すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

お盆休みにカバー曲

2017年08月11日 | 雑記帳
 全然はかどらないCD整理。この前は「ハスキーボイス」にハマってしまったし…仕方ないかあ。今度は、処分しようと思いピックアップしていると、自分が「なんてカバー好きなんだ」と改めて感じしまう。その理由など考えたことはなかったが、そもそもカバーって何かと思い、とりあえずWikiを開いてみた。



 そこでへええと思ったのが、カバーアルバムの先駆け的なものとして、吉田拓郎の「ぷらいべいと」があったことだ。その記述が面白い。結局、赤字埋め合わせのためにヤッツケで完成させたアルバムが、オリコンで1位をとったのだ。それ以降、かの徳永英明の「VOCALIST」まで1位がなかったというから驚きだ。


 「ぷらいべえと」はセルフカバーがいい。しかし他歌手の曲は少々いただけない。拓郎のカバーで本当にいいのは「ファイト!」だろう。中島みゆき本人歌唱の味は確かに生々しい気配だが、カバーによってより沁みる曲も多い。例えば「糸」。特に先鞭をつけたと言えるBankBand(桜井和寿)が、他を圧倒している。


 カバーによって楽曲の魅力がさらにパワーアップする、またシンガーの魅力をその曲が引き出す、双方の面があるだろう。だから、と続けるのも変だが、歌が巧いだけでは響かない場合も結構多い。例えば手元にあるCDで、中西保志や佐藤竹善など一流の歌い手もアルバムを出している。しかし正直今一つと感じる。


 それぞれの好みでしょという決着だとしても、歌い手の魅力である「声」と「歌唱法」に、曲の持つ「メロディ・リズム」「アレンジ」とを出合わせるプロデュース力は大きい。カバーCDも含め処分しようとするこの機会に、勝手にいい出合いと感じる曲を浮かぶままに五つばかり挙げておく。全部Youtubeにある。


「たしかなこと」(by絢香)

「わかれうた」(by平井堅&草野マサムネ)

「ひこうき雲」(by小谷美沙子)

「夏の魔物」(by小島麻由美)

「オリビアを聴きながら」(byハナレグミ)

山の日の前の日の道の日

2017年08月10日 | 雑記帳
 今日は「道の日」。明日の「山の日」が祝日であり、比べれば本当に存在感が薄い。制定した国土交通省(旧建設省)では、何かイベントでもするのだろうか。高速道路無料なんて実施してみれば、結構盛り上がると思うが…。いやそんな目先のことではなく、問題なのは「人の道」ですよ、と自らをたしなめる。



 一昨日傍聴したある会で、発言者の一人が「秋田は学力が高くとも、人材力がどうかというと…」と述べた。もちろん「学力=人材力」とは考えてはいないだろうが、ニュアンスとしては、そんなふうに近づけていく教育志向が感じられた。地域の生き残り戦略として聞けば賛同できないわけではない。が、しかし…。


 この志向にはかなり綿密な計画立てが必須だ。幼少期のレベルから中学高校と発達段階に沿った展開こそ肝要だ。会の中で何度も連呼される「発信」という言葉に踊らされると、本末転倒である。初期段階で「没頭する」「学び浸る」といった経験を十分積む意義を繰り返し強調したい。基礎を脆弱にしてはいけない。


 外部表現や発信を求めるのはどうしても大人の側であり、自分たちがそれで満足する傾向がある。手抜かりなく、無難にまとめようとする。それは子どもの学びたい意欲も、本当に表現したいことも削いでしまう危険性を持つ。その自覚がほしい。そういえば最近の「人づくり革命」という言葉もかなりハテナである。


 「人づくり」とは少し奢った考えだ。退職前年に新統合校の教育目標設定に携わった。「つくる」と決めたその目標は「すすんでつくる・みんなでつくる・みらいをつくる」と細分化した。学び習う姿勢や方向性とともに「つくる」べき中味も示したつもりだ。「人」をつくりあげるのではなく、人が「」をつくるのだ。

「味わう」を味わう

2017年08月09日 | 雑記帳
 「~~~、そのまま緩んだ感じを味わう」というストレッチ運動の記事を見て、実際に動いていたら、心にストンと落ちる気がした。変哲のない表記のなかにある「味わう」の意味が実感として迫ってきた。大げさだなあという方もいるだろうが、きっと自分はこの「味わう」にひっかかりを持っていたからだと思う。


(旬の茄子の味噌汁は、味わい深い)

