読書の記録

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美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日

2023年08月01日 | 複数覚え書き
美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日
 
 
 すこし更新が滞った。読んではいるのだけど、どうもこちらにまとめようとするとうまくオチなかったり、整理できなかったりしている。
 というわけで、いったんこちらにまとめて記録。そのうちサルベージしてちゃんと書くかもしれない。
 
 
美しき愚かものたちのタブロー (ネタバレ)
原田マハ
文藝春秋
 
 東京の上野にある国立西洋近代美術館に所蔵されている美術品の中核をなすのは松方幸次郎コレクションだ。極東にある西洋美術館といって侮れない。松方コレクションの質量は、実は世界的に見ても遜色がない。もちろんルーブルやメトロポリタンのような膨大な所蔵数は要していないものの、その粒揃い度としては決して悪いものではない。
 しかし、当初の松方コレクションは現状よりももっと膨大だった。松方がヨーロッパで絵画を買い付けしてから、現在に至るまでは二度の大戦があり、これらのコレクションの命運には幾多のドラマがあった。
 といった史実をベースに、フィクションを大なり小なり混ぜて、このコレクションに関わった人物たちの小説にしたのが本書。実は定評ある原田マハを僕は読んだことがなく、本書が初めてであった。冒頭からしばらくは人物描写が類型的で陰影がなく(豪胆な人はどこまでも豪胆な人、暗愚な人はどこまでも暗愚な人)、ダレ気味なところがあって読むのをやめようかと思ったが、中程で日置釘三郎が登場するあたりから面白くなってきた。この小説は、松方幸次郎をはじめ何人もの人物が出てくるが、白眉は第二次世界大戦中に松方コレクションの命運を背負った日置釘三郎だろう。これもフィクションが多いに交じっていて本小説のどこまでが史実なのかちょっとわからないが、あまり資料が残されていない人物のようだ。ただ、この人が松方コレクションを守ったのは事実だ。事実は小説より奇なりというが、この人はほんとどうやってナチスの支配を逃れたのだろうか。この人のことだけをもっとクローズアップした物語を見てみたい。
 
 
指導者の不条理
菊澤研宗
PHP研究所
 
 名著「失敗の本質」にケンカを売った「組織の不条理」でメジャーデビューした著者もあれから幾星霜。野中郁次郎とも邂逅し、研鑽も積んで最新の境地が本書とのこと。カントの「理性批判」を引き合いに出すところまで至った。そのココロは、組織は合理的な判断を繰り返すと最後は腐敗するという宿命があり、それを克服するには組織のリーダーに合理的判断を超える道徳的判断が必要ということ。野中郁次郎が提唱する「共通善」とも近い話だ。確かにそうかもしれぬ。組織のトップに上がり、そこで君臨するということは、基本的に頭がよくないとできない。しかし「頭がよい」というのはなかなか厄介で、世の中の変化は個人の頭の良さの手に負えない状況をしばしば作り出す。そこで従来頭の良いそのトップリーダーは合理的判断をするのだが、まあたいていの人間は自分を含めた目下の立場を守ることを最優先になるよう判断し、なまじ頭がいいだけに妙な理屈やロジックやその場の切り抜けを考え付いちゃうのである。目下、中古車ビジネスのビッグモーターの不祥事が世をにぎわせているが、あの創業者一族はかなり頭がよかったのだろう。
 それにしても本書がケンカをうったのは、あの山本七平の「『空気』の研究」である。この著者、永遠のチャレンジャー男なんだろうか。
 
 
 
海と毒薬
遠藤周作
講談社
 
 名作の誉れ高い作品である。もう十分に古典かもしれない。
 ここでも書いたけれど、遠藤周作という人は、戦後昭和を代表する小説家である。その作品の幅はかなり広くてこれぞ文学芸術というものもあれば、とてもセンチメンタルな大衆娯楽的なものもあった。ただ、この人は非常に技巧家というか、たいしたことがない話でも炎の名作のように書き立ててしまう筆の立つところがあるなと思っていた。浅田次郎は遠藤周作の系譜の先にあるというのは僕の与太話である。
 絵画でいえばドラクロワのようなとでも言おうか、温度や湿度まで感じさせるような描写は、映画を見ているごとくその世界に引き込まれるが、その美文が目くらましになって、作品テーマのかんじんなところが実はかえって見えにくくなることがあるかもしれない。もちろん本作「海と毒薬」は遠藤周作の初期代表作だけに、その中身についても十分に鑑賞・議論されているわけだが、本作のテーマが人間の罪と罰、原罪、陳腐な悪といった哲学的命題というものを持っていたにもかかわらず、「捕虜の生体実験」というスキャンダラスな犯罪の告発としてとらわれてしまうきらいがあったというのは、この感情移入させまくりの描写にもあるんだろうなと思った。
 反対にプロットだけ借りてヘミングウェイのような、あるいは安部公房のような文体でこの話を綴ったら、どうにもできない人間のもつ不条理さが浮かび上がる小説になったかもしれない。こういう実験ってAIの今日やってみると面白いかもしれない。
 
 
 
イワン・デニーソヴィチの一日
ソルジェニー・ツィン
新潮社
 
 さしずめ「強制収容労働施設版ていねいな暮らし」といったところか。小説ではあるが、著者の実体験がベースになっている。
 太平洋戦争後のシベリア抑留でも多くの日本人が犠牲になったソ連の強制収容労働施設ラーゲリは、社会主義政治手法の悪名高き仕組みのひとつだ。単純な犯罪というよりは、政治犯思想犯あるいは戦争捕虜から抵抗勢力とされたかなり多くの人物がここに送り込まれた。その毎日の過酷さは想像を絶するものがある。本小説の主人公シューホフはここで10年間収容されている。
 凄惨きわまる強制収容所の日々に生きる望みを見出す、といえば名著「夜と霧」がある。「夜と霧」で著者フランクルが記したのは「生還してやりたいこと」をもつ希望であった。与えられてしまったこの人生をどう試すのかは自分次第である、という意思であった。
 「夜と霧」は語り継がれる名著であり、日本ではロングセラーだが、一方この「イワン・デニーソヴィチの一日」はそこまで知られていない。ノーベル文学賞を受賞していて文学界では名作の地位を得ているかもしれないが、「夜と霧」のほうな絶対的教養の書のような地位にはない。
 だけど、「夜と霧」だけではない。そういうやり方で生き過ごす幸福の作り方もあるのだ、というのを本書は示唆している。主人公のシューホフは、自分の裁量と工夫の余地をつくることに幸福の手がかりを見つけている。実はこれが幸福感を左右する因子なのだとすることは、ユヴァル・ハラリが「サピエンス全史」で挙げていた原始時代の人間と、現代の人間が人生に「幸せ」を感じる程度はそこまで変わらないのではないかという仮説や、今日的議題であるWell Beingの話などとも絡みそうだとは予感していて、ここらあたりをちゃんと解題しようかなと思ってるのだけど、どうもうまくまだ整理できていないのでいったんここで匙投げ。

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