読書の記録

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老後とピアノ

2023年06月18日 | クラシック音楽
老後とピアノ
 
稲垣えみ子
ポプラ社
 
 あー、あのアフロの髪型した新聞記者だ。いまは新聞社を退職してコラムニストとして独立しているそうだ。
 その著者が齢50才にしてピアノのレッスンを再開したという話である。
 
 著者は子どものころはピアノをならっていたようで、モーツァルトの「きらきら星変奏曲」までは行ったらしい。そこそこテクニカルな曲である。しかしついにレッスンをやめてしまう。そして40年後、退職を契機に再開したとのことである。その動機には、ドビュッシーのピアノ曲「月の光」を弾きたいという目標があったそうだ。
 
 
 著者とぼくは同じ年代である。だから著者の言わんとすることはいちいちよくわかる。と同時に、こういう大人は実はいま日本にとても多いと思う。要するに団塊Jr世代。この世代が小学生のころ、空前のピアノ習い事ブームが日本に起こったのだ。あちこちの家庭でアップライトピアノが搬入され、ヤマハ音楽教室から町の個人ピアノ教室まで、当時のこどもたち就中女の子たちはピアノのお稽古に通ったのだった。国民ひとりあたりピアノの台数がぶっちぎりで世界一だったという。
 だけど、多くは小学生を終えるときには、長くても高校受験前にはその習い事は卒業する。タケモトピアノがビジネスとして長く成立しているのは、各ご家庭に弾かれなくなったアップライトピアノがたくさん眠っているからである。
 
 たいていの子どもたちにとってピアノのレッスンは苦痛であった。もちろん、カッコいい曲をさっそうと弾くのは快感には違いないが、そうなる以前として子どもたちの前に立ちはだかったのは実に実にクソ面白くない練習であった。ハノン、バイエル、チェルニー。それらの多くは非音楽的な音符の反復であって、野球やサッカーの前にひたすら基礎体力のためのトレーニングをするのと同様であった。
 また、子どもたちに与えられる学習用の楽曲も、決して子供心に面白いものではなかった。バッハの小曲、モーツァルトのソナタ、クレメンティやクーラウのソナチネといったたぐいである。これらの様式美を芸術的に感じ取るには、子どもはあまりにも幼すぎる。子どもたちの感覚にもあう学習曲といえばブルミギュラーくらいだろう。
 
 本当はこれらを我慢して凌ぐと、やがてシューベルトやショパンといった多少なりとも色気のあるメロディを持った曲に突入する。勇ましくカッコいいベートーヴェンのソナタにも挑戦することになる。
 だけど、これらの曲はこれはこれでやはり厳しい壁に直面する。なんといってもピアノの先生の罵詈雑言、ひたすらダメ出しの洗礼を浴びるのだ。なぜか昭和のピアノの先生と自動車運転教習所の教官はそれが特権のようにとにかく人格を否定してくるのだった。
 
 そういう辛いピアノお稽古時代を経験した子供たちがいま年齢にして50代以上にけっこういるはずなのである。そして、練習は嫌いで習うのは途中でやめちゃったけど、でもピアノを弾けること自体は「アリかも」という心を抱えている。アコガレのあの曲を自分でも弾けたら、と。
 
 そして、子育ても一段落して、あるいはばりばりの仕事人生もちょっと疲れて、あるいは年齢的にいろいろ思うことがあって、いま改めて白黒の鍵盤の前に座ってみる。目の前に楽譜が開いてある。子どものころあれだけ練習したのだから、ひょっとするとまたいけるんじゃないかーー
 
 
 はい。私はこの著者とまったく同じなのである。小学3年生のときに著者同様「きらきら星変奏曲」までいって、ついにレッスンに根を上げた。もっと正確に言うとあまりにも抵抗して逃げ出そうとする僕に、とうとうというやっとというか、親が根負けしたのである。僕は最後までモーツァルトもバッハも嫌いだった。
 
 ところがそこから何年か経ってピアノを弾いてみようと思ったのである。きっかけがなんと著者と同じくドビュッシーの「月の光」だ。ひょっとしてこれよくあるパターンなのか? 僕の場合はこれが中学3年生のときにきた。学校の音楽の授業で、鑑賞の時間というのがあってこの曲を教室で聞いて、そして衝撃を受けたのである。
 「月の光」は、ピアノのお稽古でさらわされた楽曲の常識を根底から覆すハーモニーと構成をもった曲だった。こんな摩訶不思議な美しい響きをピアノから本当に出せるの? 
 つまり、子どものお稽古で練習する曲というのはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンあるいはその同時代の作曲家の様式ということで、実に折り目正しい古典的なドミソの和音の世界なのだ。ところが「月の光」は違う。近代フランスの革命的響きを持ち、その後の坂本龍一や久石譲のピアノ曲にそのままつながるような新鮮な和音が特徴なのだ。
 町の楽器屋さんにいって「月の光」の楽譜を探した。久しぶりに鍵盤の前に座っておそるおそる楽譜のおたまじゃくしを数えたのが中学3年。そこから僕はピアノの虜になった。毎日のようにピアノにむかうので、あまりにもうるさくて親が受験勉強が終わるまで禁止令をだしたほどだ。独学だったので今思うに正確性については噴飯物であっただろうが、大学生のころまで僕はけっこう暇さえあれば自宅のアップライトピアノや電子ピアノを弾いてそれなりに指が動くようになった。そしてクラシック音楽はぼくの一大趣味となった。
 
