90年代という「絵画が失われた10年」を間に挟んで、かつての80年代の新表現主義(ニュー・ペインティング)の時代と、現在の「絵画の勝利」(サーチ・ギャラリー)の時代とでは、その絵画表現の方法にいかなる違いがあるのだろうか。
サーチ・ギャラリーによる90年代の清算は、周知のように看板アーティストのデミアン・ハーストを追放するなどして大胆に行われた(ちなみに美術界の第一線から締め出される前に自ら終わっておこうと考える村上隆の日本男児的な潔さにくらべ、「もう誰でもいいから俺を買ってくれ」と言わんばかりに自分を安売りしだしたデミアンのその姿はなんとも惨めであると言うほかない)。
サーチ・ギャラリーのこの決断は、「絵画が失われた10年」の責任が自分達の「面白主義的」で「尻軽」なコレクションの方針にもあったことを認めたうえでの悔悛でもある。なにしろ今年丸一年かけて展開されている『The Triumph of Painting』展の絵画プロジェクトに賭けるサーチの意気込みは尋常ではなく、もう冗談抜きで「本気」なのである。本気で「失われた10年」自体を追放し、80年代と現在を絵画表現の領域において邂逅させようというのである。
ふたつの時代の絵画表現の構造的な違いは、80年代の新表現主義(ニュー・ペインティング)が基本的に「メタ絵画」であったのに対し、現在の絵画はいわば「メタリアル絵画」とでもいうべきものに変質しているところにあるように思える。
(この話は次回に続くので、いい子にしているように)
サーチ・ギャラリーによる90年代の清算は、周知のように看板アーティストのデミアン・ハーストを追放するなどして大胆に行われた(ちなみに美術界の第一線から締め出される前に自ら終わっておこうと考える村上隆の日本男児的な潔さにくらべ、「もう誰でもいいから俺を買ってくれ」と言わんばかりに自分を安売りしだしたデミアンのその姿はなんとも惨めであると言うほかない)。
サーチ・ギャラリーのこの決断は、「絵画が失われた10年」の責任が自分達の「面白主義的」で「尻軽」なコレクションの方針にもあったことを認めたうえでの悔悛でもある。なにしろ今年丸一年かけて展開されている『The Triumph of Painting』展の絵画プロジェクトに賭けるサーチの意気込みは尋常ではなく、もう冗談抜きで「本気」なのである。本気で「失われた10年」自体を追放し、80年代と現在を絵画表現の領域において邂逅させようというのである。
ふたつの時代の絵画表現の構造的な違いは、80年代の新表現主義(ニュー・ペインティング)が基本的に「メタ絵画」であったのに対し、現在の絵画はいわば「メタリアル絵画」とでもいうべきものに変質しているところにあるように思える。
(この話は次回に続くので、いい子にしているように)