SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

秋葉原レッド・ライン7

2010年08月19日 | Weblog
RT @ShigehikoHasumi: ウィルフレッド・セラーズの『科学、知覚、現実』の「経験主義」の章では、「物理的な対象は感覚内容の事実的かつ可能的な原型である」という事実を語る例として何度も「赤」に言及している。「ジョーンズは、一つの赤い三角形の拡がりを感じ取った」、「赤い三角形の拡がりが存在する」、「赤い三角形の感覚内容が存在する」、等々、である。ウィラード・クワインもまた『ことばと対象』の第一章「言語と真理」を「日常的自称」の考察から始め、すぐさま「痛い!」という痛みをあらわす主観的な一語文と同時に「同時に観察している複数の人々がほぼ一様な刺激状況」を持ちうる客観的なケースとして、「赤」の分析を始めている。「赤‐緑」の色盲が「redのうちに人夕日を入れて草は除き、ロブスターはゆでた後だけ入れる」という識別をどのように習得するかという問題からその考察を始めるクワインは、「不明瞭性(vagueness)」は、語の学習の基本的なメカニズムの当然の帰結である」といい、「たとえば“red”(赤い)という言語的反応を引き出す刺激は、境界のはっきりしたクラスを成すのではなく、ある基準形を中心にしてその周囲に分布している」と述べている。(蓮實重彦著『「赤」の誘惑-フィクション論序説』(青土社)307ページ)

「大丈夫だよ!救急車来たよ!」「救急車とおります、どいてください!」 路上で治療を受ける被害者達の痛々しい姿を見て、あらためて加藤に対する怒りを覚え、そして公判における供述に注目した人も多いだろう。だが、もはや加藤の「意図」や、その「解釈」などどうでもいい。分析すべきは、事件をいちど加藤の意図から切り離した上で、事件と環境の相互作用を考慮し、加藤にこの事件をそのように起こさせ、そのように供述させることになった、その無意識の力学である。(参考:東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』215ページ)
 
 先の映像では、何人もの人が治療を受ける被害者の前を心配そうに通り過ぎているが、そこでひとり赤いポロシャツを着た人物が一寸止まり、治療の様子を覗き込んでから通り去っている。あたかも「赤」の怪物が、カメラの前で、その姿を一瞬だけ現したかのようなのである。ほんの一瞬だが、その赤いポロシャツが、まるで枢機卿の法衣のような三角形を形作るのだ。