>昨日お会いした時に利部志穂さんが、台北でやったパフォーマンスをYouTubeにアップしたので観て下さいと言っていて、検索してそれをみつけた。赤ずきんちゃんみたいな衣装が意味不明なところまで含めて、利部さんぽくてすごくかっこいい。(古谷利裕の偽日記2010-06-10より)
批評家が「意味不明」という言葉を使ったら「負け」だと思うんだけど......。それはともかく、この利部志穂の「赤頭巾」のパフォーマンスが台北で行われたということと、蓮實重彦のテキスト「「『赤』の誘惑」をめぐって」がソウルと北京で発表されたということの間には、何かの繋がりがあるのではないだろうか。作者や著者の発話内意図を超えた、間テクスト的で地理学的な繋がりが。
>かりにそれが偶然の一致だったとするなら、偶然の一致には著者の意図を超えたところでなにがしかの意味を持つのであり、いずれにせよ、サールのいう「フィクション=内=存在」は著者の「発話内意図」では統御しかねるものなのだ。この色彩は、それぞれの著者の意図とは無縁に「間テクスト」的な磁場を構成しており、そこでは各々のテクストがおさまるべきコンテクストを無視した意味作用が、命題の意味論的、統辞論的、文法的な論理にとらわれることなく形づくられてゆく。言説の論理を超えたかたちで類似した言語記号を引き寄せ、差異のシステムの外部に形成される吸引力を、「テーマ」と呼びたい。「フィクション」のテクストの分析にふさわしいテーマ解読は、理論的なテクストにも適応可能であるかにみえるからだ。実際、サールも、三浦も、アウエルバッハも、スペルベルも、シェフェールも、彼らが意識して選択したわけではない「赤」のテーマ体系に拘束されて発言している。「フィクション」をめぐる理論的な言説も、筆者の意図の及ばぬ「テーマ」の領域で、知らぬ間に「フィクション」に近づこうとしているかのようだ。(蓮實重彦著『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』(青土社)310ページ)