すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ストーリーとモメントで出来ている

2017年08月21日 | 読書
 「システムとレパートリー」…仕事上のキーワードとしてずっと持ち続けた言葉だった。たまたま盆に読んだ二人の女性作家の小説が、まるで正反対のような作られ方をしていて、ふと浮かんだのが「ストーリーとモメント」。これは生き方のキーワードになるかと…。バランスは人によって異なるが、どちらも必要だ。


(思わず路肩に停車して撮ってしまった愛車のメーター。これも、モメント)

2017読了84
 『ストーリー・セラー』(有川浩  幻冬舎文庫)

 女性作家とそれを支える夫の物語。設定・構成に工夫を凝らしながら、その仕掛けで読者を惹きつける。「運命」としての病気や家族関係を大きな要素として話を展開させていて、二つの話の味わいを決めている。sideAsideBでの「運命」交換的な設定と、視点人物変換が織りなす面白さは、まさに書名にふさわしい。


 一つの言葉や文を繰り返し書き連ねる表記を小説やドラマ等でよく見る。「あなたがすきあなたがすきあなたが…」という連呼である。この小説でも2ページ大半を使い三度登場する。文字通りに全部追って読む人はいないだろうが、今さらながら視覚的効果というのは凄い。見開きページのインパクトは、ここにある。



2017読了85
 『水銀灯が消えるまで』(東 直子  集英社文庫)

 この作家は雑誌等で短歌や連載小説は読んでいるが、単行本は初めてだ。郊外にある古い遊園地コキリコ・ピクニックランドを一つの舞台とした、連作短編集。多少の人物の絡みはあるが、それぞれ独立した話となっている。ジャンル分けは難しいが、ファンタジーと言ってもいいだろう。瞬間瞬間の描き方が素敵だ。


 それぞれの作品にもちろん筋はあるのだが、どこか物語性を感じさせなかった。それは全体を貫くような「どこにも行かない」「何者にもならない」感覚のせいなのか。単なる厭世観ではなく、自分という存在があやうさとしたたかさを行き来しているような感覚と言えばいいか。実は、誰の人生もそうであったりして…。

「ポスト真実」に震えて

2017年08月20日 | 雑記帳
 ちょっと前までは「雑誌通」を自称していたはずだが、ここ二、三ヶ月は自宅へ送本されている出版社のものしか読んでいない。自分でもそれに気づいて、少し意外な感じがした。出不精になっていることもあるし、パターン化、類似化傾向の雑誌に飽きていることもあるのか。いや、もう少し外に目を向けねばと…。



 『日経おとなのOFF』9月号を買ってみた。「日本と世界の大問題 なるほど!講座」という特集である。北朝鮮、イスラム問題やフェイクニュースなどがとり上げられる。特に注目したのが「ポスト真実」。以前から目にしていたが、考えれば凄い言葉だ。「ポスト真実」さえ真実でないと言ってるに等しい俯瞰性もある。


 オックスフォード英語辞書2016年の「今年の言葉」として選定されたそうだ。説明は「客観的事実よりも人々の感情や信条のほうが影響力のあるような状況を表す形容詞」とある。つまり、事実より感情が優先される状況を指している。自分や周囲はどうかと胸に手を当てると、確かにナキニシモアラズと思えてくる。


 流行語となった「フェイクニュース」は意図的な情報配信なので、同じ意味ではないがその現象の一つであろう。情報洪水のなかで一部だけが切り取られたり、刺激的な見出しだけが取り上げられたりする。そしてユーザーは、事実かどうかより、自分が信じるかどうかを優先する傾向にある。情報の歪んだ個人化だ。


 特に怖いのは「間違ったニュースは拡がるが、訂正はあまり伝わらない」ことだ。例えば、7月の所沢市の小学校教諭の暴言問題も全くそんな状況にある。SNSなどを通じたつながりは、価値観の似ている人同士ゆえに、多数派と勘違いする危険も多い。価値観の多様性を見失わないためのリテラシー確立は、急務だ。

今になって結べることもある

2017年08月19日 | 教育ノート
 幸せな一夜を過ごすことができた。
 千葉から野口芳宏先生ご夫妻が盆踊りを観にいらしたので、送迎等のお世話をし、小宴を開いてお話しすることができた。



