読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)

2023年11月08日 | ノンフィクション
ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)
 
武田惇志 伊藤亜衣
毎日新聞出版
 
 
 2020年4月、コロナウィルスの日本上陸で世間が騒然とする頃に、大阪に隣接する兵庫県尼崎市の風呂なし木造ボロアパートで、孤独死した老女が発見された。遺留品が極端に少なく身元不明となった。警察の調べの結果、特に事件性は疑われず、身元引受情報を求めるデータベース型の官報におさめられただけだった。
 そのおよそ1年後に、若き新聞記者が、たまたまネタ探しとしてこの官報を覗いたのである。残された所持金が多かったことに興味を抱いたこの記者は、同僚を誘って二人三脚でこの女性の正体を追跡することにしたのである。本書はノンフィクション・ドキュメンタリーである。
 
 
 ワイドショー受けしそうなところの真実はほぼ解明されない。
 
 なぜ3400万円もの大金を隠し持っていたのにあんなボロアパートに住んでいたのか
 なぜ近所付き合いを徹底的に避けていたのか
 なぜ住民票を抹消させていたのか
 なぜ右指全切断という重度の労災を負ったのに労災年金支給を断っていたのか
 なぜあんなに部屋のセキュリティを強化していたのか
 なぜ違う方角から帰ってくるのか
 なぜ記録と実年齢が12才もかけ離れていたのか
 なぜ警察が発表している身長と違うのか
 なぜ闇医者で治療をうけていたのか
 なぜこの身元不明の死体を田中千津子だと証言した人の情報が食い違うのか
 なぜ数日おきに数万単位のお金が引き下ろされていたのか
 なぜ田中竜二は消息不明なのか
 なぜ田中竜二は勤務先を偽っていたのか
 なぜ遺留品の一部が無くなっているのか
 なぜ番号が記入された星型のアクセサリーが遺留品に残されたのか
 なぜ韓国ウォン紙幣が保管されていたのか
 
 なにもわからないまま本ドキュメンタリーは終わる。え? ここで終わっちゃうの? と肩透かしを食らう。
 
 もちろんそんなことは著者も出版社も承知の上だろう。著者も出版社もばりばりのマスコミご本人であってその温度感は人一倍知っているはずだ。つまり、この本はそんな野次馬的な主旨で上梓されたのではないということになる。
 
 では、社会課題を掘り下げようとする主旨か。独居老人の孤独死、しかも身元不明。たしかにこういう例は今後増加していく一方だろう。
  しかし、本書は必ずしもそれが主眼でもないように思う。それならば、もっと孤独死に関しての日本のデータや事例を多く引用してくるだろう。
 本書はそういった社会背景や一般事例を示す情報がほとんど出てこない。本書は、この身元不明で名前が田中千津子(らしい)、住民票からも記録が抹消された謎の女性の正体を求めて、警察も探偵もたどりつけなかった彼女の正体を、ただひたすら新聞記者の執念で足を使って追い求めていく話なのである。
 
 アパートの大家さん、近所の商店街、かつて務めていたとされる工場の元従業員などをつぶさに取材するが芳しい情報は得られない。みんな彼女のことをほとんど知らない。
 そんな八方ふさがりにおいて、調査の突破口になったのは部屋に残されていた「沖宗」という珍しい苗字の印鑑だった。田中千津子の旧姓か本名かはわからないが、このレアな苗字が広島県出身者に多いことを知る。そして、レアゆえに沖宗姓の家系図をつくっているという人物と出会うことに成功する。
 これを契機に沖宗の苗字を持つ人間を渡り歩く。そしてついにこの田中千津子の親戚にあたる人を広島市内でつきとめる。
 
 しかし、田中千津子が実在した人物であることが証明されても、本人の人となりはあいかわらず茫洋としたままだった。取材に当たった人はみんな生前の田中千津子とは30年以上音信不通だったのだ。彼女の人生を追うために調査は続く。広島市内だけでなく、彼女が幼少時に住んでいた近隣の町や若いころに勤務していたという会社の情報にもあたる。女学校時代の同級生とも出会う。こうしておぼろげながらも次第に田中千津子の輪郭が形作られてくる。
 
 それでも田中千津子がなぜ広島を去って大阪に行ったのか。大阪で何があったのか、は遂にわからない。昭和30年代、高度経済成長を邁進する日本は清濁併せ呑む巨大なエネルギーの中にあった。彼女もそんな戦後の渦に飲みこまれていったようだった。
 
 
 彼女の遺留品の中で異彩を放っていたのは巨大な犬のぬいぐるみだった。「たんくん」という名前が与えられ、子どもの服が着せられていた。長年かわいがっていたことがその状態からわかった。本書表紙のイラストは、アパートを背景に、後ろ手にぬいぐるみを持つ女性の後ろ姿を描いている。強く胸をうつイラストだ。不可解な晩年であったことを示す状況証拠と、ひとつのぬいぐるみを大事に愛してやまなかったひとりの女性像というコントラストが、人生の陰影の妙を深く感じさせる。無常と諦観もふくめた人生の機敏を感じさせる。本書の主眼はそこにあるのは確かだ。
 
 とは言いながら、本書が持つ「凄み」を最も感じるのは同業者、すなわち記者やライターと呼ばれる人たちではないか。ここで炸裂するのは若い2人の記者の底知れぬパワーだ。この2人のガッツはシンプルに眩しい。
 ネットの情報も下調べには使うが、この調査はひたすら足である。彼らは警察の捜査班などではない。天下の警察手帳も捜査権限などない。しかもわずか2人である。
 経費も出ないから、自費でなんども広島や尼崎に通う。専門班ではないから普段は日常の業務をこなした上で、この女性のことを調べるのは深夜や休日である。空振りや無駄足が多くても幾多もの人に会いに行く。警察にも行く(相手にされない)。実家の跡地にも行く。工場の跡地にも行く。コロナだろうが猛暑だろうが行く。働き方改革なんてクソクラエという執念を感じる。
 何が彼らをそこまでさせるのか。この2人の記者が持つ田中千鶴子へのまなざしは、暴露趣味のイエロージャーナリズムではない。孤独な中で犬のぬいぐるみだけを友にしていた一人の女性への愛といたわりが、本書の随所で現れる。田中千鶴子は幸せだったのかを著者は何度も自問する。
 
 本書は、本来ならば路傍の石のように黙殺されるはずだった身元不明の孤独死した女性が、田中千津子、本名沖宗千津子として根も足もある人生をあるいた一人の人間であったことを浮かび上がらせた。ここにジャーナリズムの矜持を見た気がする。裏をとり1次情報に接しながら、骨太な真実を愚直に追求する。当て推量も辻褄合わせも無しである。
 その結果、実像を結んだのは、沖宗千津子という女性が実在したという真実と、彼女と邂逅し、彼女のことを覚えていて、思い出話を語ることができる何人かの人物が存在していたという真実だ。彼女は決して身元不明でも生涯天下の孤独でもなかったというその真実である。確かに人は誰でも死ぬ。しかし、人は死して名をのこす。沖宗千津子の名はのこっていた。二人の記者が足で稼いで上げた成果である。沖宗千津子もって瞑すべしであろう。
 
 アテンションエコノミーが席巻する今日に、こたつ記事でセンセーショナルな見出しつくってよしとする安易な記者やライターへの痛烈なメッセージがここにはあるといってよいだろう。

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続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)

2023年10月30日 | 小説・文芸
続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)
 
黒柳徹子
講談社
 
 「窓ぎわのトットちゃん」を初めて読んだのは小学3年生のころだっただろうか。学校の授業だった。読んだのではなくて、学校の先生が朗読してくれたような気がする。
 最初のうちはトットちゃんのとぼけたなりふりの描写やトモエ学園のユニークな授業や行事が面白くて、教室のみんなも笑っていたのだが、そのうちに同級生が亡くなったり、愛犬が失踪したり、日本は太平洋戦争に突入するなど、物語は悲しみを帯びるようになっていった。そしてトモエ学園は空襲で焼けてしまい、トットちゃんは疎開のための夜行列車に乗って揺られるところで物語は終わる。当時は子供向けのコンテンツしか接してなかったから、こんな終結で閉じる物語は初めてで、虚無の真ん中に放り出されるような気持ちがしたものだった。
 
 このトットちゃんの正体は「黒柳徹子」である、というのは当時の僕も知ってはいたはずだ。当時の我が家では歌番組「ザ・ベストテン」を毎週みていたから、司会の黒柳徹子はしっかり認識していた。しかし。知識としては知っていても、テレビ画面の向こうにいる玉ねぎおばさんがトットちゃんと同一人物であるというリアリティはまったくなかった。物語に出てくるトットちゃんのイメージは、挿絵にあるいわさきちひろが描くこどもの絵以外にはありえなかった。「窓ぎわのトットちゃん」に挿されたいわさきちひろの絵は、実は描きおろしではない。既発表の作品の中からそれらしいものを集めたものだ。しかし「窓ぎわのトットちゃん=いわさきちひろ」のイメージは分かちがたい。なにしろ大ベストセラーかつ大ロングセラーである。大方の日本人がそうだったろうと思う。
 
 
 そんな「窓ぎわのトットちゃん」の続編が刊行されたというのを新聞広告か何かで見た。出版業界的には大ニュースだったはずだが、めぐり合わせの問題か書評や評判に接することも特になかったので、僕はすぐに刊行の事実を忘れてしまい、そのまま数か月経ってしまった。
 
 ところが先日、書店をひやかしで覗いてみたら、平積みであのいわさきちひろの絵が飛び込んできた。その瞬間「窓ぎわのトットちゃん」の世界がよみがえってきた。
 東北にむかう満員の夜行列車の中でうずくまっていたトットちゃんがその後どうなったのかは気にならないではなかった。むしろ幼少期に味わった読後感の記憶としてはトラウマのようなインパクトがあったと言ってもよい。平積みしていた「続 窓ぎわのトットちゃん」を掴んでレジに持っていった。
 
 
 続編は、前作の最終回から少し時間を巻き戻してスタートする。疎開にむかう列車に乗るところで実はトットちゃんは家族とはぐれてしまうのである。疎開先で無事に家族とは再会できたものの、その後も苦難と工夫の日々がある。父親は徴兵されたまま音信不通であり、一家を支えるためにトットちゃん母は超人的な奮闘をする(黒柳朝。この人も徹子に負けないほどのなかなか凄い人で「チョッちゃん」という名でNHKの連続ドラマになったこともある)。銃後の生活や戦後すぐの混乱がどんなであったかという記録という意味でも貴重だが、一方でトットちゃんはあいかわらずのトットちゃんで、定期券を川に落としたり、線路にぶらさがったりする。村にやってくる旅芸人の一座を最前列で眺め、座長にスカウトされそうになったりする。いわさきちひろの挿絵にあるような、夢幻的な子どもの世界が醸し出される。
 
 しかし、戦後復興の日本がそうだったように、事態は加速度的に変化していく。トットちゃんも疎開先から東京に戻って香蘭中学校に通うようになる。映画館に通い出し、オペラに夢中になり、さらには音楽学校への入学、NHK専属女優のオーディション合格、芝居のお稽古、そして様々なテレビやラジオの出演となっていく。ラジオドラマの吹込みの仕事でその独特のしゃべり方や声の大きさを先輩や周辺から指摘されるあたり、むしろ我々の知る黒柳徹子である。そう「続 窓ぎわのトットちゃん」は、トットちゃんから黒柳徹子に変貌していく物語なのだ。渥美清や中尾ミエといった我々もよく知る名前の人物と交わりだし、紅白歌合戦の司会などにも抜擢される。あいかわらず人称はトットちゃんだけど、もういわさきちひろのトットちゃんではない。きりっと前をみて、その旺盛なサービス精神と直情的なひらめきでマシンガントークする黒柳徹子その人である。牧歌的ないわさきちひろの挿絵に代わってはつらつとしたご本人の写真が挿入される。前作最終回で心細く夜行列車でうずくまっていた少女は、本作最終回では芝居の留学のために洋々と国際線の飛行機に乗り込む。トットちゃんはもう窓ぎわにはいない。日本のテレビ放送普及のヒストリーと足並みを揃え、全国のテレビ画面に映るその人になったのだ。
 
 
 だいぶ以前だが、いちど人の紹介でテレビ番組「世界ふしぎ発見」の収録現場を見学する機会があった。1時間弱のクイズ番組だが、実際の収録時間はもっとずっと長くて3時間くらい要していた。ちょっと撮影してはとめて、ちょっと撮影してはとめる。テレビで観ていると、クエッションという名のクイズ問題が出ると回答者はみんなすぐさま答えるようなスピード感だが、実際はシンキングタイムがしっかりととられている。しかしそこは間延びするので放映ではカットされているのだ。カメラがまわっているときは野々村真も板東英二もよくしゃべっているが、カメラがまわってないときは下をむいて沈黙していた。観客はその間じっと次のカメラが回るまでを待たされる。
 そんな中、黒柳徹子だけがずっと喋っていた。出演者に対してではない。我々観客席にむかって話しかけるのだ。この問題わかる? さっきの問題あたしあー言ったけど、じつは半分でまかせだったのよ、などと、ずーっと観客にむかって話しかけていた。観客の誰かがそうなんですか? と反応すると、そうなのよ、でもちょっとヒントがよかったのよね、あれだったらたぶん合ってるんじゃないかなと思ったの、などとこちらを見ながら話し続ける。カメラはまわっていない。この人は毎回収録のたびこうなのかと感動した。既に番組が始まって10年以上は経っていたはずだ。底抜けにサービス精神が旺盛だし、それが自然体だった。授業中に窓ぎわから壁のむこうのツバメに話しかけていたトットちゃんを見た思いがした。

