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「暴言」という暴言

2017年08月26日 | 教育ノート
 このニュースにひっかかって

 「脳味噌を使えよ」が「暴言」ならば、世の中は暴言だらけと言っていいのではないか。「脳味噌を使ってください」なら良かったのか、「脳味噌にある機能を働かせましょう」ならいいのか。一年生に伝わるように「よおく考えましょうね」か。しかし「考えるってどういうこと?」と訊かれたら、「脳味噌」登場だ。


 「幼稚園児」が「暴言」ならば、ある対象を表す言葉はみんな暴言ではないか。小学生相手だから、それより年少の者、例えば「未就学児」「乳児」という言い方も該当する。ここは包括的な「未熟者!」と一喝した方が、何やら教育的ではある。そう言ったとしても「厳しい指導」ではなく「暴言」ととられたのだろう。



 もちろん言葉そのものでなく、前後の文脈(それは発した言語だけでなく、その場に到るまでの指導等の関わりも含めて)によって、「暴言」と称されたことは想像がつく。いくらか報道されているが詳細にはわからない。ただそうした「発表」があれば、それをすぐに記事にする報道姿勢の方が私には危うく思われる。


 「様々な暴言が複数寄せられた」に関する内容や言葉が発せられた時の調子などがわからないまま、「脳味噌を使えよ」「幼稚園児」ばかりが「暴言」として印象づけられる。教委発表の中に「萎縮させるような言葉は不適切」とあった。もっともである。しかし、これが一旦メディアに取り上げられると立場が反転する。


 教師は確かに言葉を適切に選び、子どもが納得できるように脳味噌を使わなくてはいけない。しかしまた経験則に則れば、心に響く言葉は熱を帯びた強い叱責の中にも多く存在する。安易で乱暴な報道の取り上げ方が続けば、教師は萎縮し自己利益に傾いて、体制はさらに硬直すると考えるのは私だけではないだろう。