読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

2017年01月24日 | サイエンス
サピエンス全史  文明の構造と人類の幸福
 
著:ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社
 

 やっと読み終わった。上下巻で1か月かかってしまった。
 
 ちなみに、下巻の末に納められている訳者あとがきが、これ以上ないというくらい、見事な本書内容のダイジェストになっている。この歴史絵巻を4コママンガのように圧縮しているので、お急ぎの方はとりあえずこのあとがきだけ読めばいいかもしれない。

 チャレンジとして、訳者あとがきよりさらに本書の内容を縮めてみたのが以下である。
 
 「本書は、アフリカの一地方で産み落とされた脆弱な存在ーホモサピエンスが、「虚構」という想像力を武器に集団行動というものを覚えて、その組織力で他のサピエンス(ネアンデルタール人とかだな)を駆逐し、グレートジャーニーの末にオーストラリア大陸にまで到達して地球上に生息するようになり、やがて狩猟採取漁労だけでなく、農業という画期的な食糧調達方法を覚え、その結果急速に人口が増えてさらに集団性を増し、そしてそれは集団対集団という交易や闘争の手段を発達させ、そういった集団間の価値観共有や物事の円滑な取引や秩序形成のために、貨幣と宗教と帝国が発明され、とくにヨーロッパに住む人種が未知への探求心を強く持ったことによって科学技術への追及と遠征ーアメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアへと勢力図を伸ばし(つまりもともとそこに住んでいた人間を駆逐し)、産業革命によってエネルギーを生み出す術を身につけて生産性はさらに増し、他の動物や植物を踏み台にますます科学技術を発展させて今に至るも、ついにみずからの生命体そのものの成り立ち、つまり遺伝子とか脳の電気信号にもメスを入れはじめ、「自然選択」によらない生命、超ホモサピエンスの可能性へとふみだし、シンギュラリティ目前にせまっている、ということが書いてある。」
 
 わはは。
 
 本書が実にクールなのは、そういったホモサピエンスの進化というか壮大なヒストリーを振り返りながら、「で、人間は幸せになったの?」と常に冷や水を浴びせることだ。
 つまり、他のサピエンスを絶滅させ、数多の大型動物や魚介類を絶滅ないし絶滅寸前に追い込み、多くの動物を人類の科学実験台や食糧のためのシステムに押し込め、さらにヨーロッパ人は他の人間を徹底的に駆逐し(南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、アジアの人々は西洋諸国に蹂躙された)、その後の人類は森林を焼き払い、大気を汚染し、そこまでやって「で、人間は旧石器時代のころに比べて幸せになったのかね?」と問うてくるのだ。
 
 著者によれば、旧石器時代の人が、泥と枯草でつくりあげた粗末な寝床を、真っ黒になりながらも遂につくりあげたときの幸福量(脳内で分泌される幸福を感じる物質の量)と、現代人がおしゃれで快適なペントハウスを業者に発注してつくらせて完成したときに感じる幸福量(脳内で分泌される幸福を感じる物質の量)はたいしてかわらない、というのである。
 
 こういう例えもできそうだ。
 スマートフォンが登場する前と後、この間はわずか10年くらいしかないわけだが(最初のiPhoneが登場して今年で10年)、いまや我々の生活にスマホは欠かせないものになっている。スマホ以前に比べ、現代はたしかに「便利」になったといえるだろう。
 では我々は10年前から「幸せ」になったか。
 裏をかえすと、スマホ登場前のわれわれはそんなに「不幸」だったか。便利と幸せは必ずしも一致しないことは、現代人ならば身にしみてわかっていることである。

 それどころか、物事に対してそれをどれくらい幸せに感じるかは、結局は時代の差よりも個人の感受性の差でしかない。
いつの時代にあっても、ほんの些細なことでも幸せを感じられる人もいれば、なにがあってもどこか不満がぬぐえないタイプの人もいるだろう。それは歴史の差よりも個人差のほうがよっぽど開きとして大きいだろう。