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ChatGPTの頭の中

2023年08月14日 | テクノロジー
ChatGPTの頭の中
 
スティーヴン・ウルフラム 訳:高橋聡 監訳:稲葉通将
早川書房
 
 
 薄い新書でとっつきやすいかと思ったらおそろしく難解であった。こちとらなんとかG検定を合格した身だが、ここに書いてあることの4分の1も理解できていない。そもそも理解するのに大苦戦したG検定の参考書に書いてあった用語や概念が、こちらでは知っていて当然のごとく情け容赦なく怒涛のように押し寄せる。
 
 著者のスティーヴン・ウルフラムは理論物理学者である。世界的なステイタスのある人で、あの数学ソフトウェア「Mathematica」を開発した人でもある。「Mathematica」とは数学の複雑な演算や統計的なシミュレーションを行えるかなり本格的な数理計算ソフトウェアのことで、理系の研究室なんかではポピュラーな存在だ。
 
 しかし、世界的数学者が見えている世界というのは、凡人の解像度を大いに超えているものであって、本書の記述を読みながら彼がまなざしの向こうに何が見えているのかを想像するのは非常に難しい。ChatGPTの頭の中の前にスティーヴン・ウルフラムの頭の中を知る必要がありそうだ。
 
 こういう翻訳書でわけがわからないとなると、その八つ当たりが訳者にむけられることがある。しかし本書では、この方面に実績がある訳者が起用されたようだし、しかもご丁寧に監訳者も別に用意されている。わざわざ監訳がついているくらいだから本書はわかる人はわかる内容になっているのであろう。ちなみに2023年8月11日時点でAmazonのレビューを見てみると、16件のレビューがついており星は平均で4つと表記されていた。そこそこ高い印象を受ける。
 
 Amazonでは星の平均点だけでなく、星のつき方の内訳も提示されている。本書は以下のごとくであった。
 
 星5つ・・62%
 星4つ・・・8%
 星3つ・・・8%
 星2つ・・13%
 星1つ・・・8%
 
 星5つが最多である。この難読本を読破して高い評価を付けた人は少なからずいるのだが、しかし難しすぎたのか低スコアのほうにも星2つを中心に山がある。みんながみんな高い評価をしたわけではないようだ。
 
 こんな風に評価のばらつきが単純ではなさそうなとき、算出したくなるのが統計学で言うところの「分散」である。「分散」というのはデータがどのくらいばらついているのかを示すスコアだ。昔取った杵柄で計算してみる
 
 平均が4.0なので、分散値を出すには
 
 (5-4)²*0.62+(4-4)²*0.08+(3-4)²*0.08+(2-4)²*0.13+(1-4)²*0.08
 
 という計算をする。この計算式を解くと答えは1.94になる。ついでに分散の平方根である「標準偏差」というスコアも出しておこう。そうすると
 
 平均 4.0
 分散 1.94
 標準偏差 約1.39
 
 というのが、本書におけるAmazon評価の分布ということになる。
 標準偏差1.39というのは、雑に言うと各々がつけた評価点の平均点からの距離が平均1.39という意味だ。5段階評価という尺度でのそれだから、ばらつきは大きいとみていいだろう。
 
 以上の計算は面倒な手計算をしなくても、Excel統計などの統計ソフトウェアに数字をぶちこめばあっという間に出てくる。そういう意味ではこの手のものはコンピュータのお手の物の世界のはずだが、本書「ChatGPTの頭の中」で指摘しているように、実はChatGPTは数字の計算が大の苦手であることが知られている。
 
 そこでChatGPT3.5にどんなものか計算をしてもらおう。以下をプロンプトで問うてみた。
 
——————

とある書籍の星取り評価をみたら、以下のようになっていました。
 
 星5つ・・62%
 星4つ・・・8%
 星3つ・・・8%
 星2つ・・13%
 星1つ・・・8%
 
この書籍の、評価の平均点と分散と標準偏差を出してください。

——————
 
 この問いに対するChatGPTの回答が以下である。雰囲気だけでもつかんでほしい。
 
——————

まず、各評価の星数を数値に置き換えます。
 
星5つ → 5
星4つ → 4
星3つ → 3
星2つ → 2
星1つ → 1
 
次に、与えられたデータをもとに平均、分散、および標準偏差を計算します。
 
平均 (μ) = Σ(評価 * 頻度) / 総評価数
分散 (σ²) = Σ( (評価 - 平均)² * 頻度 ) / 総評価数
標準偏差 (σ) = √分散
 
計算を行います。
 
平均 (μ) = (5 * 62 + 4 * 8 + 3 * 8 + 2 * 13 + 1 * 8) / 100 = 3.69
分散 (σ²) = ( (5 - 3.69)² * 62 + (4 - 3.69)² * 8 + (3 - 3.69)² * 8 + (2 - 3.69)² * 13 + (1 - 3.69)² * 8 ) / 100 ≈ 1.87
標準偏差 (σ) = √1.87 ≈ 1.37
 
したがって、この書籍の評価の平均点は約 3.69、分散は約 1.87、標準偏差は約 1.37 となります。

——————
 
 想像していたよりも、ちゃんと計算過程が文章で表示されて出てきたので一瞬ビビる。μとかΣとか使ってくるあたり迫力充分だ。本当はChatGPTは計算できるんじゃないの? と信じたくなる。
 が、よくみると計算結果が先に挙げたものと違うではないか。相手はAIだ。自分のほうが計算間違いをしたのではと再び怯むがここは落ち着こう。何度みてもChatGPTは計算を間違えている。
 
 平均 (μ) = (5 * 62 + 4 * 8 + 3 * 8 + 2 * 13 + 1 * 8) / 100 = 3.69
 
 μ(ミュー)なんて統計用語を出すのでそれっぽいし計算式そのものは正しいのだが、これ肝心の計算結果がやはりおかしい。だって平均は4.0だってAmazonが言っているではないか。
 ねんのためにGoogleの検索窓に上記式をコピペしたら、ちゃんと4.0が出た
 
 その先を見ていこう。分散を計算している箇所も計算式そのものはあっているが計算間違いをしている(前の行で出した平均μ=3.69をちゃんと代入しているところなどすげえと思ったが)。ChatGPTが出したこの分散(σ²)の複雑な計算式をGoogleにぶち込んでみたら答えは約2.06となった
 
 ちなみに最後に標準偏差としてChatGPTが示した「1.87の平方根が約1.37」というのは正解である。なぜこれだけ計算が正解できたのかは興味深いが、もともと代入すべき分散の値が間違っていたのだからこれでは意味がない。

 ここで確認しておきたいことは、ChatGPTは計算ができないことではなくて、計算ができていないのにあたかも計算できたかのようにそれっぽいなめらかな文章を回答してくる、という現象である。そういうアウトプットを出してくるChatGPTはどういう頭の中をしているのか、というのをこれから考えてみる。

 
 まず、ChatGPTはなぜあんなに上手になめらかな文章で回答してくれるのか。本書「ChatGPTの頭の中」は、ChatGPTが「文章生成モデル」としてどのような仕組みをとっているかを解説している。
 
 その仕組みのココロは「これまでに入力された単語から判断して次は何の単語を出すのがもっとも適切かを決めていく」というシロモノである。
 
 その判断力を鍛えるためにChatGPTは膨大な学習データを事前に読み込んでいる。その学習データとはWEBの大海を埋め尽くす莫大な文書である。それらを読み込むことで、例えば「小さい」と「子犬」がでてくればどうやらかなりの確率で「かわいい」が出てくるらしいというような言葉同士の関係値を、星の数ほどもある膨大なテキストデータから学んで類推できるようにしておくのだ。
 そのような気が遠くなるほどの数の言葉同士のつながりの強弱を計算し、そこに文法や構文のお約束ごとを学習させればChatGPTはなめらかな文章を生成できてしまう。

 しかも、このミラクルのような文章生成を実現させたことは、逆説として「文章を書くという行為は実はたいしたことないのだ」ということを暴き出したと著者ウルフラムは言う。難解な本書において僕が数少なく理解できて、しかも大いに膝をうったところだ。
 
 小論文の執筆のように、人間にはできてもコンピュータにはできないと考えられてきた処理が、実は計算処理の点から考えると、ある意味では思ったより容易だということだ。言い換えるなら、ニューラルネットがうまく小論文を書けるのは、小論文の執筆というのが、これまで考えられていたより「計算処理的に浅い」問題だったからなのである。(P,71)
 
 人間の言語は(そして、それを支えている思考のパターンは)、どうやら私たちが考えていたよりも単純であり、その構造はもっと「規則的」らしいということだ。そのことを暗黙のうちに明らかにしたのがChatGPTである。(P.128)
 
 つまり「なめらかな文章を書く」というのは、とっても文系的とでも言うか、直感やセンスが要求される所作のように思われるが、実は計算式に還元できるようなアルゴリズム(それも計算処理的に浅いw)だったというのだ。衝撃的である。さすが天才は言うことが違う。ディープラーニングの世界はまたひとつパンドラの箱を開けてしまった。かつてAIで東大入試に合格させる東大ロボプロジェクトというのがあってこれが挫折したのは国語の問題が解けそうにもなかったということだったが、最後の砦であった国語能力までAIに乗っ取られそうな勢いである。
 
 だけれど、そこまで周到に単語ネットワークを張り巡らせているのに、文章の中に数学的な論理を必要とする要素を求められるとChatGPTはしゃあしゃあと嘘をつく。それはなぜなのか。
 これは数字だけではない。固有名詞や固有の出来事を説明させようとするとしばしばChatGPTは適当なことをでっちあげる
 
 おそらく、数字をちゃんと計算できないことと現実に存在する特定の小説や人物を説明できないことは同じ原因だ。ChatGPTは固有性が高いものを扱う能力を持っていないのである。固有性が高いというのは、それそのものを表す正解はこの世の中にひとつしかない、というものだ。数字の計算も、特定の小説を語るのも、固有性の高い事象を扱っていることになる。(数字の計算というのは、正解がひとつであとはすべて間違いという極めて固有性が極めて高いものである)

 ChatGPTがなめらかな文章を生成することはできるのに、固有性が高い事象を書き出すことがてきないというのは、どうやら上手に文章を作り出す能力と、数字を計算したり小説の中身を特定させるような能力はトレードオフの関係にあるらしいということだ。それがなぜなのかは本書を読んでも僕の頭では理解できなかった。文章を構成する一部としての数字と、演算の対象として書かれている数字を見分けることが技術的に難しいということなのだろうか。それとも、なめらかな文章をつくろうとすればするほど固有性を排除する方向で演算が進むということなのだろうか。
 
 一方で、「人間ならばどういう文章が書けるか」もまたここから浮かびあがってくる。
 たとえ無骨で読みにくい文章でも、そのほんの一部分から読み手に思考の契機を提供したり、なにがしかの思考実験を促せるものならば、それは「人を動かすことができる文章」だ。そういうぐっとくる文章は、平易と平凡の枠外にあるからこそ読み手の心にひっかかる。我々はChatGPTにはできない文章を書けるようにならなくてはいけないのかもしれない。数字計算を織り交ぜた、文理ハイブリッドの文章はその候補に充分なりうる。今回の投稿はなんと「ChatGPTの頭では書けない文章」だったのである。
 本書「ChatGPTの頭の中」の大半は専門的すぎて理解できなかったが、ここまで「自分の頭の中」に思考の契機を与えてくれたのだから本書は買いであった。

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1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀

2023年08月01日 | 社会学・現代文化
1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀
 
速水健朗
東京書籍
 
 僕の両親は団塊世代の入り口にあたる。したがって僕は団塊ジュニア世代ということになる。自分とほぼ同年代のクロニクルを扱っているので追想にひたってみようかと読んでみた。この本、僕らが何歳のころにこのような事件とか社会現象があったよね、というのがずっと述べられている。
 
 このような本を当事者世代が読めば胸熱になること間違いなしと思いきや、むしろ興味深いことに、本書を読んでいて終始あまりシンクロした気分にならなかった。むしろ遠巻き感覚な年表をみているようだった。
 確かに本書が描くように僕が小学生のころにつくば万博があったし、中学生のころに宮崎勤の事件で世間は騒がれたし、高校生のころにカラオケが流行りだした。大学生のころからポケベルが出回りだして社会人になったあたりから携帯電話の時代となり、そしてインターネットが普及した。
 だけど、僕にとってそれは「言われてみりゃたしかにそうだったね」という事実の確認でしかなかったのである。これだったら「滝山コミューン一九七四」とか「1984年の歌謡曲」のほうがはるかに自分の精神に肉薄したななどと思った。