 「料理を味わう」ことではない。昔、国語の授業のための学習指導案に目標として「~~~読み味わう」と書く方が少なくなかった。教師用指導書にそう記述があったからか。それがどうにもぴんとこなかった。「読み味わうってどういうことですか」…何度も尋ねた。どんな姿を求めているのか明確でなかったからだ。


 納得した答えに出会った記憶がない。「味わう」という表現で括るために、どんな「活動」をして「学び」を得るかが具体的でなかった。「味わう」とは辞書によれば「よさを感じる・意味を深く考える・体験する」ということ。当然だがそのために「心をそこに集中する」ことが必要だ。その手立てが見えるかどうかだ。


 手立てを講じれば、素材が変化し、違った様相、感覚を見せる。それを集中して感じ取る(そのまま浸ればいいが、多くの場合表現が伴う)ことが「味わう」だ。これは料理でも、読書でも、運動などでも同じ。「味わい深い」という語があることから、「味わう」は時間性と大きく関わる。「今、ここ」とつながる感覚だ。


 自分だけだろうか。「味わう」ことが少なくなっているように思う。スピード優先社会に毒されているからか。単にメリハリをつけられないだけという陰の声も聞こえる。「味」は口へんに未。「未」とは細かいこずえを強調した象形文字である。日常の細かな部分にもっと目をつければ、様々な事象を味わえるに違いない。

ヨッパライの帰る場所

2017年08月08日 | 読書
 テレビやラジオで見聞きする人に「憧れ」を抱いたことは何度かある。その最初が「北山修」であった。フォーク・クルセダーズそして加藤和彦とのデュオ、そのわずかな期間を、本当に風のように過ぎ去ったので淡い思いであるが、「格好いい」印象が残っている。その時代の裏側も存分に語られている新書を見つけた。

2017読了79
 『帰れないヨッパライたちへ』(きたやまおさむ NHK出版新書)


(穂が出始めましたね)

 精神科医になったことは前から知っていた。テレビにも出演していた。しかし著者を手にするのは初めてである。副題は「生きるための深層心理学」と名づけられている。書名は当然ながら空前の大ヒット曲「帰って来たヨッパライ」との対照であろう。何故「帰れない」のか。それは「居場所」がないからである。


 この本は「嫉妬の心理学」と名づけていいほど、キーワードとして「嫉妬」が登場する。実生活では、あまり印象のよくない感情ではあるが、心理学としてみれば、人生を突き動かす原動力になっているという論に納得できた。要はその感情を認めて、いかに行動し評価していくか、世渡りするかということである。


 そのために非常に大事な役割を果たす存在として「第二者」がいる。この言葉はとても印象付けられる。ふだん「第三者」とはよく使うが、それは私(第一者)と対する者だ。そうではなく、傍や背にいて中立的でありながら、絶えず助言し励まし、橋渡しをする役目を担う者である。多くの場合「母親」が該当する。


 この存在の重要性を今さらながら痛感する。形態は変わっても「母性原理」の働かせ方が、社会へ強い影響を与えることを再確認しよう。男女共同参画社会の中でもう一段重視して位置づけたい。この精神科医が言い切った「愛はまず『居場所』を提供すること」を、未来のために真剣に考え工夫しなければならない。

ビールが季節を連れてくる

2017年08月07日 | 雑記帳
 猛暑のなかで七夕祭りが行われ、台風が進んでくる中で雄勝の花火も少し心配です。

 と言いつつ今日は「立秋」なんですね。

 あっという間に暑さが過ぎるわけではないですが…

 今まで買っていなかった夏限定ビールを2種買いました。

 発泡酒などはどれも試していますが、こちらはまだでした。



 どうして買ったかというと、セコイ話になりますが「50円引きシール」が貼られていたから…。

 6月醸造なのでそんなに古くはないのですが、入替時期なんです。


 きっと間もなく「秋バージョン」が出るのでしょう。

 結局は、ビールが季節を連れてくる、という感じですかね。(我ながら上手い)


 ビールには似合う「明太子スパゲッティ」。

 お中元でいただいた博多「ふくや」の明太子を使った豪華な…感じにするため?