 まったくプライベートなひと時であったが、先生が口にされることの大半はやはり教育のお話であり、それはまた同時に「生き方」や「身の処し方」を常に考えさせられる。
 と、思い浮かんだのが個人集約に載せたこともあったはすだが「書きかけの手紙」である。
 先生に宛てながら投函できない、いや考えがまとまらずそのままにした文章だ。
 今回、似たような話を車中でしながら、今なら授業観の区分をできそうだ、従ってあの文章の結びも書けそうだと少し嬉しくなった。
 (もっともあれから二十数年…それはあまりに遅すぎるだけでしょ、と独りツッコミ)


1995.1 私信メモ(本荘市での野口先生講演会)・・・・・

(前段略)
 全集や「国語教室」をはじめとして、多くのことを先生の著書より学ばせていただいている私ですが、模擬授業に出かける度に新しい気づきがあるので、うれしく思っています。
 先生の話術の巧みさはもちろんです が、先生の強調なさっている点が、直に伝わり響いてくるのがライブ?の良さですね。
 
 今回は大きく二つのキーワードが心に残りました。

 一つは「正対」ということです。
 私達教師の多くが、日常の様々な問題を子どもたちにしっかり向き合わせていなかったことを痛感いたしました。
 家庭や社会のせいにしたり、忙しさを理由にあげたりして、私達は「文句の出ないような処理」に明け暮れているのではないでしょうか。
 一つ一つのことの教育的な意味をもっと突っ込んで考えてみる必要を、「正対」という言葉に学んだような気がします。

 もう一つは「学力」のことです。
 先生が「授業の本質を一言で」と問われたときに、確かに私も「力を伸ばす」といった言葉を書きました。
 しかし「旅型」「通勤型」「散歩型」「在宅型」という授業の類型についてのお話を聞くうちに、「学力とは何か 」という問いが頭をもたげてきました。
 かつて国語科の学力とは何かを自分で考えてみたとき「すらすら音読できる」「辞典をひける」等々、技能的な面が思い浮かびました。
 ただその時に、いわゆる入試制度の中でのペーパーテストの解答技術?についてどう考えるべきか、まとまりませんでした。本当に学ぶべき意味のあるものとは何なのか、わからないままなのです。

 先生は「散歩型になるよりだったら通勤型のほうがよい」とおっしゃいましたが、本当にそうでしょうか。
 極端な例かもしれませんが、「がまんして、入試のための知識を詰め込む姿」が「みんなで楽しみながら活動している姿」より、価値が高いとは言い切れない気がします。
 具体的な一時間を切り出せば、「黙々とドリルをこなす姿」と「~~~~~ここで途切れた~~~

 ・・・・・・・

曖昧さの中で折り合う

2017年08月18日 | 読書
 この本を読み、どんな世代のいかなる話題を切り取っても、時の社会状況と無縁ではないという、至極当たり前のことを考えた。そして、いつの時代も明快に割り切れない問題は山積みだという、変わらぬ現実も…。スパスパッと解決していけばさぞかし気持ちいいだろうが、そこには常に別の問題が貌を現してくる。



2017読了83
 『ゆうとりあ』(熊谷達也  文春文庫)

 10年ほど前、地方新聞の数紙に約10か月にわたって連載された小説。解説の言葉を借りると「団塊世代の遊動の物語」である。その世代が60歳定年前後の時に書かれた意味は想像できる。ただ、内容は完全に今につながる物語であり、同時に10年で変わったこと、変わらなかったことが浮き上がってくるようだった。


 会社を定年退職し「蕎麦打ち」を始めた主人公が地方移住を決意する。友人の一人は「起業」、もう一人は「オヤジバンド」。なるほどと思う。都会の元企業戦士たちの典型としてとらえてもいいだろう。安定した老後が保証された最終世代ともいえるが、その時点の逡巡や思索は人生の最終章選択の難しさを物語る。


 500ページを超える大作。中途までは地方移住を決めるあれこれや、移住してからの田舎暮らしを巡る人間模様など、軽いタッチで書かれていた印象を受ける。しかし「ゆうとりあ」と名づけられた里山周辺の分譲地にサルやイノシシ、クマが出現することによって、その内容はかなり深刻な現実を帯びるものとなった。


 解説はこう書く。「後半にいたって、いよいよ『ゆうとりあ』は『相克の森』の続編としての姿を顕にしてくる。」熊谷達也マタギ三部作は文句ない傑作。そこで語られた動物と人間のせめぎ合いが、目の前の現実として大きく取り上げられる。クマをめぐっての問題は、現在も全く変わらず、連日新聞を賑わしている。


