読書の記録

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レトリック感覚

2011年12月23日 | 言語・文学論・作家論・読書論

 レトリック感覚

 佐藤信夫

 講談社学術文庫に収録されており、既に名著の誉れが高い本書であるが、白眉は、冒頭の序章だと思う。以後の具体的な分類も考察と示唆に極めて富んでいるが、肝心なところは序章に集約されている。

 序章は2つにわかれていて「レトリックが受け持っていた二重の役割」「レトリック・修辞・ことばのあや」となっている。これらにて総括されているのは、長い間レトリック(修辞学)と呼ばれるものは、「相手を説得するための表現の技術」と「相手を感動させるための芸術的表現の技術」という役割論で語られ、それに対して著者は「(人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく)、私たちの「認識」をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要」と説いた。

 「認識したこと」を相手に伝える道具として、言葉や文章がある。なるべく自分の認識と合致したものを相手に伝えたいが、往々にして、与えられた言葉から相手が「認識」した姿は、当初、語り手が持っていた「認識」と微妙に、あるいは大いに違うことが多い。このへんは、コミュニケーション論とか認知哲学とか、メールの応酬はケンカになりやすい、とか、でおなじみの話である。

 これを、語り手の語彙力の問題とするか聞き手の「ものわかりの悪さ」とするか、はそれぞれだが、通常は会話は何度も往復して行われるので、そこで相互の「認識」のズレが少しずつ微修正されて、まあだいたいは事なきを得るのである。

 その「ズレ」をなるべくつくらないで投げかける技術がレトリックだ。場合によっては「言語の常識的なルールにわずかにさからってもいいから、あえて意識の深層を忠実に表現しようという工夫」でもある。それは、ほんのちょっとした“てにをは”の違い、文章上のリズム、対象と微妙な距離感のものを持ち出してくる比喩などを繰り出す技術である。

 本章の各レトリックの分類でもそうだが、著者は徹底的に、そのレトリックによって得られる「効果」を至上としてレトリックの世界を見ている。古典レトリック学の多くが、その構造に注目し、分類のための分類になってなんだかよくわからなくなっているのに対し、著者は聞き手に与える「効果」の違いから見ている。その「効果」とは、先の夏目漱石の言葉「「扇の要のような集注点を描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」を借りるなら、語り手が、その言葉を使うことによって、どの方向に連想の世界を暗示させたいか、ということであり、その手法の選択肢としてのさまざまなレトリックである。

 "百聞は一見に如かず"、英語圏では"A picture is worth a thousand words"とあるように、正確を伝えるために「ことば化」するというのは実に困難な作業である。これら「ことばにならない」さまざまな事柄を、しかしそれでも、相手に自分が伝えるためには100や1000の“ことばのあや”を駆使しなければならない。小説や詩だけではなく、論文やレポート、業務報告書だってそうだろう。


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