 かなりなビジュアルになっています。



 辛さが暑さを刺激してくれるので、グッドです。


 もう一つ紹介。知っている人は知っているビアカップ。



 よく高級割烹などで出たりしますが(行ったことはないけど、イメージで)

 ビールはガラスが薄ければ薄いほど、飲み口がよく

 美味しさもぐっとアップします。


 そしてこれはなんと、某百円ショップDで買えます。

 EU製もしくはポーランド製です。もちろん108円。

 恐るべしDの「うすぐらす」…お薦めします。

「自然」を見続ける意味

2017年08月06日 | 読書
 養老語録からもう一つ。養老先生の教えとして、いつでもどこでも実行しやすいのは、この言葉である。

 「人が作ったものでない『自然』を毎日10分見続けること」

 その意義について端的に述べられているのは、フォーラム記録のこの文章だと思う。

Volume70
 「情報には人の意識を通過して表出する、人が手を加えない限り変わらないーという特徴があります。変わらないものには時が流れません。ということは、過剰に情報に傾いてしまうと、過ぎゆく時を失ってしまうことになります。止まっているものだけを見ていては、刻々と移り変わっていくものを見る力、『感覚』が鈍くなってしまいます。」




 「価値ある」情報とは何か、と考える。
 その情報に出会って、動きを促すもの、感覚を研ぎ澄ますもの、ととらえていいかもしれない。

 情報そのものに価値の有無はないのだが、情報に対する人の接し方だけが「価値」を決めると言える。

 スマホやPC画面に映し出される情報は絶えず更新されていて、それを目にしていることが、時代の先端を行っているように誤解されがちだ。
 しかし肝心なのは、その情報をどう処理し、身体化できるかである。
 意識だけが情報につき合い、振り回され、そのあげく疲れ果てていく。体はいつも置き去りだ。

 例えば「止まっているもの」の代表格である、紙媒体の「読書」ではどうか。
 読み浸る愉しみはさておき、面白さに夢中になっていく自己の内部感覚を確かめたりすることは、結構できるのではないか。数少ないがそういう経験もある。

 それにしても、いわゆる「自然」には到底叶わない。
 きちんと見る時間を確保できるといい。

独り視聴者委員会~ジャンキードラマ

2017年08月05日 | 雑記帳
 バカリズム…本当にこの人は多才だなあと思う。発想力に関しては、いわゆる芸能界ではピカイチと言ってもいいだろう。現在、クール遅れで深夜に放送されている『架空OL日記』という番組もちょっと観始めたら、ついだらだらと付き合ってしまった。まるで超定番スナック菓子のようなジャンキーさ(笑)がある。


 番組解説はこちら↓
 「架空OL日記」はバカリズムが2006年から3年にわたり、OLになりすまして更新していたブログ「架空升野日記」をまとめたもの。OLの「私」が、同僚のマキちゃんや後輩のサエちゃん、頼れる先輩の小峰様たちと送る、ありもしない日常が淡々と綴られている。ドラマ版の主人公は、バカリズム演じるちょっとズボラなOL・升野英知。原作と同じく勤務先の更衣室や休憩室、仕事帰りに立ち寄る駅ビルなどで、マキちゃん、小峰様、サエちゃん、酒木さんらと繰り広げる他愛ないやり取りが描かれる。
~「ちゃんねるレビュー」より



 内容のほとんどは「女子トーク」。そこに垣間見る「人臭さ」が惹きつける。大きな事件なし、驚くほどのどんでん返しなし。解説では「ありもしない日常」と書かれているが、実は「あるあるネタ」をドラマ形式で展開すると言ってもいい。トークに込められる女子の気持ちを、バカリズムが見事にナレーションする。


 「たわいない」は「たわい」が「無い」こと。「たわい」とは「思慮分別」「確固とした態度や考え」を表す。そこから距離をとらなければ生きにくい現状だから、視聴者にウケるのだろう。しかし当て字とはいえ「たわい」とは「他愛」。結局わが身しか考えない、そんな個が投影されているといえば、少し言い過ぎか。


 重箱の隅をつつくように「架空OL」を分析すれば、狭い世界観だと気づく。例えば後輩が貸してくれたコミックがあまりに大量で、いやいや持ち帰るシーンがある。率直に言えないことや、分割する手立てを講じないのは、他者との同調から逃れられない日常だろう。意識せず背負っているものの、あまりの重さよ!

常套句に毒されず…

2017年08月04日 | 読書
 6月28日のJTフォーラムの講演概要が主催の地元紙に載った。参加者の一人として、ラッキーなプレゼントをいただいたことと印象めいた言葉を書き散らしたが、改めて「要旨」として記された文章を読み、得心した。特に養老孟司先生の言葉は、まさに現代を生き抜くために考えたい本質を述べられていると感じた。



Volume69
 「一人一人が感じる時間の長さが等しいわけではないという前提に立てば、高齢化の進む日本では時間の概念をもう少しゆっくりしたものに捉え直してもいいのではないか」


