SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

Superflat @ Columbia

2005年09月02日 | Weblog
 マリリン・アイヴィやアレクサンドラ・モンローらにより今年の四月にコロンビア大にて催された「スーパーフラット・シンポジウム」の告知ページ。日本ではすでに終わっている村上隆の「スーパーフラット」ですが、しかし海外では現代の日本の文化を研究する際にはやはり欠かせないコンセプトのようです。すべてをネタとして消費しつくしてしまう日本の論壇研究者とは違いますな。

http://www.columbia.edu/cu/ealac/dkc/superflat/

あなたの芸術の物語

2005年09月02日 | Weblog
 かつて村上隆は公開討論会『原宿フラット』の席上にて、「ウォーホルのカモフラージュ・ペインティングこそがスーパーフラットの究極であり、最終到達地点である」と述べたことがある。この発言を受けた浅田彰はのち「その率直さは、むしろ並々ならぬ自信に裏打ちされたものと言えるだろう」と時評にて記している。
 確かに率直には違いない。だが何か奇妙ではないだろうか。どうして彼は自分の「最終到達地点」を事前に知っているのだろうか? 誰だって自分の夢や希望や目標について語りたいときはあるだろう。しかし彼はそこで自分の仕事の「最終到達地点」を、現実的で具体的に示していたのである。何か変じゃないだろうか。

「光線は動き始める方向を選べるようになる前に、最終的に到達する地点を知っていなくてはならない」(テッド・チャン著『あなたの人生の物語』より)

 もし奈良美智に「10年後に君はどんな絵を描いているか?」などと尋ねてしまえば、彼は直ちに中指を突き立ててこう吐き捨てるだろう、「今これから描く絵のことさえ分からないのに、そんな将来のことなんて知るか!」と。ごもっともである。「三世の書」も「ラプラスの悪魔」も存在しないのだ。アーティストはつねに未来から「自由」でなければならない。だがしかし......。

「自由意志の存在は、我々には未来は知りえないことを意味する。そして、我々はその直接的経験があるからということで、自由意志は存在するだろうと確信している。意思作用は意識の本質的条件なのだと。いや、そうなのだろうか? もし、未来を知るという経験が人を変えるのだとしたら? それは切迫感を、自分はこうなると知ったとおりの行動をすべきだという義務感を呼び覚ますのだとしたら?」(テッド・チャン前掲書)

 もし村上隆がプラモデルを組み立てるように、そしてぬりえを塗りつぶしてゆくようにして作品を「創造」しているのだとしたら、もしそうなら事態は深刻である。あるいは彼は自分の未来を知っている。原因が発生する前にすでに結果を知っているという意味において。

「スーパーフラット」という言葉は村上隆を自由にする。自由意志という束縛から精神を解放する。デジタル版の「三世の書」が、3D化した「ラプラスの悪魔」が、彼に新しい記憶を与える。プロレス的でアニメ的な記憶を。