 本書では、研究の結果、人間が「幸せ」を感じやすい因子として、仲間とくに家族の存在と、「期待が実現する確率の高いこと」を挙げている。
 たしかに社会学の研究では、孤独が死を早めやすいこと、不幸感を募りやすいことが証明されている。
 また、「期待が実現する確率が高い」というのは、実は最初の期待の設定をどうするかという能力(つまり、期待を低めに見積もれる人は失望するおそれが少ない、つまり幸福感を得やすい)、あるいは、実現したものを期待と違わないと認められる能力(これはこれでよし、と思える能力とでもいおうか)、に負うところが多いことを看破している。
 
 で、著者が指摘するには、近現代の人類の歴史は「幸せ」を感じにくくなるほうに作用しているらしい。
 人類史は長い間、家族という単位を尊重してきた歴史だった。「家族」というものは足かせにもなってきたし、とくに女性や子どもは、家父長の財産という見方もある歴史ではあった。とは言え、その国の王や領主は、庶民の家族の中にまで介入することは原則としてなかった。
 その家族という単位をさらに個人という単位に分解したのが近現代だった。家族の扶養のかわりに国が行政制度として個人の厚生をみるのが近現代だ。生産行為を家族の生業ではなく、企業の仕組みの中に雇用という形で組み込むのが近現代だ。国の教育指導要領に基づいて子どもを学校に引っ張り込むのが近現代だ。
 「期待値」についても同様である。生産が拡大し、消費が奨励され、情報網が加速され、持つものと持たざるものの格差がひろがり、しかも「持つもの」がどんな生活をしているかを「持たないもの」でも知れるようになったのが近現代だ(メディアの発達)。つまり、「期待しつつもかなえられない」と自覚するものが増えているのが近現代である。東欧革命はテレビがつくり、中東革命はインターネットがつくったとされる所以だ。

 著者は問いかける。かつてと比べて、はたして人類は「幸せ」を甘受しやすくなったのか?
 
 
 本書のもっとも驚くべき指摘は、そもそも人類は「農業革命」の時点で大幅に「幸せ」の道を踏み外したというものである。
 実は、狩猟採取時代にくらべ、農業時代の人類のほうが圧倒的に長時間の労働を強いられながら、そのカロリー摂取量は狩猟採取時代よりも少ないのだ。
 どうしてこんなことになるのか。
 
 それは、人口が増えたからだ。
 たしかに農業によって、単位面積あたりの食糧調達量は増えた。しかし、そのために人間は増えすぎてしまったのである。食糧調達量よりも人口増加量のほうが多かったのだ。人類の遺伝子としては、大成功だが、一人一人の身になって考えれば辛い人生になってしまったのである。
 その「罠」にはめたのは、人類のDNA(利己的な遺伝子)と、なんと「麦」のDNAであった。収穫量は多くとも、そこに至るまでにやたらに負担を強いる「麦」の戦略性が、人間をからめとったのだ。「麦」によって人類は、定住生活を余儀なくされるようになる(アジアの場合は「稲」である)。
 農業に拘泥してからの人類史は、格差と集団間の闘争の歴史となる。小学校の歴史の教科書にも出てくるが縄文時代には「格差」はなかった。闘争がはじまったのは稲作が始まる弥生時代以降だ。
 要するに、狩猟採取時代の人類に比べ、その後の人類―現代も含む―のほうが、「幸せ」を甘受する頻度は低いということを本書は示唆している。
 

 そして本書は、長い長いふりかえりの後に、ゲノム革命やAIに手をだす人類に、こう問いかける。
 
 「私たちは何を望みたいのか?」

 そもそも、アフリカの片隅に立ったときから、我々人類は止まらない流れに乗ってしまったのだろう。利己的な遺伝子なのか、麦の恐るべき捕獲力なのか、宗教という麻薬なのか、貨幣という定量化され可視化された欲望の故なのか。他の生物を貪り食べながら。無関心の殺戮を重ねながら、この地球にはびこるようになった。
 
 そして、今なお流れはとまらない。ムーアの法則の通り、科学技術は加速に加速を重ね、第4次産業革命は始まりつつあり、シンギラリティは目前に迫りつつある。何も望まなくても。
 
 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 心配学 「本当の確率」とな... | トップ | アイの物語 »