読書の記録

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人類初の南極越冬船 ベルジカ号の記録

2023年04月19日 | ノンフィクション
人類初の南極越冬船 ベルジカ号の記録
 
ジュリアン・サンクトン 越智正子 訳
パンローリング
 
 
 人類初の南極点到達とか、人類初の単独北極横断とか、極地探検にはいろいろな人類初があるが、こちらは人類で初めて南極で冬を越したというもの。
 とはいえ、当初から狙っていた越冬ではなくて、行きがかり上そうなってしまった、ということ。つまり「遭難」である。
 
 極地探検の遭難といえば、寒さや飢えに苦しみ果てるイメージが強い。南極点到達一番乗り競争に失敗したスコット隊は、計算外の寒さに当初予定していた行動がとれず、ついには食料不足となって全員死亡した。北極探検に100名以上の大所帯で挑んだフランクリン隊は、氷に挟まれて船が破壊され、彷徨の末に多くが餓死に至った。生還者は1人もいなかった。
 
 本書、ベルジカ号に乗るジェルラッシュ隊は、人類最初に南極越冬を余儀なくされた隊である。それゆえに寒さと飢えは半端なかっただろうと思いきや、実はそうではない。いや、決して楽だったということはないのだろうが、本書の記述で寒さや飢えのすさまじさを伝えるエピソードはほとんどない。そこは十二分な対策をしていたのだろう。本書のオリジナルのタイトルは「MADHOUSE AT THE END OF THE EARTH」つまり「極地の精神病院」。隊員を苦しめたのは精神異常だった。
 船は四方を氷に閉ざされて身動きできない。広大な氷原の真ん中で、そこに南極ならではの常夜と白夜が訪れる。これが人を精神的にひどく追い詰めたらしい。太陽が出ないでひたすらに夜が続く、というのはここまで人の心を荒廃させるのか。白夜続きで夜が訪れないというのはここまで人を不安にさせるのか。
 
 僕は一度だけ数日間、冬の北欧にいたころがある。ノルウェーのトロムソという北緯69度の街で季節は12月だった。午前10時くらいにようやく外が白み始め、正午あたりに、ようやく日本の冬の朝7時くらいの明るさになる。そして午後2時くらいにはもう日が暮れる。旅行者の気楽さで単に物珍しくて面白がっただけだが、なるほど毎日がこれでは精神に来るものがあるのかもなとは思った。だから北欧は家の中をあんなに暖かく飾り立て、家具や小物のデザインがいかしているのだな、と思ったくらいだ。
 
 もちろん、ジェルラッシュ隊の心を追い詰めたのは、常夜や白夜だけが原因ではない。いつ氷が動いて船が押しつぶされるかわからないし、そもそも南極を脱出できるのかどうかもわからない。すでに極限的な心境があった上に、太陽があがってこない、あるいは太陽があがりっぱなし、という極端な異常状態に彼らはさらされた。
 
 食料は十分にあったとはいえ、栄養には偏りがあった。ビタミンCが不足したために隊員は壊血病にかかっている。船医として隊に参加していた経験豊かなフレデリック・クックが、エスキモーの食生活から生肉には壊血病予防の効果があることを推定し、無理やりにペンギンやアザラシの生肉を隊員に食わせた。そのために一命だけは取り留めたものの、フィジカルにも健康をやられた隊員は続出した。
 
 このジェルラッシュ隊で異彩を放っていたのは、この船医クックと、若い乗船員ロアール・アムンゼンだ。そう、あのアムンゼンである。このジェルラッシュ隊は、クックとアムンゼンがいたから、なんとか犠牲者2名で生還できたようなものであり、本書もその見立てで構成されている。その後のアムンゼンがなぜスコットを出し抜いて南極点一番乗りを果たせたのかはいろいろ説があるが、そもそもこのジェルラッシュ隊での経験で、極地探検のなんたるかをアムンゼンは原体験しているところが大きいようだ。またクックという個性的なアメリカ人船医との邂逅がアムンゼンのその後に大きく影響をしたことが本書では書かれている。
 
 一方のクックは、一般的には知られていない名前である。しかし、北極点一番乗り争いでロバート・ピアリとひと悶着あった人といえば、ピンと来る人はいるかもしれない。クックの北極点到達記録は現在なお認められていない。彼の到達場所は北極点のはるか手前だったとされている。クックという人は良くも悪くも誇大妄想的なところがあったようで、それが窮地を救うミラクルをみせることもあれば、反対に独り相撲やピエロを演じることにもなってしまったようだ。
 もっとも、最近の研究だとピアリも北極点に到達していない疑惑が強いらしい。ぼくが子どものころは北極点一番乗りはピアリということになっていて、子どもむけの科学まんがなんかでもそう紹介されていたが、いろいろ検証するとピアリの記録は捏造の疑いがあるという。そうなると北極点一番乗りは誰になるのかというと、なんとアムンゼン(飛行船での到達)になるそうだ。彼は北南極両方を人類初で極めたことになる。
 極地探検というのは、もちろん猛烈な根性と周到な準備が必要だが、誇大妄想すれすれの狂気さがなければとても成し遂げられないものではあるのだろう。アムンゼンという男は、いろいろな伝記をみるに心の底から野心溢れる冒険家だったようである。
 
 
 それからすると、このベルジカ号の隊を率いた隊長アドリアン・ド・ジェルラッシュ。この人は前人未踏の地を行く隊を率いる冒険家とするには少々常識人すぎたかもしれない。この人の小市民的なプライドやバランス感覚や優柔不断なところ、そして優しさが、本隊の遭難の原因ないし遠因になったことは否めない。ベルギーを出航して南極圏にたどり着く途中途中で隊員の部分最適に付き合いって手間取っている結果、南極入りが当初の予定から大幅に遅れている。この時点でこのプロジェクトは先がないと言える。
 本書から察するに、ジェルラッシュは船のかじ取りとしてはかなり名手だったようだ。氷山が狭まる海峡をすり抜けたり、暴風雨を切り抜けたりする技術は極めて優れていたようである。言わば技術者上がりのリーダーだ。しかし、人心を掌握し、モノゴトの優先順位を瞬時に判断し、不測自体の中で決断と実行を果たしていく力量には欠けていたように思う。この意味ではエンデュアランス号遭難で有名なアーネスト・シャクルトンがとったリーダーシップはやはり目を見張るものがある。極地探検に関わらず困難なプロジェクトをチームで行う上でのチームリーダーの在り方が、コトを大きく左右するのだという好例だろう。

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