 人間に生活圏を奪われた動物という構図が崩れる兆候がある。それを「棲み分け」という形で線引きすることは当然かもしれない。しかし境界線を引くような方法が「野生」に通じないのも道理だろう。私たちが馴らされた二者択一的な選択ではなく、曖昧さを認め、その中で折り合う思考、行動こそ求められている。

カマを食し、大きさの訳を…

2017年08月17日 | 教育ノート
 お盆セールなのか、家人が「鮪のカマ」の大きいものが出ていたので買ってきたという。
 あまりに大きくキッチンでは処理できずに、炭火でじっくりと洒落込んだ。

 

 言うまでもなく、大好物である。
 身をほぐしながら食べつつ、そういえばとふと懐かしいことを思い出した。

 学校の夏休み前、一つのネタとして話したことだ。
 マグロの絵を見せながら話したら、いつもは落ち着かずに全然集中しない、個別支援を必要とするある男児が食い入るように聴き入っていたと、担任から嬉しそうに語ってくれたことを覚えている。


2009年夏・集会原稿より・・・・・

 先生はお寿司が好きですが、その中でも、マグロが特に大好きです。みなさんの中にも、そういう人はいませんか。

 マグロのお刺身をみると、他のさかなに比べて、身が赤いんですが、どうして身が赤いのでしょう。

 このマグロ、といってもこれよりずっと大きいですね。小さくても1メートルぐらい、大きいのだと3メートルもあると言いますよ。…このマグロの身が赤いわけは…

 それは、赤い小さな魚を食べるから…ではありません。

 マグロはとても速く泳ぐさかなです。時速60kmぐらいといわれています。はやい時は100kmもでるそうです。
 マグロは、他の多くの魚がもっている、体を浮かせるための「ウキブクロ」のようなものがないのだそうです。
 だから、速く泳いでいないと沈んでしまうのでスピードを出して泳がなければならないんだそうです。

 速く泳ぐために、体のなかにたくさんの酸素というものを取り入れる必要があります。
 だから、マグロのエラは大きいのだそうです。
 そしてその酸素を、体の筋肉のすみずみまでいきわたらせるために、体の中の血管が多くあるのだそうです。だから、身が赤く見えるのです。


 体を鍛えるためには、運動することが一番大切ですね。新体力テストをして記録をとって自分の力の強いところ、弱いところもわかったでしょう。
 それをいろいろな運動をすることに生かしてほしいなあと思います。

 夏はなんといっても水泳です。水泳は、頭からつま先まで全部を使うとてもいいスポーツです。
 心臓や肺や筋肉、全部を鍛えて、マグロのように泳ぐのが上手になるといいですね。

(以下略)・・・・・・


 子どもたちの夏休みももう後半。マグロのように泳ぐ健康的な期間であってほしい。

何かを生み出す人へ

2017年08月16日 | 雑記帳
 最近若い人の発言に触れ、心揺さぶられることが多い。先日傍聴したフォーラムでも、隣市醸造元の後継者と本町地域おこし協力隊の方の意見や提案には聴き入ってしまった。現役当時より入り込んでくるのは、自分の心の自由度が拡がっていることを意味しているかもしれない。凝り固まった部分がほぐれるようだ。




 昨日は町の成人式が行われ参列した。昨年同様に記念講演を拝聴し、ここでも刺激を受けた。講師は両親が羽後町出身という矢野智美氏(株式会社秋田ことづくり社長)。東京出身で野村総研という華やかなキャリアを捨てて、縁のある秋田で起業した。30代の若き女性が新成人に対して「伝えたい5つのこと」を語った。


 提案された「①自分の頭で考える ②捨てる ③行動する ④人のために頑張ってみる ⑤今を全力で生きる」は、言葉としては平凡で目新しく感じられないが、実は「VUCA(ブーカ)」の時代と称される現在に必要な点を網羅している。この時代の動きを実際の場でとらえている者ならば、大いに触発されただろう。


 不透明感、閉塞感に覆われた社会というのが、我々中高年の常套句になっているが、矢野氏は「やりやすい時代」と言い切った。昔と比べて様々な規制が緩和されていることを把握し、自分の強み、資源を生かして一歩踏み出すことを強調する。聞きながら先日あるインタビューで糸井重里が語ったこととリンクする。

