読書の記録

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続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)

2023年10月30日 | 小説・文芸
続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)
 
黒柳徹子
講談社
 
 「窓ぎわのトットちゃん」を初めて読んだのは小学3年生のころだっただろうか。学校の授業だった。読んだのではなくて、学校の先生が朗読してくれたような気がする。
 最初のうちはトットちゃんのとぼけたなりふりの描写やトモエ学園のユニークな授業や行事が面白くて、教室のみんなも笑っていたのだが、そのうちに同級生が亡くなったり、愛犬が失踪したり、日本は太平洋戦争に突入するなど、物語は悲しみを帯びるようになっていった。そしてトモエ学園は空襲で焼けてしまい、トットちゃんは疎開のための夜行列車に乗って揺られるところで物語は終わる。当時は子供向けのコンテンツしか接してなかったから、こんな終結で閉じる物語は初めてで、虚無の真ん中に放り出されるような気持ちがしたものだった。
 
 このトットちゃんの正体は「黒柳徹子」である、というのは当時の僕も知ってはいたはずだ。当時の我が家では歌番組「ザ・ベストテン」を毎週みていたから、司会の黒柳徹子はしっかり認識していた。しかし。知識としては知っていても、テレビ画面の向こうにいる玉ねぎおばさんがトットちゃんと同一人物であるというリアリティはまったくなかった。物語に出てくるトットちゃんのイメージは、挿絵にあるいわさきちひろが描くこどもの絵以外にはありえなかった。「窓ぎわのトットちゃん」に挿されたいわさきちひろの絵は、実は描きおろしではない。既発表の作品の中からそれらしいものを集めたものだ。しかし「窓ぎわのトットちゃん=いわさきちひろ」のイメージは分かちがたい。なにしろ大ベストセラーかつ大ロングセラーである。大方の日本人がそうだったろうと思う。
 
 
 そんな「窓ぎわのトットちゃん」の続編が刊行されたというのを新聞広告か何かで見た。出版業界的には大ニュースだったはずだが、めぐり合わせの問題か書評や評判に接することも特になかったので、僕はすぐに刊行の事実を忘れてしまい、そのまま数か月経ってしまった。
 
 ところが先日、書店をひやかしで覗いてみたら、平積みであのいわさきちひろの絵が飛び込んできた。その瞬間「窓ぎわのトットちゃん」の世界がよみがえってきた。
 東北にむかう満員の夜行列車の中でうずくまっていたトットちゃんがその後どうなったのかは気にならないではなかった。むしろ幼少期に味わった読後感の記憶としてはトラウマのようなインパクトがあったと言ってもよい。平積みしていた「続 窓ぎわのトットちゃん」を掴んでレジに持っていった。
 
 
 続編は、前作の最終回から少し時間を巻き戻してスタートする。疎開にむかう列車に乗るところで実はトットちゃんは家族とはぐれてしまうのである。疎開先で無事に家族とは再会できたものの、その後も苦難と工夫の日々がある。父親は徴兵されたまま音信不通であり、一家を支えるためにトットちゃん母は超人的な奮闘をする(黒柳朝。この人も徹子に負けないほどのなかなか凄い人で「チョッちゃん」という名でNHKの連続ドラマになったこともある)。銃後の生活や戦後すぐの混乱がどんなであったかという記録という意味でも貴重だが、一方でトットちゃんはあいかわらずのトットちゃんで、定期券を川に落としたり、線路にぶらさがったりする。村にやってくる旅芸人の一座を最前列で眺め、座長にスカウトされそうになったりする。いわさきちひろの挿絵にあるような、夢幻的な子どもの世界が醸し出される。
 
 しかし、戦後復興の日本がそうだったように、事態は加速度的に変化していく。トットちゃんも疎開先から東京に戻って香蘭中学校に通うようになる。映画館に通い出し、オペラに夢中になり、さらには音楽学校への入学、NHK専属女優のオーディション合格、芝居のお稽古、そして様々なテレビやラジオの出演となっていく。ラジオドラマの吹込みの仕事でその独特のしゃべり方や声の大きさを先輩や周辺から指摘されるあたり、むしろ我々の知る黒柳徹子である。そう「続 窓ぎわのトットちゃん」は、トットちゃんから黒柳徹子に変貌していく物語なのだ。渥美清や中尾ミエといった我々もよく知る名前の人物と交わりだし、紅白歌合戦の司会などにも抜擢される。あいかわらず人称はトットちゃんだけど、もういわさきちひろのトットちゃんではない。きりっと前をみて、その旺盛なサービス精神と直情的なひらめきでマシンガントークする黒柳徹子その人である。牧歌的ないわさきちひろの挿絵に代わってはつらつとしたご本人の写真が挿入される。前作最終回で心細く夜行列車でうずくまっていた少女は、本作最終回では芝居の留学のために洋々と国際線の飛行機に乗り込む。トットちゃんはもう窓ぎわにはいない。日本のテレビ放送普及のヒストリーと足並みを揃え、全国のテレビ画面に映るその人になったのだ。
 
 
 だいぶ以前だが、いちど人の紹介でテレビ番組「世界ふしぎ発見」の収録現場を見学する機会があった。1時間弱のクイズ番組だが、実際の収録時間はもっとずっと長くて3時間くらい要していた。ちょっと撮影してはとめて、ちょっと撮影してはとめる。テレビで観ていると、クエッションという名のクイズ問題が出ると回答者はみんなすぐさま答えるようなスピード感だが、実際はシンキングタイムがしっかりととられている。しかしそこは間延びするので放映ではカットされているのだ。カメラがまわっているときは野々村真も板東英二もよくしゃべっているが、カメラがまわってないときは下をむいて沈黙していた。観客はその間じっと次のカメラが回るまでを待たされる。
 そんな中、黒柳徹子だけがずっと喋っていた。出演者に対してではない。我々観客席にむかって話しかけるのだ。この問題わかる? さっきの問題あたしあー言ったけど、じつは半分でまかせだったのよ、などと、ずーっと観客にむかって話しかけていた。観客の誰かがそうなんですか? と反応すると、そうなのよ、でもちょっとヒントがよかったのよね、あれだったらたぶん合ってるんじゃないかなと思ったの、などとこちらを見ながら話し続ける。カメラはまわっていない。この人は毎回収録のたびこうなのかと感動した。既に番組が始まって10年以上は経っていたはずだ。底抜けにサービス精神が旺盛だし、それが自然体だった。授業中に窓ぎわから壁のむこうのツバメに話しかけていたトットちゃんを見た思いがした。

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