読書の記録

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ウェブは菩薩である

2008年08月20日 | テクノロジー
ウェブは菩薩である---深見嘉明

 たとえばホームページのような文字列を主体とした(もちろん画像もあるわけだけど)情報を検索する場合、その文字列に含まれていそうな単語や文章を入力して検索する。この場合、入力される情報の形態も、検索の結果出力されるものも、両方とも「文字列」である。これ、当たり前のことを書いている。

 が、これが「動画」を探す、「何かおもしろそうなもの」を探す、「漠然と今自分が何を欲しがっているのか」を探すとなると、検索の際、何を入力すべきかが俄然困難となる。入力すべき手段は「文字列」しかないため、自分が想定する「動画」なり、「何かおもしろそうなもの」なり、「漠然と今自分が何を欲しがっているもの」なりを、文字列に「翻訳」ないしは「意訳」しなければならない。
 各人がてんでばらばら勝手に「翻訳」することを前提にしてしまっては、検索エンジンは機能しない。そこでメタデータなるものが出てくる。この「動画」は、「何かおもしろそうなもの」は、「漠然と今自分が何を欲しがっているもの」は、こういう「文字列」にしましょう、というユーザー間の共通認識である。

 この「共通認識」を、運営側のトップダウンでなくて、ユーザーからのボトムアップでつくりあげていくのが、昨今のメタデータ検索だ。youtubeやニコニコ動画に見られる「才能の無駄遣い」とか「弾いてみた」とか、はてなの「これはひどい」とか、日本語の妙を凝らしたものがいくつもある。これらは淘汰の末に残った「名翻訳」である。
 
 もっとハイパーなメタデータは、本人が入力していることさえ意識しない、つまりその人の検索履歴や閲覧履歴を勝手にデータベース化しておいて、こういう画像や商品を見る人は、こんな画像や商品も好む、と統計的に分析してそれを提示するというやつで、amazonのおすすめや、youtubeの関連動画などがこれ。もっとも、amazonに限っては、僕はこのおすすめされたもので触手が動いたことがほとんどないので、もしかしたらまだまだ精度に問題はあるのかもしれない。

 いずれにしても、データもメタデータも、メタメタデータも、ボトムアップで形成され、そこから新たな知識情報が編纂されて展開される。利己と利他の渾然一体で、「菩薩」とはよくも言ったりだ。


 さて、「菩薩」の悪用というか、かすめ取りで、何かと問題なのが、学校などで課される論文やレポートや感想文のコピペである。ついには提出された論文がコピペかどうか判定するソフトまで開発された。今の時期は、読書感想文のコピペが相次いでいると思われる。

 「無断引用」はウェブに限らず御法度ではあるのだが、中には勝手にコピーしていいよ、というサイトや、合法的に上手にコピペする方法などをうたったサイトもある。何しろ相手は利己利他を超越した「菩薩」なのであって、チンケなコピペ禁止などはいくらでも覆す懐の深さを持っている。コピペが発覚されようと、処分されるのはコピペした個人であって、菩薩であるウェブそのものは、個人の利己と利他を餌にして、菩薩の世界はますます豊穣に広がっていく。

 読書感想文というものが、教育指導としてどうなのかという疑問はずっとあるのだが、コピペ禁止をいくらうたっても、これは情報の非対称性がつきまとう問題である限り、永遠のいたちごっこだろう。技術革新にもからむ話なので、そんなに自力で書かせたいのなら、学校側も時代にならって課題の設定というのを考えてみてはどうか。例えば「『伊豆の踊り子』と『我が家の家族旅行』」というタイトルで感想文を書いてみろ、とか、「伊豆の踊り子」と「雪国」の2冊の本を読んで、あわせて1つの感想を書いてみろ、とか。相手が高校生くらいならば「伊豆の踊り子」の感想を書いているサイトを3つ探し出してきて、それぞれの相違点を分析し、その相違は何に起因しているものか論ぜよ」とか。

 評価採点する側がいちいち個人の事情や原文にあたらなくて大変というのならば、それは評価者の怠慢である。評価者の評価軸は、これまでの通例や指導要綱に基づいて行うのだとすれば、それが「慣習」からのコピペでなくてなんであろう。

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