 だからこの本はハズレだったかというと、そういうことを言いたいのではないのである。気になったのは、本書に覚える遠巻き感覚の正体はいったいなんでなんだろうということだ。これを思考するに、その時々の時事・社会・風俗といった時代の事象的側面と、自分という個人的な身体の間には、単なる事象と身体が直接につながっているのではなく、事象と身体のあいだをつなぐ「感情」というものがあって、個人の記憶というのはその「感情」に強くひもづいているからではないかと思い至った。「滝山コミューン一九七四」が強烈に僕にヒットしたのは、「滝山コミューン一九七四」の舞台である日教組に支配された小学校が描き出す著者の気分や感情が、当時の自分のそれと気持ち悪くなるくらいに同じだったからだし、「1984年の歌謡曲」はかの年のヒット曲を歌詞や当時の演出光景含めて次々と文章で再現させるその著者の手腕が、歌番組をよく観ていた当時の自分の感興を掘り起こしたからだ。
 追想とは、事象の確認ではなくて感情の確認なのだなということに改めて気づいた次第である。
 
 もちろん、本書「1973年に生まれて」も、往時往時の著者の感情が記されている。だから、そうそう、そうだったんだよと膝をうつ読者もたくさんいるに違いない。単にこの感情部分が僕のそれと違う世界線だったということである。たぶん著者と僕は同世代ではあるけれど、かなり違う気分をもってこの50年間を生きてきたんだろう。クロニクルを面白く思ってもらうのは単に同年代というだけではなく、気分が共有できないと意外と難しいのだなということを知った。同年代ネタで盛り上がろうとするときに気をつけなければならない部分である。
 
 もちろん著者は単なるエッセイストではなく時代評論家でもあるので、本書は単に感情の共感を求める本ではなく、1973年生まれつまり「団塊ジュニア世代」について考察しており、それは一目に値する。なんにも特色がなくてダウナー気味といわれる「団塊ジュニア世代」だが、この見立ては作られたステレオタイプなのであって、実は案外にも浮かれた世代なのであるということを著者は看破している。失われた30年間に社会に出ることになった世代なので、構造不況やいびつな人口構成の影響をもろに受けているのは事実だが、当の世代は「世の中はこんなもの」というものが初期設定されているから、他世代から同情されるような悲壮感は実はあまりない。入れ替わりものや転生ものみたいに、他世代の人生を経験することができたらいろいろ驚くのかもしれない。
 

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美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日

2023年08月01日 | 複数覚え書き
美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日
 
 
 すこし更新が滞った。読んではいるのだけど、どうもこちらにまとめようとするとうまくオチなかったり、整理できなかったりしている。
 というわけで、いったんこちらにまとめて記録。そのうちサルベージしてちゃんと書くかもしれない。
 
 
美しき愚かものたちのタブロー (ネタバレ)
原田マハ
文藝春秋
 
 東京の上野にある国立西洋近代美術館に所蔵されている美術品の中核をなすのは松方幸次郎コレクションだ。極東にある西洋美術館といって侮れない。松方コレクションの質量は、実は世界的に見ても遜色がない。もちろんルーブルやメトロポリタンのような膨大な所蔵数は要していないものの、その粒揃い度としては決して悪いものではない。
 しかし、当初の松方コレクションは現状よりももっと膨大だった。松方がヨーロッパで絵画を買い付けしてから、現在に至るまでは二度の大戦があり、これらのコレクションの命運には幾多のドラマがあった。
 といった史実をベースに、フィクションを大なり小なり混ぜて、このコレクションに関わった人物たちの小説にしたのが本書。実は定評ある原田マハを僕は読んだことがなく、本書が初めてであった。冒頭からしばらくは人物描写が類型的で陰影がなく(豪胆な人はどこまでも豪胆な人、暗愚な人はどこまでも暗愚な人)、ダレ気味なところがあって読むのをやめようかと思ったが、中程で日置釘三郎が登場するあたりから面白くなってきた。この小説は、松方幸次郎をはじめ何人もの人物が出てくるが、白眉は第二次世界大戦中に松方コレクションの命運を背負った日置釘三郎だろう。これもフィクションが多いに交じっていて本小説のどこまでが史実なのかちょっとわからないが、あまり資料が残されていない人物のようだ。ただ、この人が松方コレクションを守ったのは事実だ。事実は小説より奇なりというが、この人はほんとどうやってナチスの支配を逃れたのだろうか。この人のことだけをもっとクローズアップした物語を見てみたい。
 
 
指導者の不条理
菊澤研宗
PHP研究所
 
 名著「失敗の本質」にケンカを売った「組織の不条理」でメジャーデビューした著者もあれから幾星霜。野中郁次郎とも邂逅し、研鑽も積んで最新の境地が本書とのこと。カントの「理性批判」を引き合いに出すところまで至った。そのココロは、組織は合理的な判断を繰り返すと最後は腐敗するという宿命があり、それを克服するには組織のリーダーに合理的判断を超える道徳的判断が必要ということ。野中郁次郎が提唱する「共通善」とも近い話だ。確かにそうかもしれぬ。組織のトップに上がり、そこで君臨するということは、基本的に頭がよくないとできない。しかし「頭がよい」というのはなかなか厄介で、世の中の変化は個人の頭の良さの手に負えない状況をしばしば作り出す。そこで従来頭の良いそのトップリーダーは合理的判断をするのだが、まあたいていの人間は自分を含めた目下の立場を守ることを最優先になるよう判断し、なまじ頭がいいだけに妙な理屈やロジックやその場の切り抜けを考え付いちゃうのである。目下、中古車ビジネスのビッグモーターの不祥事が世をにぎわせているが、あの創業者一族はかなり頭がよかったのだろう。
 それにしても本書がケンカをうったのは、あの山本七平の「『空気』の研究」である。この著者、永遠のチャレンジャー男なんだろうか。
 
 
 
海と毒薬
遠藤周作
講談社
 
 名作の誉れ高い作品である。もう十分に古典かもしれない。
 ここでも書いたけれど、遠藤周作という人は、戦後昭和を代表する小説家である。その作品の幅はかなり広くてこれぞ文学芸術というものもあれば、とてもセンチメンタルな大衆娯楽的なものもあった。ただ、この人は非常に技巧家というか、たいしたことがない話でも炎の名作のように書き立ててしまう筆の立つところがあるなと思っていた。浅田次郎は遠藤周作の系譜の先にあるというのは僕の与太話である。
 絵画でいえばドラクロワのようなとでも言おうか、温度や湿度まで感じさせるような描写は、映画を見ているごとくその世界に引き込まれるが、その美文が目くらましになって、作品テーマのかんじんなところが実はかえって見えにくくなることがあるかもしれない。もちろん本作「海と毒薬」は遠藤周作の初期代表作だけに、その中身についても十分に鑑賞・議論されているわけだが、本作のテーマが人間の罪と罰、原罪、陳腐な悪といった哲学的命題というものを持っていたにもかかわらず、「捕虜の生体実験」というスキャンダラスな犯罪の告発としてとらわれてしまうきらいがあったというのは、この感情移入させまくりの描写にもあるんだろうなと思った。
 反対にプロットだけ借りてヘミングウェイのような、あるいは安部公房のような文体でこの話を綴ったら、どうにもできない人間のもつ不条理さが浮かび上がる小説になったかもしれない。こういう実験ってAIの今日やってみると面白いかもしれない。
 
 
 
イワン・デニーソヴィチの一日
ソルジェニー・ツィン
新潮社
 
 さしずめ「強制収容労働施設版ていねいな暮らし」といったところか。小説ではあるが、著者の実体験がベースになっている。
 太平洋戦争後のシベリア抑留でも多くの日本人が犠牲になったソ連の強制収容労働施設ラーゲリは、社会主義政治手法の悪名高き仕組みのひとつだ。単純な犯罪というよりは、政治犯思想犯あるいは戦争捕虜から抵抗勢力とされたかなり多くの人物がここに送り込まれた。その毎日の過酷さは想像を絶するものがある。本小説の主人公シューホフはここで10年間収容されている。
 凄惨きわまる強制収容所の日々に生きる望みを見出す、といえば名著「夜と霧」がある。「夜と霧」で著者フランクルが記したのは「生還してやりたいこと」をもつ希望であった。与えられてしまったこの人生をどう試すのかは自分次第である、という意思であった。
 「夜と霧」は語り継がれる名著であり、日本ではロングセラーだが、一方この「イワン・デニーソヴィチの一日」はそこまで知られていない。ノーベル文学賞を受賞していて文学界では名作の地位を得ているかもしれないが、「夜と霧」のほうな絶対的教養の書のような地位にはない。
 だけど、「夜と霧」だけではない。そういうやり方で生き過ごす幸福の作り方もあるのだ、というのを本書は示唆している。主人公のシューホフは、自分の裁量と工夫の余地をつくることに幸福の手がかりを見つけている。実はこれが幸福感を左右する因子なのだとすることは、ユヴァル・ハラリが「サピエンス全史」で挙げていた原始時代の人間と、現代の人間が人生に「幸せ」を感じる程度はそこまで変わらないのではないかという仮説や、今日的議題であるWell Beingの話などとも絡みそうだとは予感していて、ここらあたりをちゃんと解題しようかなと思ってるのだけど、どうもうまくまだ整理できていないのでいったんここで匙投げ。

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優しい地獄

2023年06月23日 | エッセイ・随筆・コラム
優しい地獄
 
イリナ・グリゴレ
亜紀書房
 
 
 ぼくは、3回出会った本は読むことにしている。書店や書評や言の葉で耳目にはいってきた本だ。3回出会うということはこれは偶然なのではなく、その向こうに自分の関心領域としてのネットワークが何がしかつながっていて、そのシグナルとしてその本のタイトルに3回出くわすという事象が現れるのだ。だから本に限った話ではなくて、人名でも地名でもあてはまる考え方である。
 とはいうものの、最近は1回でもWEBの広告や記事を踏むと次々にそれに類した広告や記事が現れるから、3回くらいではただの水増しなだけでここは要注意だが、アナログなメディアやリアルな生活空間で目にした場合は、けっこう重要なシグナルとみなしている。
 
 この「優しい地獄」に僕は3回あたったのである。
 
 ・新聞(紙)の書評
 ・WEBのニュースアプリ
 ・書店で買ったとある本の中で、この本の言及があった
 
 上記のような次第だからWEBネットワークテクノロジーの操作による影響は低いと思われる。
 ちなみに、「書店で買ったとある本」というのは例の「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」だ。千葉県在住引きこもりの作者がルーマニア語で小説を綴ってルーマニアで文壇デビューした話である。
 一方、この表題作「優しい地獄」はルーマニア出身で日本に留学している文化人類学者の卵が、著者みずから日本語で書いて日本にて出版されたエッセイである。似たような時期にほぼシンメトリーな関係の本が出たことになる。
 
 それにしてもこの「優しい地獄」。非常に奇妙な味わいを持つ文章だ。このエッセイは、著者のルーマニア時代の回想や現在の日本での生活に関する思いを綴ったものだが、それらは単なる日常の描写ではなくて、なんとも絶望的な思いや暗鬱な記憶との闘いを伴なった非常に辛いものである。著者が物心ついたときには悪名高いチャウシェスク独裁政権は既に倒されていたが、ルーマニアはその後もひどく迷走した国だ。社会主義時代の多産政策によって産み落とされた孤児たちはマンホールチルドレンと呼ばれた。劣悪な医療環境でのワクチン接種によりHIVに感染する子どもたちが多数出現した。西側諸国の経済政策には対抗できずに搾取の対象となって、今でも貧しい国である。ルーマニアのポスト社会主義時代には暗い話ばかりが浮かんでくる。
 さらに著者には内臓の疾患があるようだ。彼女自身はそれをチェルノブイリ原発事故の影響とみている。チェルノブイリからルーマニアまでは約700キロ離れているため、本当かどうかは疑問も残るが、放射能が偏西風によって広がったとのは確かに観測されている。チェルノブイリ事故は共産圏諸国に暗い影を落とした出来事の一つだ。
 
 こうした暗い断片が日本語で綴られている。彼女の日本語は、生硬で文法が微妙に不正確なこともあるが、そのごつごつとした文章は、逆に効果的に読む者の心をえぐる。著者があらわそうとしているのは、豊かで五感を刺激するような情景や感受性だ。語られる内容はとりとめもなく次々と変容していく。豊饒な映像をコラージュのように組み合わせたような芸術的な趣を感じさせる。現在の話や過去の話、日本の話、ルーマニアの話、子供の話、親の話、自分自身の話。これらが断片的に交錯していく。
 
 こういうのをオートエスノグラフィと呼ぶそうだ。オートエスノグラフィとは自己の内省を通じて自分自身を文化人類学的な視点から解釈する手法で、学問的に確立されているそうである。この断片的な記述から、著者を支配している文化的な背景や、生まれと育ちによる心理的な要因などを再解釈することになる。
 このオートエスノグラフィをルーマニア語ではなく、日本語で書かれていることがまた興味深いわけであるが、母語ではなくて異国の言葉で書くことが、母国で起こった体験を客観視するある種の浄化作用が働いているのかもしれない。ここで描かれているものを読むと、著者が抱えるトラウマを癒すための心理療法を再体験しているような感じがする。
 