 「スピード感を持って」という言葉は、この国では企業や政治の場でトップから末端まで、非常によく使われている。
もはや常套句とも言えよう。
 結局、この問題解決に関わる事項とは「経済問題」なのだなと気づく。
 無駄を省き、新しさに価値を求める発想…これらにずいぶん毒されてきたではないか。


 私が身を置いた教育の場でも、ずいぶんと前からそんなことを平気で言うようになった。
 そしてそれは、本当に必要のある危機管理等の問題からずいぶんと幅を広げてきたように思う。

 何か勘違いをしているのではないかと感じるほど「スピード」や「検証」という言葉が行き交ったりする。
 それはつまり「一人一人」を見ていないと同じではないかという気がする。

 言葉に引きずられて、本質を見失う典型ではないか。

叱られ者の受講記

2017年08月03日 | 教育ノート
 久しぶりに、師匠と仰ぐ野口芳宏先生のお話を聴いた。

 講義のテーマは「教科化に向けた道徳教育の在り方」。
 直接の関わりを持てなくなっているが、教育界にとっては喫緊のことでもある。
 ただ本県では、民間団体が「教育者研究会」と銘打っても、現役教員の参加が依然として少なく、残念なことだ。



 講義の導入は、幾度となく聞いている「現在の世相や若者問題の責任の中心はどこにあるか」という問いである。

 A家庭教育  B学校教育  C社会教育

 この問いに関しては、教員が多く集まる研修会においても同様だが、Aに挙手が多く集まる傾向がある。

 野口先生はいつもBと言い切る。
 むろん個々の解釈や断はあろうが、実はこの問いの本質は、先生の次の言葉に表れている。

 「『B学校教育』に手を挙げない学校教育関係者は、いったいどういう考えなのか」

 学校の本質は教育であり、教育の専門機関としてそこに関わる者の責任やいかに…ということであろう。

 
 今回は、続けて語られた「家庭は教育のためにあるのではない」という一言が、その本質・根本を考えるうえで、今さらながら心に響いた。
 改めて考えさせられることは、家庭の本質である「安らぎ」を子どもたち自身が十分に感じて育っているのか、いわば教育の下地の部分が危うくなっているという現実である。


 道徳の教科化という「制度の変更、改正」に話が及んだ時に、ぽんと言い放った一言が、実に師匠らしい。

 「制度によって教育が良くなるなら簡単だよ」

 一人一人の教師の意識改革こそ問題である、という結論に対しては誰しも納得するだろう。

 それゆえ、結構な時間をかけて「制度の変更、改正」に関して語られてきたことは検討されるべきなのだ。

 しかし、残念ながら現場はその優先度を高められる実態にない。
 さらに、地域毎や教員個々の温度差があることはわかっていても、それを踏まえた取組みが継続される見込みは薄い。それは縦割り行政の弊害とも言うべきことだ。

 結果、一律に進められていく危険性を常に孕み、形骸化された「制度」だけが残り…。


 と、あまりに悲観的な見方をしてしまったか。

 これでは師匠にまた叱られる。

寝付かれぬ夜にハスキーボイス

2017年08月02日 | 雑記帳
 NHKの「the Covers」という番組をいつも楽しみに見ている。リニューアルして、おかまスナック風のコーナーがあるのも楽しい。そこでハスキーボイス女性歌手の話題となり、八代亜紀、藤圭子、青江三奈などのVTRが流れた。内藤やす子も取り上げられた。主に演歌ではあるが、そういう系譜は確かにあるなあ。


 音楽CDの整理に取り掛かりながら、そういえば自分も結構ハスキー好きであることを改めて感じた。もちろん女性ボーカル。Coversに取り上げられなかった歌手で言えば、桂銀淑、GAOなどだ。どちらもヒットした名曲「すずめの涙」「サヨナラ」がある。個人的にGAOの「夢のひと」が好きだ。これは素晴らしい曲。


(今年初の「桃ビール」。美味し)

 葛城ユキは挙げねば…いや、ハスキーを通り越してダミ声というべきか。「ボヘミアン」が大ヒットしたが、好きな曲は長渕剛のカバーで「come back to my heart」。これは彼女の個性がよく出ていると思う。夜中に一人で聴くと泣けるかもしれない。そして忘れていけない歌い手がもう一人いる。中村あゆみではない。


 大友裕子。ポプコン世代であれば御存知か。そもそも「ボヘミアン」(飛鳥涼作)は彼女が先に歌ったという話である。それはともかく自作の曲が文句なくいい。代表曲は「傷心」。これは画像も見られるので、ぜひ。人を心から愛した経験を持つ者であれば(笑)、必ず胸を打たれる。ハスキーボイスでなければ響かない歌だ。