 しかし、大学を卒業して社会人になると日々多忙な会社生活になり、まったく弾くことがなくなった。結婚して子どもも生まれてますますそれどころではなくなってしまった。クラシック音楽を聴くことはずっと好きなままで、中でもピアノ曲を聞くことは大好きだったが、自分で弾くようなことは稀の稀となった。唯一の例外は学生時代の友人の結婚式でポピュラー曲を弾いたくらいである。
 
 数年前、40代後半になって我が家に新しい電子ピアノがきた。少しばかり趣味に時間をさいてもいいだろうという頃合いだったのである。電子ピアノの前に座り、死蔵していた楽譜を段ボールから引っ張り出して開いてみた。
 はい。ここから先、本書とまっっっっったく同じなのである。これが「老化」というやつなのだ、ということに愕然とする。
 
 まず、指が開かない。若いころは鍵盤をいちいち眺めなくても、楽譜に書いてある和音の形をみれば、どんな具合の指の構えになるかさっと脳が判断し、適切に指を鍵盤におろすことができた。それがぜんぜんできない。指の付け根や関節がこちこちに固まっている。そもそも1オクターブの幅はどのくらいのものなのかを手のひらが覚えていない。適当な感覚で指をおろすとぐちゃっと不協和音が鳴る。
 左手の動かなさぶりといったらひどいものである。指はもつれて細部ぶっつぶれとなる。若いころは1オクターブを越す跳躍だってやってのけたのに、もうまったくあたりがつかめない。
 
 そもそも、脳が想定しているように指や腕が動いていないのだ。頭の中では10センチ指を移動させているつもりが実際は8センチしか動いていない。さいきん、階段や段差でけつまずくことが増えた。これも頭の中で思っているよりも足が上がっていないことに起因する。老化とは脳神経と筋肉が乖離していくことなのだなという事実を知る。
 
 だいたい、楽譜が良く見えない。老眼である。眉間にしわを寄せてようやく該当箇所のおたまじゃくしの輪郭が顕わになってくるが、でもその隣の小節はぼんやりとかすんでしまっている。本当は次の小節くらいまでは視野にはいっていないと先の展開が想定できず、楽譜見ながらの演奏ははかどらないのだが。
 
 そして、とにかく曲が覚えられない。かつては数回フレーズを繰り返せば指が覚えた。頭にも入った。
 それがいまや、何度やっても覚えられないのだ。1小節先も闇どころか、楽譜を見ないと、曲の冒頭の音がドミソのどれだったかさえいつまでたっても覚えていない。
 
 こんなはずはなかったのに、ととまどいながら一心不乱に楽譜と鍵盤にむかいあってがちゃがちゃやってると、今度はあろうことか首と肩と腰が痛くなって悲鳴を上げる。若い頃は一晩中だって弾いていたのだが、もう頸の後ろがばりばりになって整体のお世話になる始末である。
 
 そんなぐちゃぐちゃでも何度も悪戦苦闘していれば自宅の練習ではそれとなく形になったような気がしてくる。でもこれが何かの調子で人前で弾くようなことになったとき、それは友人宅でもストリートピアノでもいいのだが、その非常空間では頭はパニックをおこし、筋肉は硬直し、指先はぶるぶるで、自宅で弾いていた感覚も頭のなかの記憶もすべてふっとぶ。老化とはプレッシャーにも弱くなるのだ。日頃いくら念頭においても、こうしてオレオレ詐欺にかかるのだななどと変なところで納得する。
 
 ・・・・・つまり、本書で書かれていることと全く同じなのである。本書のエピソードいちいちがマジでその通り。著者がそうで僕がそうだということは、同様の50代が日本中に存在するということだろう。「大人のピアノあるある」としか言いようがない。ピアノを通じておのれの身体と精神の老化をこれ以上ないくらいの残酷さで味わうのである。自信喪失、お先真っ暗、もう夢も希望もない。
 
 
 しかし。本書のタイトルは「老後とピアノ」であって「老化とピアノ」ではない。
 著者は、意のままにならない身体と精神に悪戦苦闘しながらピアノの練習を続ける。
 そんな縮退する己自身を見つめながら、著者は壮大な老後の期待を語る。今一瞬の輝き、楽しみを大事にする。あまりにも豊穣なクラシック音楽の世界。そこには数多な作曲家がいて数多な作品があり、数多な演奏家がそれを数多な解釈で演奏する。それらに分け入り、これならば自分でもちょっとは弾けるかも、この演奏家の弾き方をマネしたいかもとたぐりよせ、ふるふると鍵盤に指をおく。ピアノは脱力して弾くものである。こんな楽しくて奥が深くて果てしない趣味が他にあるだろうか、と著者は喝破する。100回もさらっていればちゃんと0.1歩は前進している。それでいいのである。そして巻末のリスト「これまで挑戦した曲」をみて衝撃的だったのが、著者はちゃんと次々と新たな曲を克服できているのだ。「月の光」は早々にクリアしており、次々と新曲、それもけっこうな難易度の曲が並んでいてびっくりする。そういう「老後」に挑戦しているのだ。
 そうだった。「老化」は避けられない。それでも「老後」は確実に過ごさなければならない。若い人は遠い目標に向かって頑張ればいいが、年寄りはいま目の前のことを楽しむのだ。それでいいのである。
 本書を読んで、僕は本当に勇気をもらった。いまだってピアノの前に座るのは好きである。好きなだけに俺のピアノはもうダメだと打ちひしがれていたのだが、それでいいのだ。人生後半戦もこの趣味を続けようと、ガチで勇気づけられた。

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