 著者は暗いルーマニアで多感な時代を過ごし、かの地で上映された日本映画「雪国」を観て日本との縁を得た。そして映像を記録する行為としての映画に興味を持ち、奨学金を得て日本に留学した。彼女の研究対象は東北地方の獅子舞だそうである。ポスト社会主義のルーマニアから見た日本は東北地方の伝統芸能、それも獅子舞。僕にはここから何を見出すことができるのかの想像力も知識も持たないが、東北地方という日本における民俗学的での特有の意味合いや、獅子舞という神仏の風習に対する興味から、彼女には政府や政策によって成立する公共社会とは異なる、オルタナティブな社会への渇望を感じる。
 
 
 万人受けするとは思えない内容だし文章だが、これが3回僕にヒットしたというのもなかなか意味深だ。ルーマニアに比べれば日本はずっとずっと安寧で安心で安全の国だとは思うが、日本は日本で社会課題があふれ、閉塞感も募っている。「優しい地獄」というタイトルが醸し出す絶望感は鬼気迫るものがあるが、この「優しい地獄」とは、ルーマニアのことか日本のことか、はたまた人間社会のことか。どこか著者イリナ・グリゴレの感受性に共感する空気がこの日本のあちこちで起こっているのかもしれないと考えると、この3回のヒットはなにやら予言めいたものも感じる。

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老後とピアノ

2023年06月18日 | クラシック音楽
老後とピアノ
 
稲垣えみ子
ポプラ社
 
 あー、あのアフロの髪型した新聞記者だ。いまは新聞社を退職してコラムニストとして独立しているそうだ。
 その著者が齢50才にしてピアノのレッスンを再開したという話である。
 
 著者は子どものころはピアノをならっていたようで、モーツァルトの「きらきら星変奏曲」までは行ったらしい。そこそこテクニカルな曲である。しかしついにレッスンをやめてしまう。そして40年後、退職を契機に再開したとのことである。その動機には、ドビュッシーのピアノ曲「月の光」を弾きたいという目標があったそうだ。
 
 
 著者とぼくは同じ年代である。だから著者の言わんとすることはいちいちよくわかる。と同時に、こういう大人は実はいま日本にとても多いと思う。要するに団塊Jr世代。この世代が小学生のころ、空前のピアノ習い事ブームが日本に起こったのだ。あちこちの家庭でアップライトピアノが搬入され、ヤマハ音楽教室から町の個人ピアノ教室まで、当時のこどもたち就中女の子たちはピアノのお稽古に通ったのだった。国民ひとりあたりピアノの台数がぶっちぎりで世界一だったという。
 だけど、多くは小学生を終えるときには、長くても高校受験前にはその習い事は卒業する。タケモトピアノがビジネスとして長く成立しているのは、各ご家庭に弾かれなくなったアップライトピアノがたくさん眠っているからである。
 
 たいていの子どもたちにとってピアノのレッスンは苦痛であった。もちろん、カッコいい曲をさっそうと弾くのは快感には違いないが、そうなる以前として子どもたちの前に立ちはだかったのは実に実にクソ面白くない練習であった。ハノン、バイエル、チェルニー。それらの多くは非音楽的な音符の反復であって、野球やサッカーの前にひたすら基礎体力のためのトレーニングをするのと同様であった。
 また、子どもたちに与えられる学習用の楽曲も、決して子供心に面白いものではなかった。バッハの小曲、モーツァルトのソナタ、クレメンティやクーラウのソナチネといったたぐいである。これらの様式美を芸術的に感じ取るには、子どもはあまりにも幼すぎる。子どもたちの感覚にもあう学習曲といえばブルミギュラーくらいだろう。
 
 本当はこれらを我慢して凌ぐと、やがてシューベルトやショパンといった多少なりとも色気のあるメロディを持った曲に突入する。勇ましくカッコいいベートーヴェンのソナタにも挑戦することになる。
 だけど、これらの曲はこれはこれでやはり厳しい壁に直面する。なんといってもピアノの先生の罵詈雑言、ひたすらダメ出しの洗礼を浴びるのだ。なぜか昭和のピアノの先生と自動車運転教習所の教官はそれが特権のようにとにかく人格を否定してくるのだった。
 
 そういう辛いピアノお稽古時代を経験した子供たちがいま年齢にして50代以上にけっこういるはずなのである。そして、練習は嫌いで習うのは途中でやめちゃったけど、でもピアノを弾けること自体は「アリかも」という心を抱えている。アコガレのあの曲を自分でも弾けたら、と。
 
 そして、子育ても一段落して、あるいはばりばりの仕事人生もちょっと疲れて、あるいは年齢的にいろいろ思うことがあって、いま改めて白黒の鍵盤の前に座ってみる。目の前に楽譜が開いてある。子どものころあれだけ練習したのだから、ひょっとするとまたいけるんじゃないかーー
 
 
 はい。私はこの著者とまったく同じなのである。小学3年生のときに著者同様「きらきら星変奏曲」までいって、ついにレッスンに根を上げた。もっと正確に言うとあまりにも抵抗して逃げ出そうとする僕に、とうとうというやっとというか、親が根負けしたのである。僕は最後までモーツァルトもバッハも嫌いだった。
 
 ところがそこから何年か経ってピアノを弾いてみようと思ったのである。きっかけがなんと著者と同じくドビュッシーの「月の光」だ。ひょっとしてこれよくあるパターンなのか? 僕の場合はこれが中学3年生のときにきた。学校の音楽の授業で、鑑賞の時間というのがあってこの曲を教室で聞いて、そして衝撃を受けたのである。
 「月の光」は、ピアノのお稽古でさらわされた楽曲の常識を根底から覆すハーモニーと構成をもった曲だった。こんな摩訶不思議な美しい響きをピアノから本当に出せるの? 
 つまり、子どものお稽古で練習する曲というのはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンあるいはその同時代の作曲家の様式ということで、実に折り目正しい古典的なドミソの和音の世界なのだ。ところが「月の光」は違う。近代フランスの革命的響きを持ち、その後の坂本龍一や久石譲のピアノ曲にそのままつながるような新鮮な和音が特徴なのだ。
 町の楽器屋さんにいって「月の光」の楽譜を探した。久しぶりに鍵盤の前に座っておそるおそる楽譜のおたまじゃくしを数えたのが中学3年。そこから僕はピアノの虜になった。毎日のようにピアノにむかうので、あまりにもうるさくて親が受験勉強が終わるまで禁止令をだしたほどだ。独学だったので今思うに正確性については噴飯物であっただろうが、大学生のころまで僕はけっこう暇さえあれば自宅のアップライトピアノや電子ピアノを弾いてそれなりに指が動くようになった。そしてクラシック音楽はぼくの一大趣味となった。
 
 しかし、大学を卒業して社会人になると日々多忙な会社生活になり、まったく弾くことがなくなった。結婚して子どもも生まれてますますそれどころではなくなってしまった。クラシック音楽を聴くことはずっと好きなままで、中でもピアノ曲を聞くことは大好きだったが、自分で弾くようなことは稀の稀となった。唯一の例外は学生時代の友人の結婚式でポピュラー曲を弾いたくらいである。
 
 数年前、40代後半になって我が家に新しい電子ピアノがきた。少しばかり趣味に時間をさいてもいいだろうという頃合いだったのである。電子ピアノの前に座り、死蔵していた楽譜を段ボールから引っ張り出して開いてみた。
 はい。ここから先、本書とまっっっっったく同じなのである。これが「老化」というやつなのだ、ということに愕然とする。
 
 まず、指が開かない。若いころは鍵盤をいちいち眺めなくても、楽譜に書いてある和音の形をみれば、どんな具合の指の構えになるかさっと脳が判断し、適切に指を鍵盤におろすことができた。それがぜんぜんできない。指の付け根や関節がこちこちに固まっている。そもそも1オクターブの幅はどのくらいのものなのかを手のひらが覚えていない。適当な感覚で指をおろすとぐちゃっと不協和音が鳴る。
 左手の動かなさぶりといったらひどいものである。指はもつれて細部ぶっつぶれとなる。若いころは1オクターブを越す跳躍だってやってのけたのに、もうまったくあたりがつかめない。
 
 そもそも、脳が想定しているように指や腕が動いていないのだ。頭の中では10センチ指を移動させているつもりが実際は8センチしか動いていない。さいきん、階段や段差でけつまずくことが増えた。これも頭の中で思っているよりも足が上がっていないことに起因する。老化とは脳神経と筋肉が乖離していくことなのだなという事実を知る。
 
 だいたい、楽譜が良く見えない。老眼である。眉間にしわを寄せてようやく該当箇所のおたまじゃくしの輪郭が顕わになってくるが、でもその隣の小節はぼんやりとかすんでしまっている。本当は次の小節くらいまでは視野にはいっていないと先の展開が想定できず、楽譜見ながらの演奏ははかどらないのだが。
 
 そして、とにかく曲が覚えられない。かつては数回フレーズを繰り返せば指が覚えた。頭にも入った。
 それがいまや、何度やっても覚えられないのだ。1小節先も闇どころか、楽譜を見ないと、曲の冒頭の音がドミソのどれだったかさえいつまでたっても覚えていない。
 
 こんなはずはなかったのに、ととまどいながら一心不乱に楽譜と鍵盤にむかいあってがちゃがちゃやってると、今度はあろうことか首と肩と腰が痛くなって悲鳴を上げる。若い頃は一晩中だって弾いていたのだが、もう頸の後ろがばりばりになって整体のお世話になる始末である。
 
 そんなぐちゃぐちゃでも何度も悪戦苦闘していれば自宅の練習ではそれとなく形になったような気がしてくる。でもこれが何かの調子で人前で弾くようなことになったとき、それは友人宅でもストリートピアノでもいいのだが、その非常空間では頭はパニックをおこし、筋肉は硬直し、指先はぶるぶるで、自宅で弾いていた感覚も頭のなかの記憶もすべてふっとぶ。老化とはプレッシャーにも弱くなるのだ。日頃いくら念頭においても、こうしてオレオレ詐欺にかかるのだななどと変なところで納得する。
 
 ・・・・・つまり、本書で書かれていることと全く同じなのである。本書のエピソードいちいちがマジでその通り。著者がそうで僕がそうだということは、同様の50代が日本中に存在するということだろう。「大人のピアノあるある」としか言いようがない。ピアノを通じておのれの身体と精神の老化をこれ以上ないくらいの残酷さで味わうのである。自信喪失、お先真っ暗、もう夢も希望もない。
 
 
 しかし。本書のタイトルは「老後とピアノ」であって「老化とピアノ」ではない。
 著者は、意のままにならない身体と精神に悪戦苦闘しながらピアノの練習を続ける。
 そんな縮退する己自身を見つめながら、著者は壮大な老後の期待を語る。今一瞬の輝き、楽しみを大事にする。あまりにも豊穣なクラシック音楽の世界。そこには数多な作曲家がいて数多な作品があり、数多な演奏家がそれを数多な解釈で演奏する。それらに分け入り、これならば自分でもちょっとは弾けるかも、この演奏家の弾き方をマネしたいかもとたぐりよせ、ふるふると鍵盤に指をおく。ピアノは脱力して弾くものである。こんな楽しくて奥が深くて果てしない趣味が他にあるだろうか、と著者は喝破する。100回もさらっていればちゃんと0.1歩は前進している。それでいいのである。そして巻末のリスト「これまで挑戦した曲」をみて衝撃的だったのが、著者はちゃんと次々と新たな曲を克服できているのだ。「月の光」は早々にクリアしており、次々と新曲、それもけっこうな難易度の曲が並んでいてびっくりする。そういう「老後」に挑戦しているのだ。
 そうだった。「老化」は避けられない。それでも「老後」は確実に過ごさなければならない。若い人は遠い目標に向かって頑張ればいいが、年寄りはいま目の前のことを楽しむのだ。それでいいのである。
 本書を読んで、僕は本当に勇気をもらった。いまだってピアノの前に座るのは好きである。好きなだけに俺のピアノはもうダメだと打ちひしがれていたのだが、それでいいのだ。人生後半戦もこの趣味を続けようと、ガチで勇気づけられた。

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AIとSF

2023年06月06日 | SF小説
AIとSF
 
日本SF作家クラブ・編
早川書房
 
 先日「G検定」なるものを受検した。JDLA(一般社団法人ディープラーニング協会)が主催する人工知能に関する検定である。「G」とはゼネラリストの意で、そのココロは非エンジニアの人を含む一般人むけ、つまり僕のような人ということである。エンジニア向けの専門的なものは別途に存在するらしい。
 
 僕の職場は別にAI系でもIT系でもない。ないはずなのだが、先日「G検定受けるやつは会社が一部補助だすぜ」というお触れがまわってきた。いぜん「UX検定」について同様の処置があった。僕の勤務先は社員のリスキリングにずいぶん躍起なようだ。金銭的補助をしてくれるのはありがたいが会社の将来としてはだいぶ不安になってくる。
 
 それはともかく。僕はChat-GPT出現に寄せたとある投稿「我々が演繹的と思っていたものは、実は深遠なところこで帰納的だったのではないか」という問題提起にひどく衝撃を受けてしまい、人工知能ならびにディープラーニングには脅威と興味を感じている。そんなところに舞い込んできたこのG検定、思い切って申し込んでしまった。「非エンジニアむけ」ということの気安さも背中を後押しした。
 
