>現在において、「現代」が成立しないのだとすれば、それは「近代」というプログラムがもはや作動しなくなったということを意味するように思われる。それは「普遍(理念)」の失効、つまり「正しさ」が意味をもたなくなったということだと思う。これはつまり、より完璧に「神が死んだ」ということではないだろうか。我々は今後、神(普遍)の成立しない世界を生きなくてはならないのではないか。これが間違っていないとすれば、モダンとかポストモダンとか言っている場合ではないように思う。(古谷利裕の偽日記07/04/15より抜粋)
いや、言ってる場合だと思いますよ。そうでないと、そもそも何故その「普遍(理念)」が失効するのか、その説明がつかなくなる。「何が“現代”の精神を忘れさせたのか?」と問う保坂和志氏は、実はそこでメディアの問題に触れている。コンテンツ志向メディアに基づくmodern(大きな現代性)と、コミュニケーション志向メディアに基づくcontemporary(小さな現代性)という二つの現代性の区分が、そこでは「文化人の発言が小学6年生の発言のように失笑を買わない理由」として語られている。ここで詳しいことは言わないが、要するに近代的な普遍(理念)が失効しかけているのは、係るメディア環境が「一方的」なコンテンツ志向から「双方向的」なコミュニケーション志向へと大きく変化しているからだ。ちなみに近代的な普遍(理念)とは「神が死んだ」からこそ可能となっている(近代=再帰的近代=否定神学)。
いや、言ってる場合だと思いますよ。そうでないと、そもそも何故その「普遍(理念)」が失効するのか、その説明がつかなくなる。「何が“現代”の精神を忘れさせたのか?」と問う保坂和志氏は、実はそこでメディアの問題に触れている。コンテンツ志向メディアに基づくmodern(大きな現代性)と、コミュニケーション志向メディアに基づくcontemporary(小さな現代性)という二つの現代性の区分が、そこでは「文化人の発言が小学6年生の発言のように失笑を買わない理由」として語られている。ここで詳しいことは言わないが、要するに近代的な普遍(理念)が失効しかけているのは、係るメディア環境が「一方的」なコンテンツ志向から「双方向的」なコミュニケーション志向へと大きく変化しているからだ。ちなみに近代的な普遍(理念)とは「神が死んだ」からこそ可能となっている(近代=再帰的近代=否定神学)。