルクへと到来し、アルブレヒト・デューラーの魂に入り込むに至った軍用道路の、発掘された最初のいくつかの宿駅に関する暫定的な発見報告のようなものと見なされるべきである。(アビ・ヴァールブルグ「デューラーとイタリア古代」より、田中純著『アビ・ヴァールブルグ 記憶と迷宮』216ページ)

 テレンス・マリックの映画『シン・レッド・ライン』には、河で血を洗い流すシーンの他に、ジャングルを切り開いて通された軍用道路上で、負傷兵達が輸血を受けながらジープで運ばれていくシーンがある。つまり軍用道路とは「血の道」であり、遺伝子の伝達経路でもあるというわけだが、このよく知られた秋葉原事件の発生直後の映像にも、そのレッド・ラインが写り込んでいる。警官に押さえ付けられた加藤の背後に見えるのは、横に長い赤い看板と、その下のコンクリートに何故かスプレーされた赤い塗料の線(?)である。これが偶然であり、また深読みし過ぎであることは分かっているが、しかし何故、加藤がこの場所で犯行を止めたのか、という疑問は残る。加藤の頭から流れている血が、コンクリート上の赤い線に混ざりこんでいる。(続く)

2012年

2010年08月07日 | Weblog


>ポストモダニストたちが「すべてが行われてしまった」と思えたのは、実は「すべてが記録され利用可能になってしまった」からでしょう。それこそ、大破局でも来て過去の遺産がすべて消えてしまえば、何をやってもオリジナルだと思えただろう。だからポストモダン文化の核心は、実は僕の考えでは「アーカイヴ化」にこそある。(東浩紀著『不過視なものの世界』208ページ)

 映画『2012年』では最新のCG技術が、世界の大破局をよりリアルに描き出すためだけに使われている。アーカイヴ化が完了した時点で、それでもなおオリジナリティのリニューアルを図るためには、一度すべての記憶を消去しなければならない。フロイトは『マジック・メモについてのノート』で、「片手でマジック・メモの表面にメモを書きながら、別の手で定期的にカバー・シートを臘盤から剥がしていると想像すると、人間の心の知覚装置の機能について私が思い描いているイメージに近くなろう」と語っていた。おそらくメモの余白はもう無いのだ。そろそろ私たちは、カバー・シートを臘盤から剥がさねばならない時期に来ているのである。コンピューターは、そのためにこそ使われる。

佐々木友輔の映像ダウジング

2010年08月02日 | Weblog


>具体的な事例を見てみよう。象皮症を患うインド人男性の写真の場合、振り子は、写真からはみ出さんばかりに大きな楕円をやみくもに描き続けた後、静止した。目で追うことができないほどの激しい動きは、この男性が、身体のみならず精神も病んでいることを示す。振り子が静止した後には、実験者は、胃への圧迫感と息苦しさを覚えた。〔...〕 同様の実験を繰り返し行ったカレンベルクは、写真の上に垂らした振り子が、被写体の性別、健康状態や体質、気質、撮影時の興奮状態などによって異なった動きを見せることを確信した。(浜野志保著「カレンベルクの写真ダウジング」より、『ヴァナキュラー・イメージの人類学』85~86ページ)

 上の映像は、佐々木友輔が秋葉原事件の後に行った「場撮り」である。映画『夢ばかり、眠りはない』は、こうした「映像ダウジング」の集積として作られている。すなわち「場撮り」とは、あくまでも撮影後の写真を対象とするカレンベルクのダウジングと同様に、すでに映像化している現実から、ある種の身体性を切り取ろうとする行為である。

>しかし、この肖像写真は、共に保存された頭髪と同じく、被写体から切り取られた身体の一部として、そこに存在しているようにも見えるのだ。(同90ページ)

 このジェフリー・バッチェンの「切り取り」には、次の「二重所属性(散種)」を見て取ることができる。

>パフォーマティヴな言明とはそもそもそれ自体が、ある意味ですでに引用付きのもの、本来のコンテクスト(コンスタティヴな機能)から抜き取られて使用されたものだったからである。〔...〕「すべての記号が引用されうる」とはデリダにおいては、あらゆる言明が寄生的に、あるいはパフォーマティヴに使われる可能性に曝されていることを意味する。これは裏返せば、あらゆる言明について、その使用が通常的か寄生的か、コンスタティヴかパフォーマティヴか決定することが原理的にできないことを意味する。(東浩紀著『存在論的、郵便的』17~18ページ)

 そしてさらに「ポジティング」について。東浩紀が「テロ」と指摘した秋葉原事件を、なぜ佐々木は映画の題材にしなければならなかったのか? 次の東の発言には、その理由について藤田直哉的な「ロマンティシズム」から離れて考えるための重要なヒントが含まれている。もしかして加藤は、比喩的に言って、紙媒体に書かれている限りは人間だったが、電子媒体を通ることで兵器と化したのではなかったか。このあたりの話はメディア論的に深い。

>あとテッド・チャンの「七十二文字」もいい。あの短編では、文字を書き込むことがイコール物を動かすことという発想が出てくるけど、それは現実で言えばプログラムのことでしょう。プログラムというのはたんなる記号の羅列でしかないにもかかわらず、それによって直接に実体が変わる。〔...〕つまりプログラムというのは、紙に印刷されているかぎり言論だけど、フロッピーディスクに入れると軍需品になってしまう。こういう意味で、プログラムは言葉と物の境界にある。(東浩紀著『批評の精神分析D』126~7ページ)

(続く)

浮き上がるものたち

2010年08月01日 | Weblog
>そこで問われているのは、Daを構成するより詳細なメカニズム、あらゆるシニフィアンに幽霊=分身(double)としてのエクリチュールを取り憑かせ、かつそれを剥離させる「二重の力」の具体的動きである。「エクリチュールの舞台」とは、痕跡が記載され同時に剥離される亡霊的な空間を意味する。(東浩紀著『存在論的、郵便的』324ページ)



『思想地図』3号の「アーキテクチャと思考の場所」という討議のタイトルがどうしたって「フロイトとエクリチュールの舞台」を思わせることから確認してみれば、最後に磯崎新がやはり「重さ」について語っていた(74ページ)。いわく、いまや重さを誰も感じずに物体の設計をしており、現場でモノに変換できないような図面が大量にできあがっている。物事を操作だけで決めていくと、そこから重さが消えて、身体性が希薄になる......。20世紀後半から、人々が「浮き上がるものたち」を意識し始めたのには理由がある。おそらく無意識的に「浮き上がるものたち」を使って、「エクリチュールの舞台」のもつ「二重の力」の動きを「ダウジング」しようとしていたのである。ベッドの上に浮き上がる少女や、ビリー・マイヤーの円盤は、すでにして高度情報化社会におけるアーキテクチャ(環境)とインターフェイス(操作)の問題を、意外な形で予告していた。

>フロイトはこの文章(「マジック・メモについてのノート」)の最後で「片手でマジック・メモの表面にメモを書きながら、別の手で定期的にカバー・シートを臘盤から剥がしていると想像すると、人間の心の知覚装置の機能について私が思い描いているイメージに近くなろう」と語っています。これは中世の写字生を思い出させますが(片手に尖筆をもち、別の手に字消しナイフをもった姿です)、同時にコンピューターを予告するものでもあります。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻347ページ)

(続く)