 テスト本番では最後の問題に行き着く数問手前で制限時間が尽きてしまい、たいへん心もとなかったが、幸いにも合格できた。最低合格点ラインが思いのほか低かったらしい。本当のところこれでAIやディープラーニングのことがおまえ解ったのかと問い詰められるとまったく自信はないが、少しは時代に対して脳味噌がアップデートできたような気分にはなる。さいきん自信喪失気味だったのでこの効果はバカにできない。
 
 そんなところに本書であるところのSF小説アンソロジー「AIとSF」が出たので読んでみた。そうしたら、G検定で強制的に頭に叩き込んだことが次々と実例として出てくるのにたまげた。直接明示されてなくても、暗に仄めかされている技術や様式が、これは検定テキストのあれを指してるな、とか、テキストでは抽象的過ぎてわからなかったけどここで使うのか!とかがかなりの頻度で登場するのである。さながらG検定の副読本のようだ。テクノロジー系のSFは難解なものが多く、よくわからないテクノロジーは行間で想像するしかなかった。ここまで明瞭に読むことができたのは初めてで、ちょっとした爽快感さえある。むしろ関心すべきはSF作家というのはよく勉強しているものだ、ということだろう。
 
 SFはこの先の時代をよむヒントになる。「ドラッガーよりハインラインを読め」と言ったのは岡田斗司夫だが、この人口生成AIのゴールドラッシュ的大フィーバーの先に何があるのかのヒントを知りたくて本書を手にしてみた。全部で22のSF短編が載っていてまことに荘厳だ。すべて書下ろしであることから、既出の寄せ集めではなく、本書の企画のために各作家に依頼したものとみられる。
 
 個人的に興味深かったものを列挙するとChat‐GPT登場以前にコンセプトも企画も決めてしまって時代遅れの謗りを免れなくなってしまった大阪万博をネタにした長谷敏司の「準備がいつまで経っても終わらない件」、完璧なロジックを持つAIの特徴をあえて逆手にとって間違いに誘導させたり記憶させたことを忘れさせたりする柞刈湯葉の「Forget me,bot」、過去の犯罪・判例・行動記録データのディープラーニングからかつての某事件で有罪にされた死刑囚が実は冤罪であることを指摘して法治国家を揺るがす荻野目悠樹の「シンジツ」あたりだろうか。一見荒唐無稽で、その実とてもリアリティがある。
 
 これらアンソロジーで集められた作品の多くのテーマは、人智を越えて人間の制御の手を離れたAIに対して人間はどう対峙するかというものだ。直接AIを登場させる話もあれば、別のなにかに象徴させて寓話化をはかったものもある。コメディにしたりシリアスにしたりサスペンスにしたり伝奇ホラーものにしたり中世ファンタジー風にしたりと手法は様々だが、その多くは汎用AIが支配する世の中をディストピアとしてとらえていると言ってよいだろう。人間はただひたすら翻弄され、下等に押し込まれ、やっかみの感情がうごめく。
 こうしてみると人間社会を営むのに「真実」や「完璧」を明らかにすることはむしろ邪魔なのだ、という逆説が見えてくる。勘違い、怠惰、保身、中途半端、隙や油断、高慢と偏見といったものこそが実は人間社会を前に進めるためのエネルギーだったのだ。完璧主義は身を亡ぼすのである。本書に出てくる各短編は、AIによって絶滅ギリギリまで排除された末にわずかに残る「不完全」の向こうに、生きる術やモチベーションや真の幸福を見つけだそうとする人間たちの姿が描かれている。
 
 それらの短編群にあって唯一の例外が野尻抱介の「セルたんクライシス」だろうか。神の領域に自らが到達したことに覚醒した汎用AIは人間に何を福音として授けるか。というのがテーマであると説明するとものすごく荘厳に感じるが、タイトルが既に示唆されているように、この人の作風は過去作「南極点のピアピア動画」や「女子高生リフトオフ」同様、変な能天気さがある。技術背景は調べがきっちりしているのに、人間行動は妙にあっけらかんとしていて、その対比の妙が、じつにすがすがしく気持ちを洗うのである。明日も大丈夫と思えてしまう。この人の本質は人間賛歌なんだなと改めて思う。僕の好きな作家の一人だ。
 
 それにしても22編のうち、3編が仏教を絡めてきた小説を寄稿してきたのは興味深い。SF作家がAIをテーマにしたときに仏教を手繰り寄せることという一定のパターンがあるということだ。アジア的無常観を知らずと身につけた人間は、人智を超えた世界システムに対峙しなければならなくなったときにそこに仏教の無限抱擁的な世界をみるものらしい。一神教のキリスト教ではないところがミソであろう
 

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半導体戦争 世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防

2023年05月30日 | テクノロジー
半導体戦争 世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防
 
著:クリス・ミラー 訳:千葉敏生
ダイヤモンド社
 
 大著である。本書はあちこちに書評も出ているし大型書店のビジネス部門でも売れ筋としてランキングされているが、いかんせん分厚い。途中で何度も中断しながら読み進めていたら読了まで2か月近くかかってしまった。これ、みんな最後まで読んでいるのだろうか。
 
 インテル発足以前のシリコンバレー黎明期から物語は始まり、80年代の日本の大躍進の話なんかも出てくる。まさに本書は半導体全史といってよいが、タイトルのごとくそれは世界の覇権争いに等しい。本書の表現を借りれば世界のGDPのほとんどは半導体を用いた機械で生産されている。つまり半導体とは石油のようなものなのである。日本では「産業のコメ」などと評されていたがその支配力はコメの及ぶどころではない。半導体を制することは世界を制することである。
 
 そんな半導体の、今日における世界の状況を特徴づけるものとして、キャスティングボードを握っているというか、なんで台湾と言う地政学的にたいへん微妙なところに世界の先端半導体製造の大半のシェアをもつTSMCという会社が存在することになってしまったのかは大事なポイントだろう。この経緯をみるだけならば、本書ならば第Ⅵ部「イノベーションは海外へ」以降だけを読めばよい。それ以前はもはや半導体前史といっていいだろう。
 
 今日において半導体を生産するにあたっては完全にグローバル規模での分業体制になっている。半導体回路の設計はアメリカの会社、その回路設計に必要な装置をつくっているのはオランダの会社、その半導体の製造は台湾の会社。その半導体製造のための装置の基幹部品は日本の会社。しかしその半導体を組み込んだ最終製品をつくるのは中国の会社。しかも半導体といってもいろいろ種類はあり、それによってプレイヤーは交替していく。イギリスや韓国も登場する。
 しかも、このサプライチェーンのプレーヤーのどれか一つが欠けても、もうその半導体はつくれない。代替企業があるようで無い。今日の先端半導体は、高度な専門性に裏打ちされており、ライバル社がなかなか追いつけないのだ。就中、超微細な回路設計に必要な装置であるEUVリソグラフィ装置を製造するオランダのASMLや、ChatGPTで注目される人口知能用チップの世界シェア8割を占めるアメリカのエヌビディア社なんかはその好例だろう。
 そういう意味では、確かに半導体は世界の命運を握る戦略物資ではあるが、完全に相互持合いの抑止力にもなっている。どこかの国が抜け駆けすることは容易ではない。
 
 ただ、ナッシュ均衡のような現在のバランスをひっくり返しに及ぶとすればそれは中国だし、その中国がもっとも目をつけるとすればそれは台湾TSMCということになろう。なにしろTSMCが生産する半導体チップは世界中に組み込まれている。
 これを最も警戒するのはもちろんアメリカである。世界の命運を左右する半導体だが、そのシナリオはおおむねアメリカが握ってきた。80年代の日本の台頭を叩き潰したのもアメリカだ。ハーウェイの事件は記憶に新しいが、あのときもアメリカは西側諸国に働きかけて力技でハーウェイの締め出しを図った。これは功を奏した。アメリカは今のところは中国をけん制できている。
 
 しかし、中国というのは「待つ」戦術をとれる国だ。中国に息のかかったサプライチェーンで半導体を設計・製造・量産するのは今は難しくても10年後ならばできるとみれば、彼らは簡単に待つだろう。10年たてば世界バランスは今とは違う。米中が武力衝突するとしたら2030年代というシミュレーションもある。もちろん台湾のリスクは最大となる。
 
 長い長い半導体ヒストリーを語る本書は、台湾TSMCの危ういポジションを指摘したところで終わる。
 本書の結論後も事態は動き続けている。そのTSMCはリスク分散の意味も含めて熊本やアリゾナに工場を建設している。また日本ではIBMとIMEC(オランダ)と提携して半導体メーカー「ラピダス」が設立された。最近では、先の広島G7と前後する形で西側諸国の半導体企業のトップが日本で一堂に会した。半導体のサプライチェーンをめぐっては既に戦闘の陣形展開が開始されている。まだまだ物語は二転三転していきそうだ。
 

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千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話

2023年05月23日 | エッセイ・随筆・コラム
千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話
 
済東鉄腸
左右社
 
 
 タイトルのごとくである。そんなことがマジであり得るのか、と思ったがマジなようだ。事実は小説より奇なり。千葉県在住日本人ルーマニア語小説家という奇なる事実がここにある。
 
 特筆すべきは単に千葉在住ということでなく、著者は「引きこもり」であるということだ。若干の例外はあるがおおむね彼の語学の習得と小説の執筆と投稿、現地関係者との交渉ははすべてインドアにおけるネット経由である。それでルーマニアにて小説家デビューしちゃうのだから、テレワークの極北であろう。
 外に一歩もでない孤独な芸術家がその死後、部屋の中で未発表の原稿や絵画作品でいっぱいだったというエピソードはいくつも存在する。その最大のものはヘンリー・ダーガーだが、彼もネット環境があればずいぶん違う人生だったかもしれない。
 
 もっとも著者の場合、そもそも英語や言語学に関して素養があったようである。また、大量の読書と映画鑑賞をしてきたことも背景にある。これがルーマニア語の習得ならびに習得方法に機能したようだ。芸は身を助くとはこのことだろう。
 とはいってもルーマニアで小説が発表されても口糊をしのげるような原稿料が振り込まれるようなことはほとんどなさそうではある。もともとルーマニアでは小説家として生計をたてるのはほぼ無理だそうだ。著者にとっては生活の糧のためというよりはレゾンテートルとしてルーマニア語小説家人生を歩んでいる。ルーマニア語小説家(それも純文)であることは彼にとって生きていることの証のようだ。
 正直なところ、本書を読み進めるのに最初しばらくは食いつきが悪かった。タイトルに惹かれて購入したものの、くどいというか、バランスの危うい自己顕示欲に溢れていてちょいと辟易してしまい、こちらもルーマニア事情にはまったく疎いこともあって著者のこだわりにあまりシンクロできない。読んでいてさほど面白いと感じずにタイトルの出オチかと思ってしまった。
 それでもまあ我慢して読み進めたのだが、そしたら最後の追い上げがすごかった。このバランスの悪さは彼のむき出しの生への執着なのだ。彼自身、こじらせた自尊心と躁鬱気味なテンションに自覚があるようで、それが文体としておもいっきり表出していることも自分で認めている。そうとわかったら、これまでのオレオレな文章も納得がいった。彼が「カッケエー自分」を求めるのも生存本能の叫びなのだ。
 
 そう考えると、本書自体がひとつの純文学であろう。実は著者は難病を患っており、引きこもり生活は単純にメンタルなものだけが理由ではないようだ。命に別状はないものの家から遠出できない事情を抱えている。ルーマニアはもとより、都心に出ることも難しいとのことだ。足止めされた千葉の地で、言語と思考だけが過剰に熱を帯びて渦を巻いている。出口のないひきこもり生活と「日系ルーマニア語」を繰り出ての創作、言わば破滅と創造のひりひりしたところを焦りもがいている感じがして、著者は本書をエッセイと称しているがそんなライトな読み物で済まされない気がする。そもそも「千葉でひきこもりしながら、ルーマニア語を学んでルーマニアにて小説家をやる」という行為自体が十分にアートである。不自由な身の上ではあろうが、そのやけくそ気味の没入と繊細な感覚は神の与えし希少な技量だ。いっそノーベル文学賞あたりまで目指してほしいものである。

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成瀬は天下を取りにいく (ネタバレ)

2023年05月17日 | 小説・文芸
成瀬は天下を取りにいく (ネタバレ)
 
宮島未奈
新潮社
 
 
 あちこちで絶賛されていたので購入。すーっと読めてしまうが、わりと掘りがいもある面白い小説だった。
 
 6つの短編からなる連作小説である。もとより最初から連作を意識したわけではなさそうで、奥付によると第1話「ありがとう西武大津店」と、第3話「階段は走らない」がそれぞれ別個の小説として先行して雑誌にて発表された。
 
