SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

現代アートとポストモダン 第6回

2007年04月19日 | Weblog
 この室井尚氏による「新人類」世代への違和感もまた、ポストモダニズム精神によるポストモダン環境への無意識の拒絶反応として理解されるだろう。このとき室井氏は、ポストモダニズム精神とポストモダン環境を区別してはいない。しかし、違和感としてその違いに気付いているのである。確かに宮台真司氏や椹木野衣氏の言説のもつその「独特の密室的暗さと閉塞感」は、それまでの開放的で楽天的、そして何よりも「幻惑的」だった80年代のポストモダニズム精神には無い感覚である。たとえば、この86年に制作された浅田彰氏のビデオ・パフォーマンス(これこれ)を診ると、まさしくそのブリリアントな「幻惑」の作用こそがポストモダニズム精神の肝要であったことがよく分かる(というか笑える)。こうした幻惑作用にいまだ強く依存した「文化の気象学」を提唱する室井氏が、その幻惑を蒸発させるポストモダン環境に自覚的な宮台真司氏や椹木野衣氏の言説に違和感を持つのは当然なのである。90年代以降のポストモダン環境では、あらゆる知的幻惑は蒸発する。あるいは当然のように、茂木健一郎のクオリアという幻惑が干からびるのも時間の問題だろう。(続く)