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クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究

2021年04月13日 | ノンフィクション
クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究
 
西條剛央
山川出版社
 
 
 圧倒されてしまった。まだ4月だが、今年読む本のベスト1位になるんじゃないかという気がする。
 
 東日本大震災ではいくつも悲惨な事故が起こったが、本書はその中の一つ大川小学校の事故を丹念に研究している。その意味では本書のジャンルはノンフィクションドキュメンタリーであるが、本書の野心はそこからかなり汎用的な組織論に敷衍させていることで、その意味ではビジネス界や行政に広く通用する内容だ。
 
 第1部は、大川小学校の事故がどのようなプロセスで起こったのかを決して多くない証言(この事故の生存率はわずか5.6%であった)や物証を丹念に検討し、整合性を検証し、ここまで再現できるのかというくらいのリアリティさで当時の50分間を記述している。行政の事故調査委員会でさえ及んでいない力作であると同時に、この事故の直接間接的な原因が悪魔の采配のような形で見えてくる。読んでしまえば「この人のこの立ち振る舞いがなければ」と思いたくなる部分もクローズアップされるが、本書は個人の責任に帰したくなる誘惑にまけず冷静に根本的なメカニズムを探ることに徹する。なぜ「この人」はそんな立ち振る舞いができたのか、あるいは「この人」にそんな立ち振る舞いを許してしまったのは誰なのか、あるいはなぜなのか、と追及し、そこに構造的な原因をみる。
 第1部は読んでいて涙が落ちてくる。そして第2部が来る。
 
 第2部は、他に似たような状況下、あるいは条件下にあった学校が他にもあったのに、なぜ大川小学校にだけが破滅的な事故に至ったのかを「普段の大川小学校」のマネジメント体制がどうであったのか検証する。
また、事故後に石巻市教育委員会や文部科学省の指示によってなされた第三者委員会の調査研究を検証する。この第2部でつまびらかになったことは、結論として大の大人が集まって何をやっているのだかという体たらくであり、思わず義憤にかられるが、それでも本書はジャーナリズム的な告発が最終目的なのではなく、冷静にこの組織の不条理の背景を紐解く。なぜ事故調査委員会はこうなってしまったのかを解く。
 
 一転して第3部は胸アツの展開になる。なぜ我々は(私もあなたも)こういう組織の不条理に陥るのか。そうならないためのリスクマネジメントの本質は何かに迫る。つまり本書は大川小学校事故の研究だが、固有の事故ひとつに限ることではなく、また津波や地震の避難対策に限ることでもなく、すべてのクライシスに対してサバイブするための普遍的なリスクマネジメントを示す。
 歴史的大事故とは言え、ひとつの事例だけをもとにクライシス全体のマネジメントまで持っていくにはそうとうな力技を必要とするはずだが、ものすごく丁寧に一段一段と登っていくプロセスは圧巻であり、まるで「あなたはなんのために生きているのか」という哲学的な問いまで突き付けられたような気分になる。(「あとがきにかえて」は著者の信念と執念がすごい。研究書の域を超えている)。
 この第3部と「あとがきにかえて」の熱量はすごすぎて、かえって第1部の神技のような事故再現のパートが薄れてしまうほどだ。
 
 
 大事故というものは「小さな偶然の積み重ね」で起こる、とはよく言われる指摘である。事故もののドキュメンタリーを見てもいつもそう思うし、大川小学校の事故もそうである。何か一つでも要素が欠けていたら、この事故は起こらなかったのではないかと思えてくる。
 この「大事故は『小さな偶然の積み重ね』で起こる」というのは、偶然の数が溜まれば溜まるほど、事故の規模が直線的に大きくなるのではない。それこそダムが決壊するように、ある時点まで偶然が重なった時にそこで一気に大事故として暴発するのである。
 なので、大事故を防ぐには「小さな偶然」を積み重ねないようにするしかない。だけど「小さな偶然を重ねてしまいやすい」環境というのがあるのだなというのは本書を読んでわかったことである。それが「他に似たような状況下にあった学校が他にもあったのに、なぜ大川小学校にだけが破滅的な事故に至ったのか」に特に収斂される。
 ここにひとりの校長が登場する。この校長の学校運営方針こそが「小さな偶然を重ねてしまいやすい」環境をつくってしまったことになる。そういう意味でこの校長の存在はセンセーショナルではあるが、想像力を働かせるに、この大事故さえなければ、この校長の立ち振る舞いも、あきれてはしまうが、決して稀有なものではない、保身と事なかれに長けた典型的な小役人タイプなのだと思う。こんな感じの人はどこの組織にもいる。僕の勤務先にもいる。僕自身にもこの校長の要素の何%かがあることを否定しない。
 