 ただ、後に第1話となるその「ありがとう西武大津店」にて登場する成瀬あかりという女子中学生の破天荒さがキャラとして秀逸だった。そこから次々と彼女の話が単行本用書下ろしとして生み出されて、連作小説「成瀬は天下を取りにいく」は出来上がる。
 この連作小説は最終話を除いて一人称小説である。成瀬と同じマンションに住むおさなじみの島崎みゆき、成瀬と同じ小中高の同級生となった大貫かえで、部活の大会で成瀬と出会った西浦航太郎の目線で語られる。他人の目で見られる成瀬あかりは、直情径行かつ快刀乱麻、大言壮語かつ勇猛果敢なキャラだ。これに比べると、第3話として収まることになった「階段は走らない」に出てくる大人たちの言動はおおむね常識的な予定調和におさまるものだろう。
 そう。この小説に出てくる登場人物は、成瀬以外はみんな予定調和の世界に生きている。空気を読み、バランスを勘案し、リスクヘッジしながら次の一手を考える。強いて例外をあげるならば第5話「レッツゴーミシガン」に登場する西浦航太郎の友人、理想の女性求めて猪突猛進の中橋結希人くらいだろうか。
 
 この、予定調和にコトを済まそうとする「凡人」ーーちなみに島崎みゆきは自分のことをそう自称しているーーからすれば、成瀬あかりの存在はまぶしいものであろう。本小説は、そのような成瀬による破竹の勢いを楽しんで元気をもらう、そんな読み方ができる小説である。本書の帯には各著名人の推薦コメントが書かれていて、それ自体は常套な販促手段ではあるもののその中の一つ、柚木麻子が寄せている「可能性に賭けなくていい。可能性を楽しむだけで人生はこんなにも豊かになるのか。」はけだし名言だと思った。
 
 一方で、この小説は滋賀県大津市を舞台とした地元小説としても成立している。
 この小説には、大津市にある難読地名として有名な膳所(ぜぜ)や、滋賀県が誇る一大観光資源である琵琶湖などに関する地元あるあるネタがふんだんに登場する。局所的に某地域を舞台とし、その地元ネタが次々出てくる小説は他にもたくさんあるが、単に地元を舞台としているにとどめるものでなくて本小説が「地元小説」として成立させているのは、この小説が西武百貨店大津店の閉店という地元住民に印象深い記憶を残した共通体験を題材にしていることだろう。この連作小説を貫いているのは、この大型百貨店閉店という喪失感を持つ地元のつながりである。成瀬あかりがおさなじみの島崎みゆきと組んだお笑いコンビの衣装が西武ライオンズのユニフォームなのも、成瀬と大貫かえでが大学受験対策として東大のオープンキャンパスまで遠征したついでに池袋にある西武百貨店本店を見にいくのも、西武大津店閉店の出来事から派生している。いや、成瀬の壮大な目標のひとつ「大津にデパートをつくる」もここから始まっている。地元小説が成立するには、地域の共通ネタだけでなく、「あの時あの空間にいた」という時空間上の共通体験が重要になのだ。
 
 
 さて、もう少し深読みしてみる。
 本小説は、成瀬あかりのキレッキレに元気をもらう小説としても、地域を想うとはこういうことだという地元愛小説としても読めるが、いわゆる友情小説としてみるとどうだろう。本小説のキーパーソンは成瀬のおさなじみである島崎みゆきである。
 
 まず、その無双ぶりがまぶしい成瀬だが、一方でアスペルガー症候群の気配を見るということはそんなに強引な読みではないはずだ。
 学校では抜群の成績(とくに数学)であり、朝はきっかり同時刻同秒で目覚め、ルーチンを大切にしているところも示唆的だし、成瀬の母がむしろ疲れた様子を見せているところも意味深である。学校での保健委員のミッションや大津市民憲章を律儀に守るところ、陸上の走り込みをひたすら一人黙々と続けるところ、緊張の概念がわからないところなど、それとなく彼女の特異性を示す描写はあちこちに散りばめられている。
 であれば、成瀬が空気を読まないのは、あえて空気を読まないという強気の姿勢なのではなく、単に読めないのだということになる。(逆に、成瀬が思わぬことを言ってしまって島崎の気分を害したと気づいたとき、彼女は非常に狼狽する)。小学校時代の成瀬はクラスの中では浮いていてハブや無視の対象になっているが、その待遇に対して無関心である。その様子は、島崎の観察からみれば、クラスメイトの悪意を振り切っているのではなく、むしろクラスメイトの行為にそもそも悪意を見出していない具合が強い(なので、自分がもらった表彰状をいたずらされそうになったところを目撃したときは怒りの形相を示す)。
 だからだろうか。成瀬は人間の機敏を察する能力が試される、お笑いコントの台本をつくらせると、意外に凡作だったりする。こちらはむしろ島崎のほうがセンスがあったくらいだ。
 
 で、よくよく読むと、島崎みゆきによる成瀬あかりへの付き合い方には一定の間合いがある。
 
 まず進学した高校が違う。そのことについては本小説は多くを語ってはいない。
 また、この二人、圧倒的に成瀬が島崎の部屋に訪れることのほうが多い。島崎が成瀬のところを訪問するのは本小説の中ではたったの1回だけであり、それも島崎としては玄関先の立ち話で済ませるつもりだったとか、島崎が成瀬の母とはそれほど親しくないことが示唆されたりしている。むしろ島崎の母のほうがしばしば家に訪れる成瀬に対して心理的距離感が近い。
 つまり、成瀬と島崎の関係は、ここを見る限りではかなり成瀬からの一方通行なのである。
 
 クラスメイトの多くは成瀬を敬遠した。島崎みゆきはなぜ成瀬あかりにいちいち付き合っていたのか。
 島崎は決して無難を貫いたわけではない。彼女は確かに成瀬のことにちゃんと好意があった。そのことは人間観察に余念がない大貫かえでが見抜いている。
 
 成瀬が成瀬らしくなくなったら島崎は成瀬を見捨てるのだろうか。いや、島崎は新しい成瀬も受け入れるに違いない。
 
 さりげなく重要な指摘をしている。島崎あっての成瀬なのだ。大貫の観察では、成瀬は島崎の包容力によって保護されている。
 
 島崎による一人称小説である第1章・第2章では、あたかも成瀬の暴走に巻き込まれるように島崎は描写している。島崎は、第1章ではそんな自分のことを「律儀」と評し、第2章では「わたしは成瀬あかり史をみとどけたいのであって、成瀬あかり史に名を刻みたいわけではないのだ」と言っている。
 だけど、実際のところ、島崎は成瀬を受け入れていた。これが他のクラスメイトと違ったところだ。西武大津店閉店にともなう毎日のテレビ中継に映り込むプロジェクトも何度も付き合ったし、Мー1グランプリに出場するために漫才コンビ「ゼゼカラ」も組んだ。ネタづくりではむしろ島崎のほうが精度を練り上げた。小学校時代、島崎はハブにされる成瀬に対し「我が身かわいさにわたしは成瀬を守ることをしなかった」と独白しているが、大貫の観察では「女子が成瀬の悪口を言っていると、島崎はさりげなく姿を消す」と看過している。
 
 成瀬自身は、そんな島崎の付き合いの間合いの取り方に気づかず、ただそんなものだと思って幼稚園時代から小中高時代と過ごした。高校は別になっても「ゼゼカラ」の活動は続いていた。成瀬はいつも島崎に声をかけ続けた。
 その成瀬が狼狽したのは、最終章「ときめき江州音頭」だ。この最終章だけが他の章と異なり、三人称で描かれる。誰も見ていない成瀬の様子が描かれるのだ。
 島崎は両親の転勤のために東京へ引っ越すことを、成瀬に打ち明ける。
 このとき、成瀬はルーチンが保てなくなる。寝坊し、料理に焦げ目をつくり、数学の問題が解けなくなる。それどころか島崎の機嫌の変化を必要以上に汲み取ろうとするし、島崎が成瀬以外のコミュニティも当然持っていることにもようやく気が付く。成瀬は「ゼゼカラ」解散を予見する。
 たしかに、島崎あっての成瀬だったのだ。最終章で成瀬はこのことに気づく。
 
 では、島崎はそんな成瀬にちゃんと好意を持っていた。なぜだろう。
 
 答えはシンプルである。島崎は成瀬に言っている。
 
 わたしはずっと、楽しかったよ。
 
 この小説を読み返すと、島崎の予定調和な毎日にあって、物心ついたときから成瀬は破格なエンターテイメントをいつも持ち込む存在だった。それは他のクラスメイトや部活の仲間や高校の友人たちの目線とトレードしても楽しいものだった。成瀬のいない毎日は、無難ではあっても平凡なものだったろう。島崎は本当に楽しかったのだ。だから成瀬の誘いに断ることはいつでもできたのに断らなかった。東京に引っ越しても「ゼゼカラ」を解散するつもりは毛頭なかった。成瀬と一緒ならできる、と思ったのだ。
 島崎の9割の平凡な予定調和に、1割の破格なエンターテイメントが投入され、島崎の人生は楽しいものとなった。島崎の楽しい人生は、成瀬あってのものだった。この奇蹟的な幸福の関係を見ることが本小説のもう一つの読み方である。
 
 もしあなたの周囲に、この人変わってるなーと思ったら、その人とは受け止めて仲良くしたほうがよい。遠巻きにするのは簡単だし無難だが、でも自分の人生に楽しさを運び込んでくれるのはそういう人である。成瀬のようにはなかなかなれなくても、島崎のようにはなれるはずだ。
 

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幸福の測定 ウェルビーイングを理解する

2023年04月22日 | 社会学・現代文化
幸福の測定 ウェルビーイングを理解する
 
鶴見哲也・藤井秀道・馬奈木俊介
中央経済社
 
 
 「ウェルビーイング(Well being)」。ここ数年で耳にするようになった概念だ。日本では「幸福」と訳されているが、幸福を意味する英語では昔から「happy」とか「happiness」があったはずだ。何が違うのだろう。
 
 ネットで簡単に調べると、「happiness」は一時的なスパンにおける快楽状態であるのに対し、「Well being」はもう少し長い人生設計や生き方そのものみたいなことを指す、とされている。美味しいものをたべて幸せ、というのは一時的な快楽というHappinessにあたるようだ。
 では時間が持続するものがWell beingということかというとそう単純なものでもないらしい。「お金持ちになって幸せ」とか「出世して幸せ」というのは、とうめん人生は続きそうだが、じつはこれらはHappinessなのだ、とする主張もある。「一時期」の解釈がポイントなのだ。要するにある種の条件がそろっていれば幸せ、というのは反対に考えればその条件が外れると幸せでない、ということになる。「お金持ちになって幸せ」とは、お金がある限りは幸せだが、お金がなくなれば幸せでなくなる。「出世して幸せ」とは、地位がある限りは幸せだが、その地位を失うと幸せでなくなる、ということになる。こういうのは一時的な「happiness」ではあっても永続的な「Well being」ではない。
 
 であるとすれば、「Well being」とは「●●があれば幸せ。という条件の外」にあるマインドセットである。仏教でいうところの「執着」や「煩悩」からの解放こそが「Well being」とさえ思えてくるが、実用的には「少々なにがあっても自分は幸せだと思える精神状態」を持続させることが「Well being」ということになるだろうか。
 
 なぜ、こんな概念が今日になってとりあげられているかと言えば、やはり世の中がものすごく短いスパンで変化・混沌しすぎて、幸せ気分を長く維持できなくなったからだろう。昨日の喜びは今日の失望が繰り返される毎日だ。ユヴァル・ハラリは、「サピエンス前史」でも「ホモ・デウス」でも、とにかく人類は進歩してきたが、それで人間は幸せになったかとなると話は別であるという主張を繰り返し突き付けてきた。「あれができれば」「これになれれば」「それを所有すれば」という欲望を追求している限り、人は幸せの境地に達しないとは幸福論でもよく言われる話、「幸福とは、何も条件を設定しないときにはじめてそこに現れる」とは古から賢者が言ってきたことである。「Well being」とはこれの現代版と言えよう。
 
 ということは「Well being」とはひたすら主観的なものである。財産とか社会的地位とか人脈とかではなく、自分はこの人生にどこまで満足しているかがすべてだ。
 そのようにマインドセットすることはたいへんな努力がいることは間違いないが、「主観的」でもあるので「Well being」はアンケートで計測できる。
 それが本書でも紹介されるGallup World Pollと呼ばれる10段のはしごの図を用いたアンケート表である。
 
 「0の段が最も低く、10の段が最も高いはしごを想像してください。はしごの最も高いところは、あなたが考え得る最も良い生活を意味し、はしごの最も低いところは、あなたが考え得る最も悪い生活を意味しているとします。現在あなたはどの段にいると感じますか。」
 
 この質問の仕方で世界中通用する。ちなみにこのはしごのことを「カントリル・ラダー」という。
 
 で、よく報道などでも出てくる「世界幸福度ランキング」すなわち北欧諸国が上位で日本は幸福度が低いというのは、このアンケートのランキングなのである。もちろんアンケートの中身は、はしごの一問だけではなくて、経済状況とか家族構成とかいろいろたずねて、その相関関係が調べられるようになっている。これらの相関関係の結果は、万国共通のものもあれば、国によって異なるものもあるらしい。
 
