読書の記録

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黒い海 船は突然、深海へ消えた

2023年03月23日 | ノンフィクション
黒い海 船は突然、深海へ消えた
 
井澤理江
講談社
 
 
 あちこちで書評や著者のインタビュー記事が出て、たいへん興味を持った。なんか早々と今年のノンフィクション大賞の呼び声も高いので、さっそく読んでみた。
 
 対象となる「事故」は、いまから14年前の2009年6月22日に、福島県の太平洋沖合でおこった第58寿和丸という漁船の転覆沈没事故である。
 決して荒天でもないのに17人が死亡ないし行方不明となる大事故で、生存者はわずか3名だった。この事故は報道されたし、僕も新聞で見た覚えがある。
 しかし、この事故、続報の記憶があまりなく、そのまま報道の世界からは消えてしまった感がある。転覆の原因は「波」というのが、国が事故調査報告書に掲げた正式な見立てであった。
 
 さて、ここからである。
 ノンフィクションやドキュメンタリーというのは、決して単なる経緯報告レポートなのではない。ある種の世間に問いたいメッセージがジャーナリスト側にあり、それに沿って情報の取捨選択や扱いの大小があってストーリーが編集される。もちろん好き勝手に切り張りしていいわけではなく、ジャーナリストの良心と技術に基づくことが前提だ。ジャーナリズムとしての公平中立を踏まえながらも、そこには何がしかの主張や告発がある。そうでなければ、わざわざコンテンツとして世に出す意味がない。
 その観点において本書は、沈没の原因は決して「波」なんかではない、ということを丹念に、いや執念といってよい取材で解きほぐしている。
 
 沈没の真の原因については、あちこちの書評や著者のインタビュー記事などでしっかり触れられている。なので、このブログでも書いてしまうが、第58寿和丸の沈没原因は潜水艦との衝突の可能性が高いことを本書では掲げている。
 むしろ本書のクローズアップするところとしては、
 
 ・国はなぜ潜水艦衝突を認めようとしないのか
 ・その潜水艦はどこの国のものか
 
ということになる。
 まず、後者に関しては推定の域を出ないものの、米国の潜水艦である可能性が高いことを示唆している。とはいってもこれは消去法、つまり日本・ロシア・中国・韓国などの可能性をひとつずつ消した上で導き出したものであり、米潜が犯人という積極的証拠としてはまだまだ不十分のそしりは免れない。
 
 本書で慎重に、そして執念で追及しているのはやはり前者だ。なぜ、国は潜水艦の可能性を追求せず、「波」説に固執するのか。
 
 先に触れたように、ノンフィクションとは決して中立ではなく、ジャーナリズムとしてのある種のメッセージがある。現代の複雑な世の中においては、それは一面の真実かもしれないが、全容を説明するものでもない。おそらく官僚には官僚の言い分、官僚が見えている光景、そして正義があるのだろうとは思う。
 しかしそれを踏まえた上で、本書で描かれる官僚の立ち振る舞いには、やはり日本のガバナンスが持つ絶望的な虚無を感じざるを得ない。この虚無は、東日本大震災で大川小学校を襲った悲劇を扱った本とも通じるものだ。
 
 本書には本事故の原因究明や調査報告にあたった官僚、元官僚、国に依頼されて調査に携わった専門家が次々と取材の対象として登場する。彼らの多くにみられるのは、事なかれというか、外形上のつじつま合わせができていればそれでよい、という価値観だ。これは彼らが悪びれているわけでも、開き直っているわけでもない。言わば、官僚機構の悪作用部分がもっとも露悪された例である。
 「外形上のつじつまがあっている」とは、法に照らし合わせて手続き上問題がないということである。守秘義務を盾に取材協力や資料提供を拒む。事故調査報告書は作成手続き上まったく瑕瑾がなく、規則どおりに随所の有識者の確認・監修を経て正式に受理され、ちゃんと社会に公表されている(そのタイミングが東日本大震災後の混乱の最中であることは何の法にも抵触しない)。運輸安全委員会とは、安全上の教訓を示唆するのが組織のミッションとして規定されており、その教訓はちゃんと報告書に示されている。そこにはなにも蒸し返す余地はない。日本は法治国家なのだからそれでいいのである。むしろ変に人情味や個別事情の斟酌をしたり、非公式な手法の情報をとりいれたり、逸脱したジャッジをすると、それはもう法治国家ではなくて人治国家になる。つまり中国のようなガバナンスへの糸口を拓く危険性もある。
 行政の秩序を旨とする国家公務員であれば、法治に従い、法律を遵守する意思決定こそが正義なのであって、そこにはなんの疚しさも罪もない。法律上の守秘義務をまもって情報開示や取材を拒むのはむしろ国家公務員として立派な態度ということになる。手続き上スキがない事故報告書作成は行政の完璧な仕事である。官僚の正義とはそんなものである。
 
