SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

秋葉原レッド・ライン4

2010年08月16日 | Weblog
RT @JacquesDerrida このことはおそらく(たとえばであって、ここのところは特に慎重に聞いてほしいのですが)、フロイトが、彼もまた、見事なまでの豊かさと連続性をもって、われわれのためにエクリチュールの舞台を整えてきた、その身振りにうかがえることでしょう。ここでは、そうした舞台のことを、個体的集団的な心理学、さらには人類学との関連においてではなく、まったく別個に考えなければなりません。これを世界の舞台の地平内で、そうした舞台の歴史として考えなければならないのです。フロイトの言説はそこに捉えられているのでした。したがって、フロイトはわれわれのためにエクリチュールの舞台を整えているのでした。物を書く者なら誰もがそうするように。そして、書くことを知っているものなら誰もがそうするように。フロイトは、舞台が二重化され、反復され、自らその姿を舞台の中であらわにするにまかせています。したがってわれわれは、フロイトに向かってこそ、彼が整えてくれた舞台を語らせることになるでしょう。われわれのフロイト閲読を沈黙の内に監視してきたひそかな銘句を、まさしくフロイトから借用することになるでしょう。(ジャック・デリダ著「フロイトとエクリチュールの舞台」より、『エクリチュールと差異』114ページ)

 ここのところも特に慎重に聞いてほしいのだが、バーネット・ニューマンもアンディ・ウォーホルもまた、見事なまでの豊かさと連続性をもって、加藤智大のために、そして我々のために、エクリチュールの舞台を整えていたのである。絵を描く者なら誰もがそうするように。この写真には、二重化され、反復された舞台の中であらわにされたバーネット・ニューマンの「ジップ」を、はっきりと確認することができる。

秋葉原レッド・ライン3

2010年08月16日 | Weblog
 もうはっきり言ってしまったほうがいいかもしれない。バーネット・ニューマンの「英雄的にして崇高な人」は、秋葉原事件に「前もって」描かれた絵画である。加藤の後ろに赤い看板と線が映っているのは偶然ではなく、それらはニューマンが、まさにこの事件のために用意した赤いキャンバスでありジップである。最終的に「英雄的にして崇高な人」に到る抽象画の連作をニューマンが描き続けていたのは、そのうちのどれかが、この「絵」に組み込まれるであろうからだった。しかし、ニューマンの抽象画だけでこの「絵」を完成させることはできず、その後のポップ・アートによる反転的な補完が必要となる。「商品大量展示」というポップがニューマンの不足を補い、ついにこの「英雄的にして崇高な人」の「絵」を完成させるのである。つまり秋葉原事件とは、バーネット・ニューマン(思弁)とアンディ・ウォーホル(投機)と加藤智大(その盲点)のコラボレーションにより、時を越えて実現された「作品」だったのである。