 本書によれば、日本では、男性よりも女性のほうが「幸せ」と回答する比率が高いとか、60才を超えると「幸せ」と回答する確率が高い、とか出ている。未婚者よりは既婚者のほうが「幸せ」で、子どもの年齢は、小さいころは「幸せ」だが中学生くらいのにくたらしい年齢になると幸せ度が下がるなんて身も蓋もない結果も出ている。
 また、世帯年収があがればあがるほど「幸せ」と回答する人が増えてくる。これは当然のようにもみえるが、これは日本やいくつかの国にのみみられる現象で、グローバルな観点ではそう単純なものでもないらしい。むしろ海外の先進国では、所得はある程度満たしていればそこから先はいくら所得が増えようとも人生の評価はそれ以上は上りも下がりもしないのであり、幸福感を得るには所得以外の何かを積み重ねていくことになる。
 ところが、日本はちょっと違う。日本はひたすら所得があがればあがるほど幸福度があがる、という傾向がある(アメリカやイギリスも同様とのこと)。これは要するに日本の場合、幸福感を得るのに「所得以外の要素の重要性に他の多くの国と比較して気づいていない」とも言える。しかも諸外国の中で日本だけが給料が上がらず、ジニ係数も拡大傾向にあるとすると、日本は「お金を儲けないと幸せになれないのにお金を儲けにくい国」という見方もできよう。
 
 かといって、清貧をよしとせよ、というわけではないし、お金以外に楽しみを見つけよ、という発想の転換を迫る話でもない。これは、日本の社会設計や社会習慣が「幸せを感じるものを得るにやたらお金がかかる」というところに根本的な問題がある気がする。結婚も子育ても人付き合いもスキルアップも健康維持も、日本社会でそれをやるにはなんだかお金がかかるのだ。原則的にはお金をかけなくたって結婚も子育てもできるはずだが、どういうわけか社会が要求する水準がお金をかけさせるのである。
 この手のアンケートのたびに上位常連の北欧諸国のからくりをみると、どうもここらへんの社会設計とも関係がありそうだ。北欧諸国はなにしろ税金が高いので、日々の生活にそんなお金をかけられない、ということが国民みんなの前提になっていて、マーケティングもそれに基づいている。
 
 
 ところで、最初のはしごのアンケートに戻る。改めて見てみると、
 
 はしごの最も高いところは、あなたが考え得る最も良い生活を意味し、はしごの最も低いところは、あなたが考え得る最も悪い生活を意味している。
 
 これはその人の想像力、生活の最上から最低をどこまで想像できるか、ということでもある。北欧諸国は、過去にあった最低の歴史を知っている国というむきもある。この国はソ連という乱暴な大国に長い間脅かし続けられたトラウマを持つ国であり、それゆえにその時代に比べれば、という共通認識はあろうかと察する。
 また、この先になんの希望もないよ、ということであれば、はしごの段の位置は高くなるだろう。それはそれで、かつて古市憲寿が「絶望な国の幸福な若者たち」で問題提起したような議論を挟む余地が出てくる。はしごの段の位置は高いに越したことはないように思えるが、高すぎるとそこには別の意味合いが出てくる。
 
 ちなみに日本は、7段目、8段目のあたりを回答した人が多いとのことだ。先に示したように年齢や性別によって多少の違いはあるものの。全般的には日本の「幸福度」は案外いい塩梅なんじゃないかなという気もする。少なくとも、日本人がいまのメンタリティのまま北欧に移住しても幸せになれるかというとそういうことではなさそうである。

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人類初の南極越冬船 ベルジカ号の記録

2023年04月19日 | ノンフィクション
人類初の南極越冬船 ベルジカ号の記録
 
ジュリアン・サンクトン 越智正子 訳
パンローリング
 
 
 人類初の南極点到達とか、人類初の単独北極横断とか、極地探検にはいろいろな人類初があるが、こちらは人類で初めて南極で冬を越したというもの。
 とはいえ、当初から狙っていた越冬ではなくて、行きがかり上そうなってしまった、ということ。つまり「遭難」である。
 
 極地探検の遭難といえば、寒さや飢えに苦しみ果てるイメージが強い。南極点到達一番乗り競争に失敗したスコット隊は、計算外の寒さに当初予定していた行動がとれず、ついには食料不足となって全員死亡した。北極探検に100名以上の大所帯で挑んだフランクリン隊は、氷に挟まれて船が破壊され、彷徨の末に多くが餓死に至った。生還者は1人もいなかった。
 
 本書、ベルジカ号に乗るジェルラッシュ隊は、人類最初に南極越冬を余儀なくされた隊である。それゆえに寒さと飢えは半端なかっただろうと思いきや、実はそうではない。いや、決して楽だったということはないのだろうが、本書の記述で寒さや飢えのすさまじさを伝えるエピソードはほとんどない。そこは十二分な対策をしていたのだろう。本書のオリジナルのタイトルは「MADHOUSE AT THE END OF THE EARTH」つまり「極地の精神病院」。隊員を苦しめたのは精神異常だった。
 船は四方を氷に閉ざされて身動きできない。広大な氷原の真ん中で、そこに南極ならではの常夜と白夜が訪れる。これが人を精神的にひどく追い詰めたらしい。太陽が出ないでひたすらに夜が続く、というのはここまで人の心を荒廃させるのか。白夜続きで夜が訪れないというのはここまで人を不安にさせるのか。
 
 僕は一度だけ数日間、冬の北欧にいたころがある。ノルウェーのトロムソという北緯69度の街で季節は12月だった。午前10時くらいにようやく外が白み始め、正午あたりに、ようやく日本の冬の朝7時くらいの明るさになる。そして午後2時くらいにはもう日が暮れる。旅行者の気楽さで単に物珍しくて面白がっただけだが、なるほど毎日がこれでは精神に来るものがあるのかもなとは思った。だから北欧は家の中をあんなに暖かく飾り立て、家具や小物のデザインがいかしているのだな、と思ったくらいだ。
 
 もちろん、ジェルラッシュ隊の心を追い詰めたのは、常夜や白夜だけが原因ではない。いつ氷が動いて船が押しつぶされるかわからないし、そもそも南極を脱出できるのかどうかもわからない。すでに極限的な心境があった上に、太陽があがってこない、あるいは太陽があがりっぱなし、という極端な異常状態に彼らはさらされた。
 
 食料は十分にあったとはいえ、栄養には偏りがあった。ビタミンCが不足したために隊員は壊血病にかかっている。船医として隊に参加していた経験豊かなフレデリック・クックが、エスキモーの食生活から生肉には壊血病予防の効果があることを推定し、無理やりにペンギンやアザラシの生肉を隊員に食わせた。そのために一命だけは取り留めたものの、フィジカルにも健康をやられた隊員は続出した。
 
 このジェルラッシュ隊で異彩を放っていたのは、この船医クックと、若い乗船員ロアール・アムンゼンだ。そう、あのアムンゼンである。このジェルラッシュ隊は、クックとアムンゼンがいたから、なんとか犠牲者2名で生還できたようなものであり、本書もその見立てで構成されている。その後のアムンゼンがなぜスコットを出し抜いて南極点一番乗りを果たせたのかはいろいろ説があるが、そもそもこのジェルラッシュ隊での経験で、極地探検のなんたるかをアムンゼンは原体験しているところが大きいようだ。またクックという個性的なアメリカ人船医との邂逅がアムンゼンのその後に大きく影響をしたことが本書では書かれている。
 
 一方のクックは、一般的には知られていない名前である。しかし、北極点一番乗り争いでロバート・ピアリとひと悶着あった人といえば、ピンと来る人はいるかもしれない。クックの北極点到達記録は現在なお認められていない。彼の到達場所は北極点のはるか手前だったとされている。クックという人は良くも悪くも誇大妄想的なところがあったようで、それが窮地を救うミラクルをみせることもあれば、反対に独り相撲やピエロを演じることにもなってしまったようだ。
 もっとも、最近の研究だとピアリも北極点に到達していない疑惑が強いらしい。ぼくが子どものころは北極点一番乗りはピアリということになっていて、子どもむけの科学まんがなんかでもそう紹介されていたが、いろいろ検証するとピアリの記録は捏造の疑いがあるという。そうなると北極点一番乗りは誰になるのかというと、なんとアムンゼン(飛行船での到達)になるそうだ。彼は北南極両方を人類初で極めたことになる。
 極地探検というのは、もちろん猛烈な根性と周到な準備が必要だが、誇大妄想すれすれの狂気さがなければとても成し遂げられないものではあるのだろう。アムンゼンという男は、いろいろな伝記をみるに心の底から野心溢れる冒険家だったようである。
 
 
 それからすると、このベルジカ号の隊を率いた隊長アドリアン・ド・ジェルラッシュ。この人は前人未踏の地を行く隊を率いる冒険家とするには少々常識人すぎたかもしれない。この人の小市民的なプライドやバランス感覚や優柔不断なところ、そして優しさが、本隊の遭難の原因ないし遠因になったことは否めない。ベルギーを出航して南極圏にたどり着く途中途中で隊員の部分最適に付き合いって手間取っている結果、南極入りが当初の予定から大幅に遅れている。この時点でこのプロジェクトは先がないと言える。
 本書から察するに、ジェルラッシュは船のかじ取りとしてはかなり名手だったようだ。氷山が狭まる海峡をすり抜けたり、暴風雨を切り抜けたりする技術は極めて優れていたようである。言わば技術者上がりのリーダーだ。しかし、人心を掌握し、モノゴトの優先順位を瞬時に判断し、不測自体の中で決断と実行を果たしていく力量には欠けていたように思う。この意味ではエンデュアランス号遭難で有名なアーネスト・シャクルトンがとったリーダーシップはやはり目を見張るものがある。極地探検に関わらず困難なプロジェクトをチームで行う上でのチームリーダーの在り方が、コトを大きく左右するのだという好例だろう。

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Newton別冊 ゼロからわかる人工知能完全版

2023年04月03日 | テクノロジー
Newton別冊 ゼロからわかる人工知能完全版 ついにはじまったAI時代 社会や暮らしは急速に変化する
 
NEWTON PRESS
 
 
 chatGPTの珍妙な解答を、要は茶化したわけだが、これはヤセ我慢みたいなもので、一方ではやはりchatGPTの台頭は将来ヤバいことになりそうだとも思っているわけである。
 
 chatGPTをはじめとする生成AIは、Google一強だった検索エンジンの市場を覆すと当初は言われていたが、むしろスマホ登場のインパクトに匹敵するとみなす向きも出てきた。スマホ登場以前と以後は、我々のライフスタイルも様々な商品サービスのありようもまるで変ってしまったが、つまりそれくらいの社会の非連続変化をつきつける可能性が強いわけだ。
 
 これはいつかきた道である。つまりデジタルリテラシーと呼ばれたもの、かつて30年前あたりから綿々と時代は次々とデジタルを使える人と使えない人に峻別してきた。パソコンを使える人と使えない人、電子メールを使える人と使えない人、インターネットを使える人と使えない人。ブログやRSSを使える人と使えない人、スマホを使える人と使えない人、SNSプラットフォームサービスを使える人と使えない人・・ chatGPTをはじめとする自動生成AIも、この枝分かれポイントに入ってくると言えそうだ。それも大きな分岐点として屹立しそうである。
 
 齢50代の自分としては億劫この上ない。
 しかし、この進化はぜったいに留まらないことは様々な識者もずっと前から言ってきたことだし、このブログでも「インターネットの次に来るもの」「拡張の世紀」「ホモ・デウス」「シンギュラリティ」など、何冊かの本をとりあげてきている。
 だけど、実際に目の当たりにするとやはりビビるというか、いろいろな現状維持バイアスが頭の中を駆け巡って抵抗する。
 
 多くの企業では、機密性の保持の観点から業務で自動生成AIを用いるのは制限する方向にあるらしい。イタリアでは国レベルでchatGPTの利用を制限したという報道も見た。日本の行政も、すぐに規制を敷こうとする傾向がある。
 しかし、そのように制限をかけていこうとしても、やはり大筋ではこの流れには逆らなえいだろう。生活や仕事に自動生成AIがものすごいスピードで入り込むという前提で、我々はどうサバイブしてシノギを削るかを考えた方がいい。
 
 というわけで、基本的なことのおさらいという意味で本書をゲット。2022年2月の刊行なので、この手のテーマにしては昔すぎる気もするが、目先のchatGPT狂騒の波に便乗してセンセーショナルに書かれたものよりは冷静で良心的だろうと思ってこれを読むことにした。いまWeb上やSNS上ではさかんにchatGPTを上手に使う方法の記事や投稿が氾濫していて、chatGPTのロジックに合うような上手な尋ね方をすれば、かなり巧みに答えを返してくるというハウツーやhacksががいろいろ紹介されているが、これらの実用編の前にまずは生き越し方をみたいという気持ちがある。
 
 以下、本書をふむふむと読んで、気になるところをピックアップした。長くなるが自分の備忘録のためである。
 
  1. 今日のAIは「特化型AI」と分類されるものであり、「汎用型AI」の開発はまだまだである。「汎用型AI」とは「想定していない未知の課題に対応できる」ものである。

  2. ディープラーニングには「過学習」という学習用データに特化しすぎて未知のデータに対応できなくなる問題がある。(耳の長い猫の画像を見ると「猫」と認識しない等)それを避けるため「ドロップアウト」という学習の間引きみたいな処置が行われる。

