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2017年08月19日 | 教育ノート
 幸せな一夜を過ごすことができた。
 千葉から野口芳宏先生ご夫妻が盆踊りを観にいらしたので、送迎等のお世話をし、小宴を開いてお話しすることができた。



 まったくプライベートなひと時であったが、先生が口にされることの大半はやはり教育のお話であり、それはまた同時に「生き方」や「身の処し方」を常に考えさせられる。
 と、思い浮かんだのが個人集約に載せたこともあったはすだが「書きかけの手紙」である。
 先生に宛てながら投函できない、いや考えがまとまらずそのままにした文章だ。
 今回、似たような話を車中でしながら、今なら授業観の区分をできそうだ、従ってあの文章の結びも書けそうだと少し嬉しくなった。
 (もっともあれから二十数年…それはあまりに遅すぎるだけでしょ、と独りツッコミ)


1995.1 私信メモ(本荘市での野口先生講演会)・・・・・

(前段略)
 全集や「国語教室」をはじめとして、多くのことを先生の著書より学ばせていただいている私ですが、模擬授業に出かける度に新しい気づきがあるので、うれしく思っています。
 先生の話術の巧みさはもちろんです が、先生の強調なさっている点が、直に伝わり響いてくるのがライブ?の良さですね。
 
 今回は大きく二つのキーワードが心に残りました。

 一つは「正対」ということです。
 私達教師の多くが、日常の様々な問題を子どもたちにしっかり向き合わせていなかったことを痛感いたしました。
 家庭や社会のせいにしたり、忙しさを理由にあげたりして、私達は「文句の出ないような処理」に明け暮れているのではないでしょうか。
 一つ一つのことの教育的な意味をもっと突っ込んで考えてみる必要を、「正対」という言葉に学んだような気がします。

 もう一つは「学力」のことです。
 先生が「授業の本質を一言で」と問われたときに、確かに私も「力を伸ばす」といった言葉を書きました。
 しかし「旅型」「通勤型」「散歩型」「在宅型」という授業の類型についてのお話を聞くうちに、「学力とは何か 」という問いが頭をもたげてきました。
 かつて国語科の学力とは何かを自分で考えてみたとき「すらすら音読できる」「辞典をひける」等々、技能的な面が思い浮かびました。
 ただその時に、いわゆる入試制度の中でのペーパーテストの解答技術?についてどう考えるべきか、まとまりませんでした。本当に学ぶべき意味のあるものとは何なのか、わからないままなのです。

 先生は「散歩型になるよりだったら通勤型のほうがよい」とおっしゃいましたが、本当にそうでしょうか。
 極端な例かもしれませんが、「がまんして、入試のための知識を詰め込む姿」が「みんなで楽しみながら活動している姿」より、価値が高いとは言い切れない気がします。
 具体的な一時間を切り出せば、「黙々とドリルをこなす姿」と「~~~~~ここで途切れた~~~

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