 残念ながら、それが「この国のかたち」なのだ。海難事故の事故調査や、安全保障や防衛に抵触する情報の取り扱いとはこのようなものとして、万事これまで規定され遂行されてきたのだ。それで万事が安泰なのである。マクロな目線で見れば、物価もエネルギーも食料もなんだかんだで諸外国に比べればまだまだ平常の範囲で調達ができて、今日も社会秩序は安定であり、外敵の脅威は無く、行政は滞りがなく、人々の生活はつつがなく維持されるのである。そんな日本をいつまでも維持させていく。繰り返すが、官僚の正義とはそんなものである。一般市民感覚とは見えている世界がまるで違うと言うしかない。この非情な温度差こそが、本書から浮かび上がる世界だ。
 
 
 本書は、著者が「取材はまだ続いている」と述べているように、実は最後まで読んでも事故原因については結論にたどり着かない。国は潜水艦原因説を認めていないし、情報開示も相変わらずままならない。また、潜水艦説を仮定するにしてもその国籍は結局のところ憶測の域を出ていない。その意味で、この本は調査の途中で上梓されていることになる。なぜ刊行に踏み切ったのか。著者や、出版社である講談社はどのような価値をこの本に託したのか。
 
 これは僕の個人的感想である。
 実は、本書刊行の動機は、この行政ののらりくらりとした対応の結果、不条理と言えばあまりにも不条理に落としこまれてやり場のない思いを抱えている一人の人物がここにいることを社会にもっと知ってほしかったのではないか。
 その人物とは沈没した第58寿和丸の所有者であり、17名の社員を亡くした酢屋商店の社長である野崎哲氏である。完全に被害者でありながら、その立場として事故の責任者として全うせざるを得ない。遺族を見舞い、マスコミに対応し、行政に陳情し、会社の立て直しに走り回る。
 
 それなのに、試練は終わらない。この事故で1隻の船(第58寿和丸は重要な基幹船であった)と17人の社員を失った酢屋商店では、その2年後の東日本大震災による津波でさらに3隻の船を失う。浜辺に面した社屋も津波で破壊される。漁場は福島第一原発事故による汚染の憂き目にあう。会社は存亡の危機に見舞われる。
 第58寿和丸の事故と東日本大震災の因果は、直接は関係がない。それを一筋の物語としてつなげて、野崎氏に対する行政のことなかれを強調するのは、もしかしたらアンフェアかもしれない。しかし、野崎氏から見れば、この立て続けに起こる理不尽、不条理は、旧約聖書のヨブ記さえ思い起こす苦難の連続である。そこに味方なのか敵なのかわからない問答を繰り返す官僚は、野崎氏にとって悪夢の不条理劇に満ちたものだったと容易に想像できる。彼にとっては自然も行政も不条理の極みだった。
 それでも、そんな不条理の最中で生きざるをえない、ならば生きよう、としている人物がいるのだ、これが本書のノンフィクションとしての裏メッセージではないかと思う。だからこそ、本書はまだ調査未完の状態で上梓する価値があるのだ。野崎氏の不条理を語るには十分である。むしろ真相究明されていないからこそ、野崎氏の不条理な境遇はより深刻なものになる。
 
 本書は最後に、石牟礼道子の詩が引用される。石牟礼道子を語りだしたのは野崎氏の口からに他ならないのだが、著者はこの石牟礼道子という世界観に遭遇することで、自分の描こうとしているもののなんたるかが輪郭を帯びたのではないかと思う。圧倒的不条理の中で、絶望のさなかに、それでも生きていかねばとしている小さい声を聴く。行政がしたためる正式報告書という正論の暴力の下で、生きようとしている小さな声がある。その輪郭が掴めたとき、このドキュメンタリーは1冊の本として上梓に踏み切ったのではないか。
 
 東日本大震災から12年。いま福島第一原発廃炉における処理水が、彼らの漁場に海洋放されることが決定されている。

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