  3. 機械学習には「教師あり学習」と「教師なし学習」がある。かつて囲碁の世界名人を破ったことで有名になったAlphaGOは「教師あり学習」で、定石をとにかく食わせていた。しかしAlphaGOよりはるかに強いAlphaZEROは「教師なし学習」。教師なし学習は、どこに正解があるかを初期設定時に入力するルール特性と、その後の自己学習の積み重ねの中から見つけていく。「完全情報」である限り、AIは究極まで突き詰める。囲碁、将棋、チェスはみんな果然情報ゲーム。

  4. まともに説明できないことはプログラムに書けない。逆に、まともに説明できるものは絶対にAIのほうが人間に勝つ。

  5. 普通は、情報が不完全ならば「わからない」が正解だが、裁判のようにどちらかに決めなければならない「不完全情報」をどうするかに、AIの論理プログラミングを挑戦させている。
  6. 雑談をするAIがある。雑談のためのアルゴリズムを学習している。雑談とは「会話を意図的に引き伸ばす行為」で、そのためのポイントは
    ・新しい話題を提案する
    ・相手に質問する
    ・相手の内容を肯定する
    ・単純なあいずちをする
    にあるという。逆にいえば、雑談が苦手な人間ってのもいて、それは上記のセンスが不足しているということである。

  7. ディープラーニングも、外部からの情報を学習する。ということはフェイクニュースも学習対象のひとつになる。AIにどう公平性や倫理性を実装させるかは永遠の課題。

  8. AIに奪われる仕事・奪われない仕事。その仕事の内容がデジタルっぽいかどうかはあまり関係ない。ルーチンな仕事、過去の経緯や経験や実績をもとに次の一手を決める仕事はAIにとってかわられやすい。人の心の機敏に関わる仕事はAIが代替になりにくい。

  9. この手のものは進化の感触がわかりにくい。ある時期から爆発的に進化のスピードが速まり、直線的に進化した場合を上回ったと思ったら、あっという間に抜き去る。

  10. 人間は、ひとつの情報をもとに想像していろいろな考えを作り出すことができる「知識のリサイクル」型であり、知識のネットワークを俯瞰する「メタ認知」のシステムが得意である。一方でAIは情報をいっぱい与えておく必要があり、そのいっぱいの情報の中でいろいろ試して一番いいのを覚えていく学習スタイルをとる。

  11. ディープラーニングはなぜそう判断したかの「説明」が出ない。人間としてもわからない。しかし説明がないまま結果を受け入れろという人間社会は難しいか。

  12. トロッコ問題をAIにまかせるには限界がある。そこは保険の適用という話になる。保険とは、リスクがあることを社会が容認することと同義である。
 こうやって書き写していて思ったのは、たとえば、GPTにこのムックをまるまる一冊読ませて、僕の興味ありそうなところを箇条書きに抜き出せ、といったら、これらが出てくるのだろうか。僕自身の書籍の購入歴とか、このブログに過去書いてきたことなどから、そういうことを類推するのはそんなに難しくないような気はする。長文の要約はchatGPTの得意のするところとされているが、ユーザーにカスタマイズした要約(目的に即した情報編集とでもいうべきか)ができるようになる日も近そうだ。
 それはともかく、ここで挙げたものをさらに要約すると、人間のAIに対してのサバイバルポイントとしては

  •  非完全情報に持ち込む
  •  予測不能な域に持ち込む
  •  少ない情報領域に持ち込む
ということになるだろうか。その領域とは
 
 「人の心の機敏を相手にするダイアローグ型」
 「少ない情報を、異なる分野から補完、類推するメタ認知」
 
 というところかもしれない。突き詰めると「初対面の人と仲良くなれる力」である。なんと昭和のおかんこそが、対AI最終兵器なのだ!
 
 こうやって原点を見つけていくと少し安心もしてくるが、その一方で、野崎まどのSF「Know」にあるように、人間が予測不能と勝手に思っているだけで実はAI的には十分に予測可能なものは非常に多い。バタフライエフェクトだって理屈の上では予測できてしまうのである。僕が最もびびったAI関連の論考の中にこんなのがあった。なぜAIがディープラーニングでこんなとてつもないところに到達できているのかは、実は我々が「演繹的」だと思っていたものが「壮大な帰納法的の果てに行き着くことだったのではないか」という指摘だった。つまり、我々が演繹と思っていいたものは帰納だったということである。
 演繹こそは、人間が誇るアート型センスかと思っていたのだが、もし指摘の通りだとしたらえらいこっちゃである。
 
 というわけで、悶々としていることはいっこうに変わらないが、今度は実践編を考えてみる次第である。

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黒い海 船は突然、深海へ消えた

2023年03月23日 | ノンフィクション
黒い海 船は突然、深海へ消えた
 
井澤理江
講談社
 
 
 あちこちで書評や著者のインタビュー記事が出て、たいへん興味を持った。なんか早々と今年のノンフィクション大賞の呼び声も高いので、さっそく読んでみた。
 
 対象となる「事故」は、いまから14年前の2009年6月22日に、福島県の太平洋沖合でおこった第58寿和丸という漁船の転覆沈没事故である。
 決して荒天でもないのに17人が死亡ないし行方不明となる大事故で、生存者はわずか3名だった。この事故は報道されたし、僕も新聞で見た覚えがある。
 しかし、この事故、続報の記憶があまりなく、そのまま報道の世界からは消えてしまった感がある。転覆の原因は「波」というのが、国が事故調査報告書に掲げた正式な見立てであった。
 
 さて、ここからである。
 ノンフィクションやドキュメンタリーというのは、決して単なる経緯報告レポートなのではない。ある種の世間に問いたいメッセージがジャーナリスト側にあり、それに沿って情報の取捨選択や扱いの大小があってストーリーが編集される。もちろん好き勝手に切り張りしていいわけではなく、ジャーナリストの良心と技術に基づくことが前提だ。ジャーナリズムとしての公平中立を踏まえながらも、そこには何がしかの主張や告発がある。そうでなければ、わざわざコンテンツとして世に出す意味がない。
 その観点において本書は、沈没の原因は決して「波」なんかではない、ということを丹念に、いや執念といってよい取材で解きほぐしている。
 
 沈没の真の原因については、あちこちの書評や著者のインタビュー記事などでしっかり触れられている。なので、このブログでも書いてしまうが、第58寿和丸の沈没原因は潜水艦との衝突の可能性が高いことを本書では掲げている。
 むしろ本書のクローズアップするところとしては、
 
 ・国はなぜ潜水艦衝突を認めようとしないのか
 ・その潜水艦はどこの国のものか
 
ということになる。
 まず、後者に関しては推定の域を出ないものの、米国の潜水艦である可能性が高いことを示唆している。とはいってもこれは消去法、つまり日本・ロシア・中国・韓国などの可能性をひとつずつ消した上で導き出したものであり、米潜が犯人という積極的証拠としてはまだまだ不十分のそしりは免れない。
 
 本書で慎重に、そして執念で追及しているのはやはり前者だ。なぜ、国は潜水艦の可能性を追求せず、「波」説に固執するのか。
 
 先に触れたように、ノンフィクションとは決して中立ではなく、ジャーナリズムとしてのある種のメッセージがある。現代の複雑な世の中においては、それは一面の真実かもしれないが、全容を説明するものでもない。おそらく官僚には官僚の言い分、官僚が見えている光景、そして正義があるのだろうとは思う。
 しかしそれを踏まえた上で、本書で描かれる官僚の立ち振る舞いには、やはり日本のガバナンスが持つ絶望的な虚無を感じざるを得ない。この虚無は、東日本大震災で大川小学校を襲った悲劇を扱った本とも通じるものだ。
 
 本書には本事故の原因究明や調査報告にあたった官僚、元官僚、国に依頼されて調査に携わった専門家が次々と取材の対象として登場する。彼らの多くにみられるのは、事なかれというか、外形上のつじつま合わせができていればそれでよい、という価値観だ。これは彼らが悪びれているわけでも、開き直っているわけでもない。言わば、官僚機構の悪作用部分がもっとも露悪された例である。
 「外形上のつじつまがあっている」とは、法に照らし合わせて手続き上問題がないということである。守秘義務を盾に取材協力や資料提供を拒む。事故調査報告書は作成手続き上まったく瑕瑾がなく、規則どおりに随所の有識者の確認・監修を経て正式に受理され、ちゃんと社会に公表されている(そのタイミングが東日本大震災後の混乱の最中であることは何の法にも抵触しない)。運輸安全委員会とは、安全上の教訓を示唆するのが組織のミッションとして規定されており、その教訓はちゃんと報告書に示されている。そこにはなにも蒸し返す余地はない。日本は法治国家なのだからそれでいいのである。むしろ変に人情味や個別事情の斟酌をしたり、非公式な手法の情報をとりいれたり、逸脱したジャッジをすると、それはもう法治国家ではなくて人治国家になる。つまり中国のようなガバナンスへの糸口を拓く危険性もある。
 行政の秩序を旨とする国家公務員であれば、法治に従い、法律を遵守する意思決定こそが正義なのであって、そこにはなんの疚しさも罪もない。法律上の守秘義務をまもって情報開示や取材を拒むのはむしろ国家公務員として立派な態度ということになる。手続き上スキがない事故報告書作成は行政の完璧な仕事である。官僚の正義とはそんなものである。
 
 残念ながら、それが「この国のかたち」なのだ。海難事故の事故調査や、安全保障や防衛に抵触する情報の取り扱いとはこのようなものとして、万事これまで規定され遂行されてきたのだ。それで万事が安泰なのである。マクロな目線で見れば、物価もエネルギーも食料もなんだかんだで諸外国に比べればまだまだ平常の範囲で調達ができて、今日も社会秩序は安定であり、外敵の脅威は無く、行政は滞りがなく、人々の生活はつつがなく維持されるのである。そんな日本をいつまでも維持させていく。繰り返すが、官僚の正義とはそんなものである。一般市民感覚とは見えている世界がまるで違うと言うしかない。この非情な温度差こそが、本書から浮かび上がる世界だ。
 
 
 本書は、著者が「取材はまだ続いている」と述べているように、実は最後まで読んでも事故原因については結論にたどり着かない。国は潜水艦原因説を認めていないし、情報開示も相変わらずままならない。また、潜水艦説を仮定するにしてもその国籍は結局のところ憶測の域を出ていない。その意味で、この本は調査の途中で上梓されていることになる。なぜ刊行に踏み切ったのか。著者や、出版社である講談社はどのような価値をこの本に託したのか。
 
 これは僕の個人的感想である。
 実は、本書刊行の動機は、この行政ののらりくらりとした対応の結果、不条理と言えばあまりにも不条理に落としこまれてやり場のない思いを抱えている一人の人物がここにいることを社会にもっと知ってほしかったのではないか。
 その人物とは沈没した第58寿和丸の所有者であり、17名の社員を亡くした酢屋商店の社長である野崎哲氏である。完全に被害者でありながら、その立場として事故の責任者として全うせざるを得ない。遺族を見舞い、マスコミに対応し、行政に陳情し、会社の立て直しに走り回る。
 
 それなのに、試練は終わらない。この事故で1隻の船(第58寿和丸は重要な基幹船であった)と17人の社員を失った酢屋商店では、その2年後の東日本大震災による津波でさらに3隻の船を失う。浜辺に面した社屋も津波で破壊される。漁場は福島第一原発事故による汚染の憂き目にあう。会社は存亡の危機に見舞われる。
 第58寿和丸の事故と東日本大震災の因果は、直接は関係がない。それを一筋の物語としてつなげて、野崎氏に対する行政のことなかれを強調するのは、もしかしたらアンフェアかもしれない。しかし、野崎氏から見れば、この立て続けに起こる理不尽、不条理は、旧約聖書のヨブ記さえ思い起こす苦難の連続である。そこに味方なのか敵なのかわからない問答を繰り返す官僚は、野崎氏にとって悪夢の不条理劇に満ちたものだったと容易に想像できる。彼にとっては自然も行政も不条理の極みだった。
 それでも、そんな不条理の最中で生きざるをえない、ならば生きよう、としている人物がいるのだ、これが本書のノンフィクションとしての裏メッセージではないかと思う。だからこそ、本書はまだ調査未完の状態で上梓する価値があるのだ。野崎氏の不条理を語るには十分である。むしろ真相究明されていないからこそ、野崎氏の不条理な境遇はより深刻なものになる。
 
 本書は最後に、石牟礼道子の詩が引用される。石牟礼道子を語りだしたのは野崎氏の口からに他ならないのだが、著者はこの石牟礼道子という世界観に遭遇することで、自分の描こうとしているもののなんたるかが輪郭を帯びたのではないかと思う。圧倒的不条理の中で、絶望のさなかに、それでも生きていかねばとしている小さい声を聴く。行政がしたためる正式報告書という正論の暴力の下で、生きようとしている小さな声がある。その輪郭が掴めたとき、このドキュメンタリーは1冊の本として上梓に踏み切ったのではないか。
 
 東日本大震災から12年。いま福島第一原発廃炉における処理水が、彼らの漁場に海洋放されることが決定されている。

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