東京国立近代美術館ギャラリーで現在開催中の企画展『リアルのためのフィクション』展は、「コミュニケーション志向」を持った四人の女性アーティスト達による「小さな国際展」だ。このそれぞれに多様な印象を与える彼女達の作品からは、「フィクションを通して逆説的にリアルなものの扉を開く鍵」(プレスリリースより抜粋)となる、あるひとつの共通した方法論を見出すことができる。イケムラレイコは子供と大人の狭間にいる少女を描き、ソフィ・カルは私的な日記と公的な文書の撹乱を目論み、やなぎみわは商業資本と人々を繋ぐ案内嬢を演じ、そして塩田千春は身体を清める行為で身体を汚す。いずれも、ふたつの異なる位相(両義性)を、ひとつの同じ表現行為の内に開示している。私の気のせいなのかもしれないが、この四人の作品は、東氏の『ゲーム的リアリズムの誕生』(第一章B-10~11、P92~107)で展開される「半透明性」の議論と何か深い関係がある。というか実際そこでは「仮構を通してこそ描ける現実」についてガチに議論されている。だがそれにしても「透明な言葉を使うと消えてしまうような現実を発見し、それを言葉の半透明性を利用して非日常的な想像力のうえに散乱させることで炙りだすような、屈折した過程にあると考えられないだろうか」(同P102)という説明は難解だ。ここを突破しないと先には進めないとはいえ、すでに当方わけわからん(←マテ)。(続く)