読書の記録

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千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話

2023年05月23日 | エッセイ・随筆・コラム
千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話
 
済東鉄腸
左右社
 
 
 タイトルのごとくである。そんなことがマジであり得るのか、と思ったがマジなようだ。事実は小説より奇なり。千葉県在住日本人ルーマニア語小説家という奇なる事実がここにある。
 
 特筆すべきは単に千葉在住ということでなく、著者は「引きこもり」であるということだ。若干の例外はあるがおおむね彼の語学の習得と小説の執筆と投稿、現地関係者との交渉ははすべてインドアにおけるネット経由である。それでルーマニアにて小説家デビューしちゃうのだから、テレワークの極北であろう。
 外に一歩もでない孤独な芸術家がその死後、部屋の中で未発表の原稿や絵画作品でいっぱいだったというエピソードはいくつも存在する。その最大のものはヘンリー・ダーガーだが、彼もネット環境があればずいぶん違う人生だったかもしれない。
 
 もっとも著者の場合、そもそも英語や言語学に関して素養があったようである。また、大量の読書と映画鑑賞をしてきたことも背景にある。これがルーマニア語の習得ならびに習得方法に機能したようだ。芸は身を助くとはこのことだろう。
 とはいってもルーマニアで小説が発表されても口糊をしのげるような原稿料が振り込まれるようなことはほとんどなさそうではある。もともとルーマニアでは小説家として生計をたてるのはほぼ無理だそうだ。著者にとっては生活の糧のためというよりはレゾンテートルとしてルーマニア語小説家人生を歩んでいる。ルーマニア語小説家(それも純文)であることは彼にとって生きていることの証のようだ。
 正直なところ、本書を読み進めるのに最初しばらくは食いつきが悪かった。タイトルに惹かれて購入したものの、くどいというか、バランスの危うい自己顕示欲に溢れていてちょいと辟易してしまい、こちらもルーマニア事情にはまったく疎いこともあって著者のこだわりにあまりシンクロできない。読んでいてさほど面白いと感じずにタイトルの出オチかと思ってしまった。
 それでもまあ我慢して読み進めたのだが、そしたら最後の追い上げがすごかった。このバランスの悪さは彼のむき出しの生への執着なのだ。彼自身、こじらせた自尊心と躁鬱気味なテンションに自覚があるようで、それが文体としておもいっきり表出していることも自分で認めている。そうとわかったら、これまでのオレオレな文章も納得がいった。彼が「カッケエー自分」を求めるのも生存本能の叫びなのだ。
 
 そう考えると、本書自体がひとつの純文学であろう。実は著者は難病を患っており、引きこもり生活は単純にメンタルなものだけが理由ではないようだ。命に別状はないものの家から遠出できない事情を抱えている。ルーマニアはもとより、都心に出ることも難しいとのことだ。足止めされた千葉の地で、言語と思考だけが過剰に熱を帯びて渦を巻いている。出口のないひきこもり生活と「日系ルーマニア語」を繰り出ての創作、言わば破滅と創造のひりひりしたところを焦りもがいている感じがして、著者は本書をエッセイと称しているがそんなライトな読み物で済まされない気がする。そもそも「千葉でひきこもりしながら、ルーマニア語を学んでルーマニアにて小説家をやる」という行為自体が十分にアートである。不自由な身の上ではあろうが、そのやけくそ気味の没入と繊細な感覚は神の与えし希少な技量だ。いっそノーベル文学賞あたりまで目指してほしいものである。

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