美術批評家の市原研太郎氏が報告するように、現在、世界のアート界は、「アートフェア系」と「国際展系」という二つの大きな傾向に分割されている。この二極化現象について、東氏の新著『ゲーム的リアリズムの誕生』の議論(第一章C-17、P143)に即して考えてみたい。すると「アートフェア系」は「コンテンツ志向」の、そして「国際展系」は「コミュニケーション志向」の環境展開であることが分かってくる。そして市原氏の指摘を繰り返せば、この二つの志向系は現在、「完全に分割され、その溝がますます広がりつつある」。
>コンテンツ志向メディアは、ひとつのパッケージをひとつの物語で占有し、それを受容者に伝達する。コミュニケーション志向メディアは、ひとつのパッケージあるいはプラットフォームのうえで、〈まずコミュニケーションを組織し〉、その副産物として複数の物語を産み落とす。前者では、物語がメディアの内容(コンテンツ)そのものであるのに対して、後者では、物語はメディアの内容(コミュニケーション)の効果として生み出されるにすぎない。(『ゲーム的リアリズムの誕生』P143)
90年代以降、現代アートは「リアル」と向き合おうとすると同時に「コミュニケーション」を求め始める。だがこのふたつの言葉を耳にして、たとえば古谷利裕氏や永瀬恭一氏みたいに「そんな馬鹿な、というかそんな事を言う人は馬鹿だ」と思う近代主義者は、そこで問われているのが「アーティスト達が何をリアルだと感じているか」という精神医学的な現実性ではなく、「アーティスト達が何をリアルだと感じることにしているか」という社会学的な現実性であることに気付いていない(同P60)。ましてや「表現はそのまま現実と向き合うわけではない。いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない」のである(同P143)。(続く)
>コンテンツ志向メディアは、ひとつのパッケージをひとつの物語で占有し、それを受容者に伝達する。コミュニケーション志向メディアは、ひとつのパッケージあるいはプラットフォームのうえで、〈まずコミュニケーションを組織し〉、その副産物として複数の物語を産み落とす。前者では、物語がメディアの内容(コンテンツ)そのものであるのに対して、後者では、物語はメディアの内容(コミュニケーション)の効果として生み出されるにすぎない。(『ゲーム的リアリズムの誕生』P143)
90年代以降、現代アートは「リアル」と向き合おうとすると同時に「コミュニケーション」を求め始める。だがこのふたつの言葉を耳にして、たとえば古谷利裕氏や永瀬恭一氏みたいに「そんな馬鹿な、というかそんな事を言う人は馬鹿だ」と思う近代主義者は、そこで問われているのが「アーティスト達が何をリアルだと感じているか」という精神医学的な現実性ではなく、「アーティスト達が何をリアルだと感じることにしているか」という社会学的な現実性であることに気付いていない(同P60)。ましてや「表現はそのまま現実と向き合うわけではない。いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない」のである(同P143)。(続く)