SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ミステリック・サイン2

2010年08月14日 | Weblog
RT @kenjirookazaki(岡崎乾二郎) 夜、口笛をふくと蛇に襲われるという言い伝えがあった。/// けれど蛇に耳はない(正確には耳にあたる器官は皮膚内部に埋もれ、鼓膜も鼓空もない)。つまり蛇に空気中の振動は聞こえず地面を通して伝わる振動しか捉えることができない。蛇の聴覚はむしろ触覚的な感覚。

 そwれwだwww。このエイリアンも耳が埋もれてる。妻の「前もって」知っていたかのような最後の言葉も、次のように考えると腑に落ちる。さすが最終解脱者だ。

RT @kenjirookazaki(岡崎乾二郎) ところで絵画において観客はいつもヘビの立場にいる(場面の中に生じているだろう音を聴く事も、起こっているすべてを見通すこともできず、にもかかわらず、すべてを前もって与えられてしまっている)。直接、事件を起こしたヘビ同様に、その事件の生起(それを認めること)も隠蔽も観客に委ねられる。

秋葉原レッド・ライン2

2010年08月14日 | Weblog
>目にするもののことごとくが赤色を帯び、ものとものとの識別さえままならぬ真っ赤な色彩だけが視界に拡がりだしていたとしたら、フィクションを論じる者は、そうした事態にどう対処すればよいのか。「赤」さが視界をおおいつくすといった作品は、これから見てみるように、まぎれもなく存在している。日常的な感性からすればいささか異常とも映るそんな事態は、はたしてフィクションとして生起しうるのか、生起しえないのか。かりにフィクションとして生起しうるとするなら、その場合のフィクションとはいかなる概念をいうのであるか。そうした問題を探求するのにふさわしい例として、『フィクションの美学』の西村清和がその最終章「崇高の美学」で言及しているバーネット・ニューマンの絵画《Vir Heroicus Sublimus》をとってみるとどうなるか。文字通り「赤」さに支配されたこの抽象絵画における「赤」さの氾濫は、フィクションをめぐる理論家達が話題とした「赤」い頭巾、「赤」い靴、「赤」いメガネ、等々、にもまして徹底したものであり、キャンバス一面を「赤」の絵の具がむらなくおおっている。(蓮實重彦著『「赤」の誘惑-フィクション論序説』(青土社)135ページ)