 ~モノやお金の価値が相対的に下がっているのとは逆に、人の価値はどんどん上がっています。モノを作るための労働力としてよりも、イノベーションを生み出すような人材だとか、(略)具体的に何かを生み出す人の価値はどんどん上がっています「週刊エコノミスト」インタビューより


 思いを口にする大切さを語り、周囲とのトークを入れ聴衆の声を求めるスタイルが取られた。終末に発言した二人の内容が対照的だったことが印象深い。「技能を高めて、稼ぎたい」「自分の思いをしっかり伝えたい」…誰しも抱えるこの二つの方向性が偏ったり萎んだりしないことを願う。その糧は講演に詰まっていた。

死なないための仕掛け

2017年08月15日 | 読書
 同じ題材を扱ったノンフィクションを複数読むことは、ほとんどない。『奇跡のりんご』ぐらいしか今は思い浮かばない。この新書を見つけた時、違う著者の文庫本を読んだことを思い出したが、すぐに手にとりたくなったのはやはり出来事そのものの興味深さだろう。文庫の方はこのブログに5年前感想を残していた。

 「物語に支配されない力」~『37日間漂流船長』(石川拓治 幻冬舎文庫)を読んで




2017読了82
 『ある漂流者のはなし』(吉岡忍  ちくまプリマ―新書)

 読み終わって、少し変なことを考えた。「もし、この武智さんが見つからなかったら」ということだ。そうすればこの漂流の「価値」は何もないことだなあ、と当たり前のことだけれど、なぜかしみじみと感じた。生きて帰ったからこそ、これらの本が出て、様々な場で取り上げられ、見聞きした人に何かを伝えたのだ。


 武智さんが経験した極限状態は、生死という結果の前に存在したわけだが、もし亡くなって記録もなければ、本当に「無」だった。それが何か不思議な気がする。どんな人間のどんな些細なことでもそれは当てはまるかもしれない、しかし武智さんの「生きる」記録は、もし自分だったら、と問いかけが強い気がする。


 その理由として「一人ぼっち」という状況がまず大きい。応答する相手がいない。そして次第に無くなっていく食料と水、さらに大自然の脅威にさらされ…。漂流中の思考や出来事に関して、生物学的なことや心理面での解説も多くあった。しかし、やはり有名なあの一言に行き着く。「人間って、なかなか死なないものだ


 ゆえに「死なない」ための「心掛け」という視点で読めば、面白い。だからこそ著者や編集者は「プリマ―新書」という形で若い読者を対象としたのかもしれない。心掛けはいくつも挙げられるが、個人的に印象深いのはあれこれと逡巡する心に逆らわないこと。それは物事に馴れない生き方だ。順応だけでは駄目だ。

まさに「あごつり道」だったか

2017年08月14日 | 雑記帳
 公民館主催「ふるさと再発見展」を見に出かけた。統廃合が進む前の古い校舎の写真などが展示され、懐かしく見入った。町内の学校を7校も在職しているのでそれぞれに思い出深い。それはともかく、昨年の同展示会の折にビデオ放映した昔の番組が、ホールのテレビで流されていた。その一つに見入ってしまった。



 「雪のあごち(つ)り道」と題されたその番組は昭和40年製作とある。NHK新日本紀行などで地元が取り上げられている映像はたくさん目にしてきたが、これは初めてだった。その訳は、製作がTBSであり県内に直接流されなかった?経緯も関係するか。このドキュメンタリーは一人の教師の目を通して描かれていた。


 同職はしなかったが新卒の頃から何かとお世話になった、大先輩のT先生であった。地元の住職でもあり、詩人でもあったT先生ゆえに、当時の農村が抱える現実を見事にあぶりだしていた。ナレーションの視点人物として村や個々の家、教室の様子を語る。実際のナレーターはなんと矢島正明。貴重な映像である。


 出稼ぎ者が多い雪深い村に残された家族の思いと暮らしが、コンパクトにまとめられていた。T先生の教育実践として「出稼ぎ」をテーマにした新聞づくりが紹介され、暮らしそのものから問題提起する当時の姿が想像できる。映像に登場した私より一つ二つ上学年の方々の表情は、正直明るくもあり暗くもあった。


 番組名「雪のあごち(つ)り道」が気になった。「骨っこ道」(踏み固められた細い道)かなとも思ったが…。辞書には見つからず、ネット検索したらわずかに1件ヒットし、我が町の冬の行事に関するインタビューにたどりついた。「『なんも大学』花嫁道中」である。そこで語られていることは、こういう意味である。