 ただ、本書を通じてわかることは、そして肝に銘じなければならないのは、つまりこのような小役人的リスクヘッジこそが実は大事故のリスクを高めるというパラドクスである。これはナシム・タレブの「反脆弱性」の話に通じるだろう。目の前のリスクヘッジをとればとるほど、想定外のクライシスを受けやすくなるというパラドクスの見本がここにはある。
 そして、目の前の小さなリスクヘッジをとりたくなるのは、人間の本性といってもよい防衛本能だ。
 人は防衛に入るとき、何を頼りにするかというと「形式」にこだわる。「形式」に防衛の根拠を託すのだ。「形式」を確保することで真理と信託をゆだねるのは、古来から綿々と続く儀式や祭事でも明らかなように、人類が歴史この方もっているソリューションである。儀式や祭事には、この「形式」をとっていれば間違いない、という観点がある。そういう意味では多かれ少なかれ、人にはこの「形式に託す防衛本能」があるのだ。たまたまちょっとそれが肥大気味だった人があのとき大川小学校の校長に赴任していたということであり、そういうタイプの人をスクリーニングで排除できない人事の仕組みが行政側にあったということである。また、石巻教育委員会も第三者委員会もこの「形式」に逃げ込む防衛本能に抗えなかった。
 
 しかし、「形式主義」に陥った時、そこに「小さな偶然を重ねる」スキが生まれるのである。それが大川小学校の子どもたちを襲ったのである。
 
 
 つまり「形式主義」に逃げないようにするには、人々にそのような防衛心を起こさせないようにすることが大事ということになる。
 とは言うものの「形式主義」に逃げないというのはある意味で人間の本能に反していることでもあり、一種の超人を期待するということに等しい。そういう人間になることを求め過ぎるのも一般解ではないだろう。「政策に対策あり」ではないが、ますます見えないところでの「形式主義」に追い込む危険もある。(震災後の分厚いマニュアル作りのエピソードなどまさにそうである)
 むしろ人を追い詰め、当人をして形式主義に逃げ込ませてしまうような制度や組織こそが諸悪の根源ということになる。本書はそれについても提言している。さいきん「心理的安全性」というキーワードが流行りつつあるが、これなんかも「形式主義」に逃げないためのひとつの方針であろう。
 また、「形式主義」に抗う方法として「真の優先順位は何か?」というのを常に掲げておくのも大事だろう。
 
 それにしても「本質」というタイトルがつく本にはハズレがないように思う。もちろん元祖は「失敗の本質」だろうが、以降「本質」を名乗るからにはこの「失敗の本質」がベンチマークになり、いい加減なことは書けないというプレシャーと気負いが著者にも出版社にも出てくるのではないかと思う。それに本書では菊澤研宗氏の組織の不条理」がしばしば引用されるが、この「組織の不条理」はタイトルこそ「本質」が出てこないが「失敗の本質」に正面から挑戦した本であった。
 
 著者がいうように「形式」の対義語は「本質」である。
 「形式」と「本質」が逆転した例(あるいは「手段」と「目的」が逆転した例)は、巷にあふれるが、それは「形式」と「本質」は我々の想像以上に容易に反転するということでもあるし、「形式」と「本質」を反転させないためには相当に強い鉄の意思が必要でもあるということだ。

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