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「味わう」を味わう

2017年08月09日 | 雑記帳
 「~~~、そのまま緩んだ感じを味わう」というストレッチ運動の記事を見て、実際に動いていたら、心にストンと落ちる気がした。変哲のない表記のなかにある「味わう」の意味が実感として迫ってきた。大げさだなあという方もいるだろうが、きっと自分はこの「味わう」にひっかかりを持っていたからだと思う。


(旬の茄子の味噌汁は、味わい深い)

 「料理を味わう」ことではない。昔、国語の授業のための学習指導案に目標として「~~~読み味わう」と書く方が少なくなかった。教師用指導書にそう記述があったからか。それがどうにもぴんとこなかった。「読み味わうってどういうことですか」…何度も尋ねた。どんな姿を求めているのか明確でなかったからだ。


 納得した答えに出会った記憶がない。「味わう」という表現で括るために、どんな「活動」をして「学び」を得るかが具体的でなかった。「味わう」とは辞書によれば「よさを感じる・意味を深く考える・体験する」ということ。当然だがそのために「心をそこに集中する」ことが必要だ。その手立てが見えるかどうかだ。


 手立てを講じれば、素材が変化し、違った様相、感覚を見せる。それを集中して感じ取る(そのまま浸ればいいが、多くの場合表現が伴う)ことが「味わう」だ。これは料理でも、読書でも、運動などでも同じ。「味わい深い」という語があることから、「味わう」は時間性と大きく関わる。「今、ここ」とつながる感覚だ。


 自分だけだろうか。「味わう」ことが少なくなっているように思う。スピード優先社会に毒されているからか。単にメリハリをつけられないだけという陰の声も聞こえる。「味」は口へんに未。「未」とは細かいこずえを強調した象形文字である。日常の細かな部分にもっと目をつければ、様々な事象を味わえるに違いない。