 峠は「顎つり道」って呼ばれて、近道ではあるんですが、顎がつかえるほど急な道だったんで、下るときはすごく滑るんですよ。滑って転んだり、新雪に突っ込んでいったり。

 これを読み、番組の舞台となった村にはややそぐわない感じがした。しかし、一歩踏み込んでその意味を探ってみると、実に象徴的な風景であることがわかる。つまり、高度成長期がピークに達する時期、現金収入を求めて「地方」や「家族」が置かれた状況は、まさに「あごつり道」。そこから滑りは急激に始まった。

懐かない本だってある

2017年08月13日 | 読書
 懐かない本はある。「どんな本でも10分間集中して読めば、絶対に入り込んでいくものだ」と、誰かの言葉にあった気がする。いや、もしかしたら高学年担任のときに、子どもたちにエラソウにそんなことを語ったのかもしれない。しかし今…「それは大袈裟でした。合わない本はあります」とお詫びして訂正します。



2017読了80
 『離婚』(色川武大  文春文庫)

 昭和の直木賞作品。続編、前編めいた作品とともに文庫化された一冊である。話の筋は一応わかるが、私小説めいた独白スタイルはどうにも興味がわかなかった。男女関係の機微を理解できないせいもあるのだろう。直木賞を取るほどの客観的価値があるにしても、読者がこうだとこのザマだ。本に捨てられた感じだ。

 ただ面白く目をつけたのは、言葉遣い、語彙のこと。時代なのか、作者の個性なのか。この頃あまり使わない語に遇った。「うそさむい」…うすら寒いと同じようだ。「感触的」…感覚的はよく使うが、目にしたことがない。「居ずまい」…これは、座った姿勢を表す意味。「居ずまいを正す」機会が減ったことの証左か。


2017読了81
 『びっくりどうぶつ フレンドシップ』(ジェニファー・ホランド 畑正憲・訳 飛鳥新社)

 イベントでの当選プレゼントでいただいた一冊。思いもかけない動物同士が仲良くしている写真とお話で構成されている。「アフリカゾウとヒツジ」に始まり「ヒョウと牛」「ヘビとハムスター」など、驚きの親密な関係が47編並んでいる。どれも実話の構成である。写真は興味深く見られたが、やはり飽きてしまった。

 訳者のあとがきは興味深く読んだ。弱肉強食の自然界で「あり得べからざること」が起きていることについて、畑さんが語った深遠な言葉が頭を離れない。曰く「動物学的な解説があれやこれやとつくかもしれない。でも、それらの解説は、真実を語っているようで、むしろ真実の豊かさから遠ざかっている気がする

生き残らせたい語がある

2017年08月12日 | 雑記帳
 先日のFB上にシェアされた「【クイズ】秋田弁、なんて言ってるかわかる?」を見て、なんとなく気になったことがある。もちろん10問全問正解であり内容に異論はないのだが、知っていても使わない(つまり知識のみ)の言葉があった。「しったげ」である。そんなにポピュラーな方言(笑)なのか調べ学習である。


(冷やしおでん、しこたまうみゃ)

 まず我がバイブルである『秋田のことば』(秋田県教育委員会編・無明舎出版)を調べた。見出しとしてあると予想したが、ここには載っていなかった。手元にある『秋田ことば』『秋田語の教科書』など数冊調べたが、そこにもない。しかし、ネット上の「全国方言辞典」(goo辞書・三省堂)には取り上げられている。


 「秋田の方言」として載せられているのは72個。よってかなり厳選されている語と言っていい。それが見出し語4500、変形を含め8000を超える『秋田のことば』に載っていないのは、不思議である。ただ、自分が何故ぴんとこないかはサイト上に「地域」として「県北沿岸部・県中央部」とあることで想像がついた。


 私が生まれ育った「県南部」と位置的に離れているので、やむを得ない。県内各地の方と方言を話題にすると、その違いに気づかされることは少なくない。例えば、音の響きが好きでよく取り上げる「ぼんぼら(カボチャ)は、県南部と言っても雄勝郡内周辺に限られる。生き残った語には魅力があると言えるだろう。


 その意味では「しったげ」も「とても」のニュアンスをよく伝えるので生き残り組だ。ちなみに『秋田のことば』には「とても」で索引される語は8つ。「えげぁ」「えだげ」「げぁに」などがある。「ひどく・たくさん」と拡げると「ちごでねぁ」や「しっこたま」など多彩にある。生き残らせたい語が、しったげある。