読書の記録

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未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命

2019年01月15日 | 日本論・日本文化論

未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命

 

片山杜秀

新潮社

 

 

数年前の本。刊行当時はけっこう話題にもなったので、いまさらここにとりあげるのは周回遅れの感がある。単に積ん読状態が続いていて今頃になって読んだに過ぎない。

だいたい、片山杜秀という人は僕にとっては「クラシック音楽評論家」のヒトであった。洋泉社から出ているクラシック音楽関係のムック本に寄稿していたり、音楽之友社の雑誌に連載をしたりしている人であった。NAXOSというクラシック音楽レーベル会社の日本人作曲家シリーズに、破格といっていいほどに充実な解説を書く人であった。

それなのに、著者の専門は「社会思想史」だという。クラシック音楽は完全に余技だったのだ。

 

それはともかく。

なるほど、本書は「失敗の本質」のひとつ上のレイヤーに位置すると思った。

失敗の本質 日本軍の組織論的研究」では、太平洋戦争における各所の戦闘において、日本軍が後世から見ればなぜに失敗するとわかるような無謀な作戦を繰り出したかを、当時の日本軍特有の組織メカニズムから解き明かしている。その「失敗の本質」は“そもそもなぜ負けることがわかっているような対米戦争に踏み出したかについてはここでは問わない”としている。つまり、「失敗の本質」はあくまで各個別の戦闘における「失敗」を研究したものである。

一方、「未完のファシズム」は、この「失敗の本質」が言及を避けた”なぜ負けることがわかっているような対米戦争に踏み出したか”というそもそもの失敗を扱っている。

 

話題になったし、あちこちで書評も出ているから改めて本書の中身を繰り返さないけれど、合理的な思考判断をする理系頭脳の持ち主が進退極まって極端な精神主義に走るというのは、オウムのサリン事件なんかでも例がある。毛沢東もポルポトも元来「アタマは良い」人間だったとされている。

つまり、ロボットが暴走するように、不可能解の問いを提示されながら立場的になんらかの回答を出さなければならないとき、論理的であれば論理的であるほどソリューションに窮し、破滅的な精神論解答をするということだ。しかも本人の中ではそれは一定の筋が通っている。

この「一定の筋が通っている」ことを、著者は「密教と顕教」と表現している。筋が通っているのは「密教」、つまりある種の条件下のときに成立する、ただしその条件については顕わにしない。表向きはあくまで一般論としてとりつくろう、というところである。

この「ある種の条件下では通用する」という留保をつけたがるのは“頭のいい人”が良くやりたかがる思考だ。例の”ご飯問答”もそのパターンだろう。国会答弁なんて密教的留保だらけと言ってよい。

 

もっとも、著者の記述では、何人かの「頭の良い」軍人による個人的な暴走が、満州事変や日中戦争ひいては太平洋戦争に突入させたのではなく、地政学的な環境条件が必然的に日本をそう追い込んだとも読める。

つまり、第1次世界大戦という欧州での歴史的大転換に「中途半端」に関わってしまったことが、欧州と日本の格差を広げたということである。第1次世界大戦で飛躍的に工業力・生産力が高まり、列強主義へと走り出した欧米と、たいしてそこまで国力がないのに巻き込まれないために背伸びをせざるを得なかった日本なのだから、日本にどんな軍人が出たとしても多かれ少なかれ似たような悲劇になったか、あるいはもっと悲劇的な結果になったのかもしれない。

また、著者は明治憲法そのものが内包していた欠陥、それを補う元老政治の所在をついている。つまり明治政府、というか大日本帝国はそもそも薩長当代限りの近代国家だったということである。著者曰くは、薩長の元老たちが死に絶えたとき、明治憲法は、日本という国家は機能しなくなったと評している。言い換えれば、薩長が明治政府を立ち上げたときその時点で、招来自滅するアルゴリズムが作動していたということである。

 

しかし、僕がぼんやりと思うことは、日本という国の行政は伝統的に「世代交代」が下手なんじゃないのかということだ。ぶっちゃけ、上手にやったのは徳川家康くらいではないかという気もする。

平成も終わる今日の日本は、超少子高齢化社会で、公的教育費用の対GDP比は先進国の中でも下の方だし、保育施設は迷惑施設と煙たがられ、社会保険の賦課制度は崩壊ぎりぎりで、郊外のニュータウンは高齢化が止まらず、地方の若者流出は加速する一方である。つまり、現代日本も世代交代ができていない。これは戦後世代の既得権益が結局のところ優先されているということだし、高度成長時代のエネルギーの基盤が将来の借金となる国債の乱発と、廃棄物の処分法が見つからないのに次々と稼働した原発であるとすれば、これが当世限りの繁栄しか見ていなかったと批判されてもしかたがなかろうと思う。未完のファシズムは1945年に瓦解したが、永世国家としてはいまだ未完のまま平成も終わろうとしている。

 


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