SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

浮き上がるものたち

2010年08月01日 | Weblog
>そこで問われているのは、Daを構成するより詳細なメカニズム、あらゆるシニフィアンに幽霊=分身(double)としてのエクリチュールを取り憑かせ、かつそれを剥離させる「二重の力」の具体的動きである。「エクリチュールの舞台」とは、痕跡が記載され同時に剥離される亡霊的な空間を意味する。(東浩紀著『存在論的、郵便的』324ページ)



『思想地図』3号の「アーキテクチャと思考の場所」という討議のタイトルがどうしたって「フロイトとエクリチュールの舞台」を思わせることから確認してみれば、最後に磯崎新がやはり「重さ」について語っていた(74ページ)。いわく、いまや重さを誰も感じずに物体の設計をしており、現場でモノに変換できないような図面が大量にできあがっている。物事を操作だけで決めていくと、そこから重さが消えて、身体性が希薄になる......。20世紀後半から、人々が「浮き上がるものたち」を意識し始めたのには理由がある。おそらく無意識的に「浮き上がるものたち」を使って、「エクリチュールの舞台」のもつ「二重の力」の動きを「ダウジング」しようとしていたのである。ベッドの上に浮き上がる少女や、ビリー・マイヤーの円盤は、すでにして高度情報化社会におけるアーキテクチャ(環境)とインターフェイス(操作)の問題を、意外な形で予告していた。

>フロイトはこの文章(「マジック・メモについてのノート」)の最後で「片手でマジック・メモの表面にメモを書きながら、別の手で定期的にカバー・シートを臘盤から剥がしていると想像すると、人間の心の知覚装置の機能について私が思い描いているイメージに近くなろう」と語っています。これは中世の写字生を思い出させますが(片手に尖筆をもち、別の手に字消しナイフをもった姿です)、同時にコンピューターを予告するものでもあります。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻347ページ)

(続く)